1008年の時点 道長 43歳 彰子 21歳 妍子 15歳 威子 10歳 寛子 10歳 皆さんのお年は数え。 |
1008年 彰子さんと一条帝との間に敦成親王 (後の後一条天皇) (在位 1016〜1036)(1008〜1036) が誕生 |
1009年 彰子さんと一条帝との間に敦良親王 (後の後朱雀天皇) (在位 1036〜1045)(1009〜1045) が誕生
道長の長男、頼通と源隆姫 (隆子女王) (995〜1087) と婚姻 *源隆姫は後程 |
1011年 一条天皇、三条天皇 (在位 1011〜1016) (976〜1017) に譲位 敦成親王を立(皇)太子にして死去
*藤原行成の 「権記」 には、一条帝が皇太子を敦康親王 (中宮定子との息子で長男) にとの気持ち
を彰子さんは理解していて道長の方針に異を唱えたとか 三条天皇の母は詮子の姉の超子 |
1013年 妍子さんと三条帝との間に禎子内親王 (1013〜1094) が誕生 |
1016年 三条天皇、後一条天皇に譲位 条件は敦明親王(三条帝の長男)を立(皇)太子に 道長は摂政に
*敦明親王(994〜1051)の母は藤原済時 (1→1→2→3→2) (941〜995) のお嬢さん (972〜1025) |
1017年 健康を損ね三条天皇、死去 敦明親王は父の後見がなくなり、皇太子職を敦良親王に譲る
*傷心の敦明親王 (小一条院) をフォローしたのが寛子さん、この年彼の奥様に |
1018年 倫子と道長は、春に威子と後一条天皇をめあわせ、初冬には、威子は後一条帝の中宮=皇后に
*威子の女御から中宮への格上げ儀式が内裏で終わった後、土御門殿(邸)での 「大宴会」
これが 「三人のお嬢さんが皇后になっちゃった。」 って云う 「道長の三女立后」 |
彰子=太皇太后 妍子=皇太后 威子=皇后 目出度い席での、飲めや歌えやの最中道長は、
「この世をば我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」 との歌を披露。 |
白河天皇の乳母は藤原親子さんがご担当されました。
彼女の父は藤原親国で院政の因を創った 「藤原能信」 の家司 (けいし) をしていました。 |
*家司は平安中期以降、親王 ・ 内親王 ・摂関家など高級官僚家の家政お世話係。鎌倉以降は違う意味。 |
親国は歴史を遡りますと、道長の母の時姫さんの兄弟が摂関家の家司となり、そのお孫さんになります。
親子の連れ合いが藤原隆経で、彼女・彼らの息子さんが藤原顕季 (1055〜1123) になります。
藤原隆経も時姫さんの父の藤原仲正と同じ祖先は藤原魚名 (721〜783) になります。
藤原顕季は母親が白河天皇の乳母をおやりになっていましたので 「乳母子」 と云う事になります。
白河天皇は20歳(数え)(1072年)で帝になられ、34歳(1086年)に8歳の息子さんに帝位を譲られ、
後見役の太上天皇(上皇)になりました。 息子さんは堀河天皇 (在位 1086〜1107) (1079〜1107) |
一方、外戚で無くなった摂関家の摂関期間は、
藤原頼通、1017〜1067年 教通、1068〜1075年 師実、1075〜1094年 師通、1094〜1099年
忠実、1105〜1121年 忠通、1121〜1158年 基実、1158〜1166年 基房、1166〜1179年
基通、1179〜1186年 兼実、1186〜1196年 途中 師家、1183.11/21〜1184.1/22 |
基実と基通は 「近衛」 基房と師家は 「松殿」 兼実は 「九条」 後の近衛家 ・九条家の祖 五摂家の走り。 |
戻って、白河天皇 (在位 1072〜1086) (1053〜1129) 藤原顕季 (1055〜1123)
実質的には藤原師通、1099年の死去後が「院政」の始まりになります。
1086年に帝をリタイヤーされた白河院は、初期の頃には息子のサポーターに徹します。
未だ、禎子内親王 (陽明門院) (1013〜1094) お婆さんも健在。政府も藤原師実 ・師通が支えていました。
