明治時代の文明開化とは、綿々と続いてきた日本文化(多分、心音(根)を除く。)を打破し、
欧米の文教制度 ・生活様式 ・風俗などを模倣し、西洋文化を取り入れる事と規定されています。
明治時代の時空間にタイムスリップしてこの目で確認できませんので、ここでも文献の力をお借りします。
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文明開化の歴史
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1868年 9月 8日より明治時代へ。
1869年 1月 開成所 (東京大学の前身) の授業がスタート。 関所の廃止。
(M2)2月 新政府は小学校の設置を奨励。 新聞紙印行条例の制定。 男女混浴の禁止 (東京府)。
3月 新政府は神仏分離令を決定する。廃仏毀釈の嵐。
5月 出版条例の制定。
6月 版籍奉還の勅許、藩知事274人決定。公卿 ・諸侯は華族。 招魂社(靖国神社の前身)が創建。
10月 君が代の作曲 (作曲はイギリス人、フェントン)
12月 東京と横浜間に電信が開通。
1870年 1月 国旗、日の丸のサイズ制定、商船に日の丸を掲げる。
(M3)2月 華族のお歯黒と眉描きの禁止。 ドイツ医学の採用を決定。
3月 東京府、深川工作場を設置し、紡績。
5月 雑誌 「The Far East」 を創刊 (写真入り)。
6月 東京府、小学校を6校設置する(お寺の中に小学校。寺子屋 → 寺小学校)。
7月 弘文 ・淳仁 ・仲恭天皇が天皇系譜に追加。
9月 平民、苗字の使用許可。
10月 岩崎弥太郎、土佐開成商社 (日本郵船、三菱商事の前身) を設立する。
11月 1円本位貨、銀本位制を定める。
12月 横浜毎日新聞を創刊される。
* この年に、背広着用・靴の製造・こうもり傘の使用をし始める。 英、ジェントルマンスタイル。
1871年 3月 郵便制度がスタート。(前島密)
(M4)4月 戸籍法制定される。 「安愚楽鍋」(仮名垣魯文) 出版。
5月 新貨条例を制定、「円」 と「金本位制」。売春業者の新規開業禁止。
7月 文部省の設置。 鑑札制度が廃止、旅行が自由化される。
8月 士族の断髪、脱刀、服装の自由化。平民の羽織袴も無制限に。 華族⇔平民との結婚自由。
* この年に、椅子、テーブルの使用が流行し始める。
1872年 1月 全国戸籍調査実施される。 火消し、いろは組の廃止
(M5)2月 土地永代売買が解禁される。
4月 女性の断髪が流行、なぜか禁止される。 僧侶の妻帯 ・肉食 ・伸髪 ・平服を許可。
6月 自葬の禁止。
8月 学制公布される。 貢租米の金納が許可される。
9月 新橋〜横浜間で鉄道営業がスタート。 横浜にガス灯ともる。 修験道の廃止。
10月 官営富岡製糸場が開業。 人身売買禁止 ・娼妓年季奉公廃止令。
11月 国立銀行条例の制定。 全国徴兵の詔書と徴兵告諭。
12月 太陽暦へ。
* この年に、大阪の渋谷庄三郎がビールを国産。
1873年 1月 尼僧に蓄髪 ・肉食 ・婚姻 ・帰俗の自由。
(M6)2月 年齢を満計算にする。 仇討ち禁止。 キリスト教の解禁。
3月 皇后、お歯黒・眉墨を中止。天皇、断髪。 外国人との結婚解禁。
4月 東京の京橋に西洋料理店、精養軒が開業。 街には、「西洋散髪」 「西洋牛肉」の看板。
5月 妻の離婚請求が許可される。
6月 第一国立銀行設立。
7月 地租改正条例が発布。 証書の認めに、瓜印花押を禁じ、実印を使用する事に。
9月 横浜グランドホテル開業。 横浜でガス灯に点火。 飛脚業の禁止。
12月 佐倉常七 ・井上伊兵衛 ・吉田忠七らが仏、リヨンよりジャカード織機などを携えて帰国する。
* この年に、横浜生糸改会社の社長に原善三郎 (1827〜1899) (横浜生糸商) が就任。
1874年 1月 内務省に勧業寮を設置し、殖産興業を推進。東京警視庁設置。民選議院設立建白書の提出。
(M7)3月 「明六雑誌」創刊。秩禄公債証書発行。
7月 東京、銀座に煉瓦街。
