1493年
細川政元は、前10代将軍足利義材を京都から追放します。義材側からは、京から逃げ出す事になります。
義材は、最初は越中富山の万金丹ではなく、越中国、畠山尚慶(尚順)(1475〜1522) の所に身を寄せます。
1498年には越前国(一乗谷 現在の福井県福井市城戸ノ内町)、朝倉貞景 (1473〜1512) の所へ。
1499年に京の都を目指すますが、六角高頼に阻まれ、一路、周防国へ。そこには西国の雄、大内義興が。
一方、京都では、細川政元が修験道に入れ込み、幕府の仕事に支障を来し、1507年6月に養子の澄之により、
あの世に旅立ちます。7月には父を死に追いやった澄之は、同じく政元の養子の高国との戦闘により討ち死に。
*修験道は、「役小角(えんのおぬず・おづの)を祖と仰ぐ日本仏教で、日本古来の山岳信仰に基づき、山中の修行
による呪力の獲得を目的・・・。」 と広辞苑に記されていますがこの方面は全くの門外漢です。 |
1508年
京の混乱に乗じて、大内義興と足利義材及びサポート九州 ・中国地区軍団 (出雲国守護代、尼子経久 (1495〜
1541) 等) らは、日本の当時の首都である京都に向け1508年の正月に出発します。
この情報を得ていた京都地区軍団、傀儡将軍の足利義澄、執政で細川政元の養子の澄元らは策を巡らせますが
塩梅が悪く、おまけに同じく政元の養子の高国とは仲違いになり、高国は3月に伊賀国に逃亡、
4月に入り、政元は近江国甲賀へ、足利義澄は近江国近江八幡に逃げ出してしまう始末。
有力武将 (コマンダー )は京を去り、京の都に残されたのは、後柏原天皇だけと云う状況になりました。
今谷明氏の 「戦国大名と天皇」 に依りますと、後柏原天皇はとても困窮されたとの事です。
彼は、大内義興に対して、「治罰綸旨 (ちばつりんじ)」 を発給しており、義興を朝敵にしていたからです。
機を見るに敏だったのか、義興と内通していたかは不明ですが、
細川高国はもぬけの殻の京都に帰ります。4月末に和泉国の堺港に着いていた義興軍団に対して、
高国は堺に出向き、義興 ・足利義材に取り入ります。義興の裁断で高国は細川家の家督をゲットする事に。
足利義材 (この時の名前は義尹) は、7月に再度征夷大将軍に復帰し、大内義興は山城国 (京都) の守護に。
大内義興は、足利義材が将軍職に戻ったので、帰国しようと考えている矢先、
後柏原天皇が宸翰 (しんかん 帝直筆の書) を出し、彼の下国を阻止しようとします。
帝と義興との交渉役がこの時代の服の資料でお世話になった 「三条西実隆」 さんです。
大内義興が折れたのか、三条西実隆の説得工作が功を奏したのか判りませんが、
義興はこの年から、1518年までの11年間、京都に留まります。
彼の在京により、京都地区の治安が保たれた事になります。故に、この時のリーダーは大内義興。
義興が京に滞在中、彼息子の大内義隆 (1507〜1551)、重臣の陶興房 (1475〜1539) らが領国を固めていまし
たが、先に帰国した尼子経久により、領国事情が不安定になり、1518年に義興は帰国します。
当然、京都地区は、政局 ・治安が悪化する事態に。
1519年に地元の阿波で燻っていた細川澄元は蜂起します。1520年3月に細川高国らは敗れ入京されます。
しかしながら、同年5月に細川高国らは京を奪還し、澄元は阿波に引き返します。
ここでの問題は、足利義材 (この時の名前は義稙) と細川澄元がつるんでいた事でした。 |
1521年
「室町時代の衣装」 の 「応仁の乱後のお金 ・社会事情」 で触れました様に、
後柏原天皇は1500年に践祚後、幕府財政が窮乏などの理由で、この年まで 「即位式」 が執行されていません。
興福寺の尋尊 (じんそん) (1430〜1508) (父は一条兼良) の伝える所に依りますと、
帝の即位式について、時の管領、細川政元は下記の様に語ったそうです。 |
「朝廷におかれても、即位の大礼の御儀など無益である。
そんな儀式をかりに行ったところで実質が伴っていなければ、
諸人は国王とは認めないだろう。
このまま、大礼がなくとも、臣 (政元) は国王とお認め申す。
従って、一切の大がかりな儀礼は、末代の今、不相応のことである。
手続きを進められても無駄なことだ。」(「戦国大名と天皇」 今谷明 ) |
更に帝をサポートする筈の公家の皆さんまでも、この意見に頷(うなず)いたとの事です。
「権威と儀式」 で生活しているお公家さんがこれでは、ご自分達の存在を否定している事になります。
権威は 「厳 (おごそ) かな儀式」 有っての物種。
これでは、庶民が何にも御利益 (ごりやく) がなく、お賽銭もないからお正月の初詣をパスするのと同じ?