政府が一応機能していますので、高級貴族はそちらの組織でお仕事をなさっています。
故に白河院 (上皇) のサポーターは勢い 「受領」 層達の中級 ・下級貴族になります。
中でも、白河院が頼りにし、お気に入り近習の1だったのが 「乳母兄弟」 の藤原顕季でした。 |
*受領 (ずりょう) は日本68カ国の国司 (長官) で実際に現地に赴任した方。
*近習 (きんじゅう) は権力者の側近くにいて、色々お世話する方。 |
藤原顕季の父は上国の美濃守(国司)でしたが、顕季は上国の尾張・丹波及び大国の播磨国などを歴任。
その際に得た経済力で都に邸宅を何カ所も作り、その内の六条殿 (邸) が白河院の院庁になった位です。
そのお陰で、顕季の家は代々、五位が極位で有ったのが顕季自身が正三位になりその後も優遇されました。
快挙は彼の息子の長実と彼の奥様、源方子(源俊房のお嬢さん)との間にお生まれになったお嬢さんが、
後に鳥羽天皇 (在位 1107〜1123) (1103〜1156) の奥様 (藤原得子=美福門院) になり
近衛天皇 (在位 1141〜1155) (1139〜1155) をこの世に。 |
次の方は、堀河 ・鳥羽天皇の乳母の藤原光子さん。
彼女の兄、藤原為房 (1049〜1115) (2→1?→4?→5?→1?→3?→1?→1?→1) で藤原北家良門系です。
妹の光子さんのお陰で最終的に参議で正三位になりました。彼の長男、為隆も同様に。共々摂関家の家司。
後の時代の吉田家、甘露寺家、勧修寺家、万里小路家の祖になる方。 |
次男の顕隆は奥さんの藤原悦子さんが鳥羽天皇の乳母で、
お嬢さんが崇徳天皇 (在位 1123〜1141) (1119〜1164) の乳母の恩恵で、参議、権中納言になりました。
「今鏡」 では、彼、藤原顕隆 (1072〜1129) を関白忠実のリタイヤー後、「夜の関白」 と記しています。
更に、藤原光子さんのお嬢さんのお一人が、
待賢門院=藤原璋子で崇徳天皇・後白河天皇 (在位 1155〜1158) (1127〜1192) をお産みになっています。 |
その待賢門院の女房であり後白河天皇の乳母が、藤原朝子さん (紀伊の局) です。
彼女の連れ合いは、武士政権になるきっかけを作った、藤原通憲 (信西) (1106〜1159) です。
彼は、鳥羽上皇の近臣で上皇が亡くなられた後、1156年に平清盛 ・源義朝 ・藤原忠通 ・後白河天皇側に
与し、平忠正 ・源為義 ・源為朝 ・藤原頼長 ・崇徳上皇側との争い (保元の乱) に勝利を収めました。
その後始末として、この平安の世で長い間中止していた死刑罰を復活させたのが彼です。
しかし、1159年、藤原信頼 ・源義朝らのクーデター(平治の乱)により命を落とす事になりました。 |
*藤原頼長 (1120〜1156) は摂関忠通の弟で和漢の書を熟読された勉強家。
*藤原信頼 (1133〜1159) は後白河天皇のご寵愛?を賜った方。 |
最後の方が藤原邦綱 (1122〜1181) (2→2?→1?→1?→2?→2?→1?→2?→1?)のお嬢さん達。
藤原成子さんが、六条天皇 (在位 1165〜1168) (1164〜1176) の乳母。
藤原邦子さんが、高倉天皇 (在位 1168〜1180) (1161〜1181) の乳母。
藤原輔子さんが、安徳天皇 (在位 1180〜1185) (1178〜1185) と建礼門院(平徳子) (1155〜1213) の乳母。
このケースは前の4タイプと異なり、お嬢さん達の恩恵ではなく、藤原邦綱自身の力量になると思います。
摂関忠通 ・基実の家司 ・平清盛とは大のお友達との事。又、彼の4代前の兄弟が紫式部になるそうです。
彼は蔵人頭から権大納言までなりその間各国の受領を歴任して財力を養い貯め込む事をせず、
都 (京都) に邸宅を数多く作り、その邸は後白河院の御所 ・里内裏として使用されたとの事です。
現在の京都御所も彼の邸宅の跡であるとの事です。平安後期、立身出世物語の旗頭的存在です。 「偉い。」 |
*里内裏は内裏焼失時など内裏新造の間、仮に帝がお住まいになった邸。 |