* この年に、浅草 伊勢屋弥兵衛、浜町(芳町)の美人芸者と結婚、お二人洋装、ワインで乾杯。
1875年 2月 横浜〜上海航路定期運行スタート。
(M8)4月 平仮名の絵入新聞が創刊される。
5月 火葬の禁止が廃止。
8月 身体を質とする借金を禁止。
11月 女子師範学校開校。
1876年 3月 群馬商人、初めて生糸を米へ直輸出。 廃刀令公布。 官庁は、日曜定休と土曜半休に。
(M9)4月 満20歳を成年と定める。 政府、品川硝子製造所を開設。
5月 上野公園が開園。
8月 金禄公債証書発行条例 (秩禄処分)。 高橋お伝さんの事件。
9月 北海道開拓使に麦酒 (ビール) 醸造所が設立される。
11月 宮内省雅楽課、初めて洋楽を演奏する。
1877年 4月 東京開成学校と東京医学校を合併し、東京大学が設立。
(M10)6月 国産初の近代軍艦、清輝が竣工。 電話機輸入される。
8月 第1回内国勧業博覧会開催。 長崎と横浜でコレラ発生。
9月 西郷隆盛が自刃、西南戦争、終結。
10月 新町屑糸紡績所が開業。 学習院開校
12月 東京株式取引所設立の許可。
1878年 3月 鉄道局、下等客車内での広告掲示を許可。 東京商工会議所の設立認可。
(M11)6月 東京株式取引所が開業。
* この年に、フェノロサ (米) 来日。 銀座通りの煉瓦街が完成。
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明治時代がスタートしてから、10年間の主な文教制度 ・生活様式 ・風俗などを記してみました。
未だ、この時点では、「電話」 「電灯」 「自動車」 「映画」 ましては、「パソコン」 等は、デビューできていません。
「住 」 に比べ、「食」 と 「衣」 に関しましては、「その気」 さえあれば、いち早く、触れる事が可能です。 |
江戸時代末の戯作者でこの明治時代を過ごした、仮名垣魯文 (1829〜1894) (後の新聞人)、 |
『(万国航海) 西洋道中膝栗毛 十一編下』 (京都大学付属図書館) (1870〜1876年刊)
で着物 (和服) と背広 (洋服) のイラスト (挿し絵) が確認できます。
「弥次」・「北八」 さんが地中海のマルタ島で、珊瑚珠を買い求めている光景。
・彼ら二人は、江戸時代のちょんまげ ・股旅姿。 ↓
・通次 (通訳 = 日本人) は、ざんぎ (散切) り ・洋服姿。 ↓
・異人 (外国人) は、山高帽 ・シャツジャケット姿。(おまけに、アンブレラ (洋風雨傘 = こうもり傘)迄も)
仮名垣魯文も、着物スーツ ⇒ 礼服 ⇒ 背広スーツ ⇒ カジュアルスーツ と云う展開を予想していたのかも。 |
「士農工商老若男女、賢愚貧福(けんぐひんぷく)おしなべて牛鍋食はねば開化不進奴(ひらけねえやつ)。」
で有名な、『安愚楽 (あぐら) 鍋』 (1871年刊) このイラストは絵師、河鍋暁斎 (1831〜1889) が担当。
舞台は、牛鍋屋、浅草蔵前の 「日の出屋」 さん。多分、お肉は 「神戸 ・松阪牛?」。
この挿し絵は、鍋を胡座囲みで和服と洋服、ウェイトレスさんは着物。洋服の彼は、何と、オーバーシャツに。
オーバーシャツは、ズボンの中にシャツを入れず、外に出したお姿、現在なら、とっても 「粋」。
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1886年 4月 帝国大学の制服と制帽を定める。
(M19)6月 三重紡績会社設立。
7月 子午線、及び、標準時の決定 (明石 東経135°)。
8月 近江麻糸紡績会社設立。 登記法の公布。
11月 3日 井上馨外務大臣招待の鹿鳴館大舞踏会。 明治天皇、改正大元帥御正装を着用。
* この年、初めて、米 (アメリカ) 綿を輸入する。 |
鹿鳴館大舞踏会 夜会パーティー |
1883年11月28日に日本で初めての舞踏会 (ダンスパーティー) が、鹿鳴館で行われました。
その際のドレス、山川捨松さんの件は 「鹿鳴館 女性の夜会服 (イブニングドレス)」 で確認下さい。
そのイベント後、3年を経過してますので、女性 ・男性の皆さんはさぞかし腕が上がったと思われます。 |