権威や御利益は 「心のなせる問題」、経済的利得だけでは計れない事案の筈です。
ここの処が 「日本文化」 のさせる業 (わざ) のひとつと考えるのですが、如何お思いですか?
H/K これは最近の若者の 「話は変わって」 の略との事。 話を本題に戻します。
その即位式がやっとの金策を以て、ようやく1521年の3月20日に挙行と決定していました。
それにも関わらず、何と細川高国との不和が続いていた足利義材 (義稙) は、
なんとまあ、イベント日の前に、すたこら京都を逃げ出して大切な儀式に参列しなかったのです。
この様な体たらくですので、細川高国はこの年の末にお子さんのいなかった足利義材 (義稙)に見切りを付け、
11代将軍義澄の次男、足利義晴を12代将軍に擁立します。
(義澄の長男は足利義材 (義稙)の養子になっていた為、義晴に。)
暫しの間、平穏の日々でしたが、
1526年4月に後柏原天皇が亡くなり、後奈良天皇が践祚、
践祚式やらお葬式が執り行われ、やっと儀式が終了し 「ほっ」 としようとした最中、
8月に細川高国の身内同士のいざこざが勃発します。高国の処置が悪かった感じで、彼は窮地に追い込まれます。
この機に乗じ、1508年に高国に追い落とさらた細川澄元の遺児、晴元は反高国で動きます。 |
1527年
細川晴元はこの年、未だ、14歳(数え)で、実質は彼の家臣、三好元長の貢献が大。
晴元軍団は、傀儡将軍に時の将軍、足利義晴の兄の足利義維を擁していました。
この年の2月に阿波から晴元軍団の三好元長らが京都に迫り、桂川の合戦で勝ちを収めると、
足利義晴及び細川高国は近江へ逃亡。足利義維は上洛せず堺に留まった為、堺公方と。 |
2人で 「組織」 が出来上がり、3人集結で組織に必ず、「セクト (派閥)・チーム」 が生じます。
この組織を法律用語?では 「法人」 と呼んでいます。
*ここでは、「法人」 を 「個人」 と別ける意味合いで使用しています。
法律上の権利義務が生じる主体、資格などの 「法人」 とお考えにならないで下さい。
人が集結した形が組織=法人です。
1人ですと、ご自分の意思で一応、行くも、退くも、迂回するも対処 ・決定可能です。
組織=法人ですと意思決定の仕方で、 |
独裁・・・組織リーダーの意思で対処 ・決定
合議・・・組織内の方々の意思を無理矢理まとめて決定 |
独裁であろうが合議であろうが、相手 (個人、組織=法人) に意思伝達をする事が必要になります。
この意思伝達をする方 (その意思の責務を負う方) がリーダーと云う事に。
故に、リーダーは、その組織体の代表者 ・トップ ・ボス ・親父? ・お袋です。
組織は、知り合いお友達同士、家族、町内会、会社(利潤を生み出す法人)、以外の法人、国家 等々になります。 |
「意思決定」 の際の一番の基本は、皆さん 「もの心」 がつき始めた頃からうすうす感じ、
齢 (よわい) を重ねる毎にクッキリしてくる 「お金」 になります。早い話は、「利得計算」 です。
若者言葉の 「どっちがお得」 「お得じゃん」 と云う代物です。
私達日本人は、と云うより、昔の日本人はと云っても良いのかも知れませんが、
この事柄を、奥床しくも?はっきり口にする事を 「否」 としてきました。
しかしながら、江戸時代の後期に南蛮人?(ドイツ人)の方が、臆面もなく?さらりと表明されました。 |
「下部構造は上部構造を規定する。」 (カール・○クス) |
かと云いましても、記している私ども ZIPANGU は彼の信奉者では有りませんのでご心配なく。
彼の日本の歴史観にはいささか苦言を呈したいと思っています。
只、彼の凄い所は、ホントに 「言い切った事」 です。この事には、後ろから小さな音で拍手をしたい気持ちです。 |
組織の基本は 「イジメ」 です。
なぜなら、ご自分達の組織にアンチを唱える個人 ・組織に対しては、
「泣き寝入り」 「長い物に巻かれる」 「敵前逃亡」 の対処策を立てず、果敢に挑む事にした場合は、
「イジメ」 の方法論で対処せざるを得ないからです。
「イジメ」 を貫徹する際のツールで物を云うのが、
「お金」 と 「武力」 と 「甘くて辛辣な囁 (ささや) き」 (些細な演出詞)。 |
これらの具体的事例が、この戦国時代の日本で垣間見られます。
決して 「イジメ」 を礼讃 (らいさん) している訳ではありません。現実を見つめ、イジメの対処策として・・・・・。
それでは、たくさん固有名詞が出没して面倒くさいかも知れませんが、少しばかりお付き合い下さい。
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1526年 8月 細川尹賢⇔香西元盛が不和で細川高国が香西元盛を抹殺。 (⇔は対立関係)
香西元盛の兄弟、波多野稙通 ・柳本賢治が高国に叛旗。内藤国貞 (丹波国守護代) も同調