この鹿鳴館大舞踏会について 「東京日々新聞」 明治19年11月 5日号 に下記の様に記されています。 |
「天長節井上伯爵の夜会
一昨日は、我が皇帝陛下の天長地久の吉辰を祝し奉らんが為 朝の程は
皇族諸大臣 各国公使諸省の勅奏任官、華族の面々何れも
晴れの礼帽盛服を着し馬を走らせ車を軋らせ皇宮に参朝して聖寿を祝し奉り
又、市内にありては高歴々の門戸は申すに及ばす賤が屋の軒端までに国旗を翻して遥かに万歳を唱え
奉れるは実にめでたき事なりかし。
されば、我が外務大臣伯爵 井上馨 同 伯爵夫人のご両所にもこの吉辰を祝し奉らんとて
皇族 大臣 各国公使 を初め 朝野の貴顕紳士
凡(およ)そ千六七百人の方々へ招状を発せられいと盛大なる夜会を
鹿鳴館に催されたり。 中略
午後九時頃参館したるに、先ず館の楼上なる正面には瓦斯燈にて鹿鳴館とへる三字を顕し館の周囲及び
庭園には瓦斯燈と球燈とを建て列らねかけ並べたれば宛(あたかも)ずら白昼の如し。 中略
当夜のご主人 井上伯爵は大臣の盛服を着せられ綬を帯び章を掲げ伯爵夫人と並べ立ちて一々来賓を
迎へらる御両所共にいつもながら笑みを含み温顔もて普く来賓を接せらるれば参られし方々も一入嬉しげに
見受けられぬ。
扨(さて)楼上の正面なる壁には一坪余りあらんと思しき造り菊の扇子を掲げ緑色の扇面に白菊の花にて
Welcome (恭待) の一字を造り出したるは殊に目醒しく見えし。
階上の横手には藤棚を設け山鳥の尾の長々しくも紫の花を垂れたり、その他花瓶の挿花と云ひ、卓上の
飾り花と云ひ、皆菊の花を主として用ひられしは聖上の寿を祝する寓意なるべく、藤の花の長く垂れたるは
大君の御代とこしなへに久しきを寿きたる趣向にやあらん。 中略、
参着せらるる方々を見受くるには、伏見宮 白川宮 両殿下、及び、
御息所大臣には、三條(条) 伊藤 山縣(県) 松方 榎本 の諸公閣下
公使には、英 米独 仏 露 等およそ条約国公使閣下、及び
館員 英国水元師 副提督 ハミルトン君、及び、同国海軍士 御雇外国人 京浜外国領事紳商 その他
我が各省次官 元老院議官 在京府県知事 諸奏任官 華族、及び、紳士紳商など、凡そ、千余名。
或いは、令夫人を伴はれ、或いは、令嬢を携へられたり。
婦人方の服装は、概ね西洋服にて何にて美を競ひ麗を争はれたるは、
暫く措き長き裳を垂れたるは、従来のすそ長がよりも見栄あり。
仏蘭西紋緞子の衣は、唐織錦の打ち掛よりも粹(粋)なり。
尤(最)も、打ち掛を着せられし夫人方は、一二を見受け参らせたるが一と夜会 夜会に追々減少する姿なるは
彌(弥)々(いよいよ) 西洋フハッション (流行) の上等社会に染み込みたる一証にやあらん。
去る流行なれば、縮緬紋付すそ長の奥方 令夫人は一人もなし。
(但し、この前の夜会には屡々(しばしば)見受けたり。) さて、
九時過ぎより踏舞の宴が開かれ内外紳士 貴夫人方の音楽に連れて舞ひ躍らる様はいつもながら感心なり。
但し、新西洋下りの紳士の年々増加すると貴夫人方の踏舞に身を入れらるる方々の月に増加するとにより
前回よりも、今回が我日本紳士 夫人の中に舞い手の増加せるも結構の事なり。 中略
舞踏も終へ諸賓の散ぜられしは、昨日午前の一時頃なりき。
総じて申さばこの日は祝日の上にも天気はよし、その上御主人は井上伯までありつれば、来集の人数も殊に
夥しく観衆も亦(又)た極まりなき様にて稀なる盛会好宴なりき。
左(さ)れば、さしもに、広き鹿鳴館も、一作夜は殊更(ことさ)らに狭きを覚えたりき。」 |
少し、長くなりましたが、この時点の状況 ・情況が良く分かりますので記述してしまいました。 |
「西洋フハッション」 には、思わずくしゃみをしてしまったのかと心配しました。
現在表記の 「ファッション」 を、この当時、「フハッション」 との表現には驚きです。
セレブ (celebrity) の男性の方々の衣装 (メンズファッション) は、「盛服」 です。
名士の殿方の皆さんが、盛り上がったのは、女性の衣装 (レディースファッション) をご覧になったから?