この動きに、細川晴元が呼応、反細川高国軍団結成。。 |
1527年 2月 阿波→堺から三好政長ら、丹波→西岡から柳本賢治らが京都に入り、戦は晴元軍団が勝利。
足利義晴と細川高国は、近江に逃亡。 |
1527年 3月 阿波に待機していた三好家トップの三好元長は足利義維・細川晴元を擁して堺に着陣。 |
1527年 6月 三好元長らは朝廷に足利義維の左馬頭(次期将軍候補)の官位を要求、7月に獲得。
表向き、足利義維 ・細川晴元により三好元長は山城守護代に、柳本賢治は山城郡代に。
足利義晴 ・細川高国側から見ると、クーデター政権となる。 |
1528年 1月 柳本賢治が足利義維 (堺公方) と細川晴元のいる堺に赴き事実に基づかない中傷を (讒言)。
三好元長⇔柳本賢治 この時点で細川晴元軍団、内部分裂。 |
1528年12月 柳本賢治が京都駐留の三好元長軍と戦、敗走して河内へ。 |
1529年 8月 細川晴元⇔三好元長 今度は、晴元と元長が不和。三好元長は阿波国へ帰郷。 |
1529年 9月 一方、細川高国は反撃の為、地方協力者求めの旅。
近江、六角定頼氏→伊賀、仁木義広氏→伊勢、北畠晴具氏→越前、朝倉教景氏→
出雲、尼子経久氏→備前、浦上村宗 (備前等守護代) と行脚。
既にこの時点では、浦上村宗⇔赤松政村 (播磨 ・備前 ・美作国守護)。 |
1530年 6月 細川高国と浦上村宗は、刺客を放ち、播磨、別所就治の下にいた柳本賢治を暗殺。 |
1530年 8月 細川高国と浦上村宗らは、摂津国に入り、諸城を攻略。 |
1531年 1月 木沢長政 (河内国守護代)(三好元長、柳本賢治が去った後に台頭) が京にいた細川高国を攻撃。 |
1531年 6月 再構築した細川高国 ・浦上村宗軍団は政権奪還に燃え、摂津国に侵入。
細川晴元は阿波の三好元長軍にお願い? 元長は聞き入れ、
長駆、阿波から馳せ参じ、天王寺に籠もる細川高国と浦上村宗を攻撃、浦上村宗は敗死。
細川高国は一旦、尼崎に逃れるも、ここにて自刃。 (天王寺崩れの合戦)
細川晴元軍団、これにて細川高国軍団に勝利し、一応、細川晴元が政権を握る事に。 |
この約4年間の京都は、1528年に六角定頼が細川晴元軍団との和睦交渉を行い、
一時、足利義晴は京に滞在しますが、足利足利義維 との和族不成立に伴い、即、近江に引き返すします。
この交渉で、停戦派の三好元長 ⇔ 主戦派の柳本賢治 ・三好政長 ・細川高国とに分裂。
1527年2月に京都を制圧した三好元長は、1529年8月に細川高国との折り合いが悪くなり阿波に帰ります。
どんな感じで、三好元長と細川高国が仲直りしたのか不明ですが、約2年弱京都はリーダー不在?。
京都を緩衝地帯として、堺と近江の睨み合いが続いていた事になります。
しかし、忘れてならないのは、「後奈良天皇」 が、京都に佇まっておられました。
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1531年 6月 細川高国軍団を壊滅させた三好元長、木沢長政 (1493〜1542) 軍団。
しかしながら、一時、堺を留守にしていた三好元長とその間潤っていた木沢長政が反目します。
木沢長政は本来、河内守護、畠山義堯(たか)の家臣、
早い時期に、畠山義堯を見限り、細川晴元に取り入り、晴元の重用されていました。
故に 「イジメ」 交錯は、三好元長 ・畠山義堯 ⇔ 木沢長政 ・細川晴元の構造に。 |
1532年 5月 両陣営は激突。軍事力に勝る三好元長軍が木沢長政軍を圧倒、木沢長政はあっぷあっぷ。
細川晴元の参謀 (奉行人) の茨木長隆らは、ここで三好元長軍に勝利せんが為、
筋違いの軍事力を借りる事に。 その軍事力が昨今流行の 「一向一揆軍団」 でした。 |
この時、一向宗 (浄土真宗) のトップリーダーは、
本願寺門主10世 証如光教(しょうにょみつのり) (1516〜1554)。父は円如、祖父9世 実如の後を継ぐ(1525年)。 |
1532年 6月 細川晴元の要請により、証如は京、山科より摂津、石山に移動し畿内の門徒衆に出撃命令。
夥しい門徒人数 (10万〜20万とも?) にさすがの三好元長軍も抗しきれず敗退。
三好元長は息子の三好長慶らを郷里、阿波に逃し、堺で討ち死に。
又この時、三好元長側についていた堺公方、足利義維も阿波の平島に引き返し、以後平島公方と。 |
1532年 7月 これで勢いづいた一向一揆軍団。大和国の有徳人 (お金持ち) を中心とした奈良一揆軍団は
興福寺 (藤原家の菩提寺) を襲撃する始末。やがて、畿内、和泉 ・河内 ・摂津に飛び火。
細川晴元政権を揺るがす自体に。細川晴元は一転、一向一揆軍団を潰す作戦に出ます。 |
1532年 8月 一向一揆軍団に対するは、一向宗 (浄土真宗) 以外の宗派、
特に京都町衆(お金持ち)を中心とした法華宗 (日蓮宗) の法華一揆軍団。宗教には宗教を以て?