又、バッスルスタイルドレスファッションの生地を 「仏蘭西紋緞子の衣」 と記しています。
「フランス ・オランダ ・スペイン製柄で厚い生地のドレス」 ってな感じかしらん。
更に、この鹿鳴館大舞踏会では、お着物をお召しの女性は皆無となっています。
ハイソ (high society) な令夫人 ・令嬢 「大和撫子」 は、既にこの時点で 「形」 を消滅してしまっています。
女性の皆さんは、グラデーション (同化) に走り、補色 (目立ちたがり) は誰一人選択されていません。
尾形光琳風のアートファッションアドバイザーは、この時点の日本では存在しなかった事になります。
もう一つ気になるのが、鹿鳴館の貴婦人 = 大山巌陸軍大臣 (伯爵) 夫人の捨松さん。
彼女の事には、東京日々新聞は全く触れていません。(この記者も新聞社もこの夜会に招待されています。)
東京日々新聞は、差詰め、外務大臣 伯爵 井上馨 同 伯爵夫人の 「よいしょ」 記事だったのでしょうか? |
― 鹿鳴館大舞踏会への出席 貴顕紳士 (セレブリティー) 名鑑 ― |
伏見宮貞愛殿下 | (1858〜1915) | 彼には男16人女15人のご兄弟。妻は有栖川宮幟仁親王娘 利子さん。 |
この時 28歳 | | 父は伏見宮邦家親王 母は鳥居小路法眼経視の娘、信子さん。 |
| | 西南戦争、日清戦争に参戦。日露戦争は大本営、戦後陸軍大将。 |
白川宮能久殿下 | (1847〜1895) | 彼にも男16人女15人のご兄弟。妻は山内容堂娘 光子さん。 |
この時 39歳 | | 父は伏見宮邦家親王 母は堀内伊勢守嗣善の娘、信子さん。 |
| | 輪王寺 (東叡山寛永寺) 宮法親王になり、江戸幕府側、御旗にされる。 |
三条実美 | (1837〜1891) | 最後の太政大臣 (1871〜1885) この時 内大臣 公爵 |
この時 49歳 | | 父は三条実万 母は土佐藩主山内豊策の娘、紀子さん。 |
伊藤博文 | (1841〜1909) | 長州藩士 この時 総理大臣 伯爵 ビスマルク宰相 大久保利通風意志継承者 |
この時 45歳 | | 父は十蔵 母は琴子さん。 妻は梅子さん。 |
山県有朋 | (1838〜1922) | 長州藩士 この時 内務大臣 伯爵 明治最初の汚職事件(山城屋和助)(M5) |
この時 45歳 | | 父は山県有稔 母は松子さん。 妻は友子さん。 |
松方正義 | (1835〜1924) | 薩摩藩士 この時 大蔵大臣 伯爵 日田で金募り10万両を政府に!(M1) |
この時 51歳 | | 父は松方正恭 母は袈裟子さん。 奥様の名前は不明 |
榎本武揚 | (1836〜1908) | 江戸幕臣 この時 逓信大臣 無爵 蝦夷共和国のリーダー? (M2) |
この時 50歳 | | 父は榎本武規 母は琴さん。 妻はたつさん。 |
井上馨 | (1835〜1915) | 長州藩士 この時 外務大臣 伯爵 尾去沢銅山汚職事件(M6)官辞職 後復帰 |
この時 51歳 | | 父は井上五郎三郎光享 母は房子さん。 妻は武子さん。 |