法華宗の寺院僧兵は勿論、天台宗の延暦寺も荷担します。
プロとしては、六角定頼 (近江国守護) 及び細川晴元軍団。更に、傀儡将軍の足利義晴までも。
京、山科本願寺は孤立し、畿内の援軍をブロックされ、京、本願寺は炎の海に包まれる事に。
証如光教は山科より脱出し、摂津石山に。以後石山が一向宗の本部に。 |
山科本願寺は焼失しますが、一向宗 (浄土真宗) 徒は健在です。故に諍 (いさか) いは継続し続ける事に。
山城国の中心、京都町衆が属する 法華一揆軍団 ⇔ 一向一揆軍団 京の周辺に生計を営む農業従事者の構造。
法華一揆軍団を利用する細川晴元政権。一進一退の攻防戦が続く日々。 |
1533年 6月 何時の日か阿波から和泉か摂津に潜伏?していた細川晴元により父を失った三好長慶 (12歳) が
仲立ちをする形で細川晴元と証如光教は和睦。 (この情報は、三好党側の政治ショーか?)
トップ同士の握手でも、手足となりアクションし、実質利害を伴う方々は中々敵対関係解消に至らず。
この時期細川晴元は根拠地を 堺 (和泉) →伊丹 (摂津) →芥川 (摂津) と移します。京に近づく。 |
土地境界争い、税金徴収獲得先確保等の極めて日常の決済を仰がなくてはならない方々にとっては、ある時は
芥川に、又ある時は、傀儡将軍足利義晴のいる近江、六角定頼の観音寺城近くの桑実寺にと足を運ぶ煩わしさ。 |
1534年 9月 足利義晴は一向宗軍団と法華宗軍団の政治闘争が小安状態になったのを受けお久の京都へ帰郷。 |
一方、泰然自若な?朝廷組織はこの間、高みの見物。後奈良天皇は、ご自分の即位式の挙行実現を計り奔走。
践祚後、費用が集まらず執り行なわれなかった即位式。
その費用を賄ったのが、分国での諸事情で 「天皇の権威」 を必要とした 「戦国大名」。
即位式費用の80%方を請け負ったのが、大内義隆 (1507〜1551)、先年京都に在住した大内義興の息子です。
彼以外は、朝倉孝景(10代) (1493〜1548) 長尾為景 (1471〜1542?) 土岐頼芸 (1502〜1582)。
見返り、ご褒美は、大内義隆→太宰大弐 長尾為景→暗黙の了解 土岐頼芸→美濃守。 |
1536年 2月 後奈良天皇の即位式。 |
1536年 7月 京都一部地域の警察権までも手に入れ、この世の春を謳歌していた法華宗一揆軍団は、
この年の2月に天台宗延暦寺 (山門) の僧 (華王房) と法華宗徒の松本久吉との宗教論争で、
山門側を論破したそうです。 この腹いせと旧宗教集団の新興宗教集団に対するイジメの論理で、
法華宗寺院の焼き討ちの挙にでます。細川晴元は一向宗制圧の目的を達成し目の上のたんこぶに
成っていた法華宗一揆軍団の抹殺を謀ります。山門僧兵と六角定頼軍は攻撃、一向宗徒は敗退。
(天文法華の乱) 京都の町衆が暮らしていた下京地区は焼け野原、上京地区の一部も類焼。
応仁 ・文明の乱以上の被害との事。織田信長が自刃した 「本能寺」 は法華宗寺院で再築寺院。 |
*生憎、「松本問答」 の内容は不明です。高尚な宇宙的な命題だったのでしょうか?ご存じの方はご一報下さい。
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