続 平安時代のキャリアウーマン(女房) フロント 摩訶不思議へ Maccafushigi

奈良朝の衣装 奈良 平安朝の衣装 平安 続 平安朝の衣装 続 平安 平安後期〜鎌倉時代の衣装 鎌倉 室町時代の衣装 室町 安土・桃山時代の衣装 安土 ・桃山 江戸時代女性の衣装 江戸 女性 続 江戸時代女性の衣装 続 江戸 女性 江戸時代男性の衣装 江戸 男性
十二単資料 十二単 襲色目と重色目 襲色目 続 襲色目と重色目 続 襲色目 補色と匂い(グラデーション) 補色と匂い 続 補色と匂い(グラデーション) 続 補色と匂い 服の文献資料 服の文献資料 戦国時代 空白の衣装時空 京都 戦国 里内裏の変遷 里内裏

平安キャリア 平安キャリア

<藤原道長を支えたお嬢さん達と紫式部>

前頁の 「平安キャリア」 で、1000年までの女性 (キャリア) の方々の歴史 (時) の流れを紹介しました。
このページでは、それ以後の展開です。素敵な女性 (キャリア) 達の 「お仕事」 ぶりをみて行きます。
中宮定子さんが旅立たれた後、清少納言さんの消息は、良く分かりません。
きっと彼女のことですから、素敵に ・お洒落に ・美しくお過ごしになられたと考えています。
田辺聖子さんのフィクション物語 「むかし ・あけぼの」 では、1027年 (万寿4年) の時点では未だご存命です。
彼女の設定では、紫式部さんはこの年より12〜13年前に41〜42歳でお亡くなりになっています。
何れにせよ平安、否、日本を代表するキャリア女性のお二人には美しすぎて表現する詞を持ち合わせません。
それでは、1000年以降の続きです。

彰子さんは、未だ、数えで13歳でした。故に立派に 「お仕事」 に耐えられるかは、微妙なお年頃。
素敵なお仕事には少しお時間が必要で有ったのかも知れません。
平安時代でも、極めて平安でみやびな時空間だったと思われますので、時の滔々とした流れに身を任せ・・・。
道長は、彰子さんが生まれてから以後、
通うことをお止めになり奥様の倫子さんの土御門殿(邸)で主にお過ごしになっておられた感じです。
ですので彼女のご両親は一条第(邸)にお移りになられたそうです。
その土御門殿(邸)は、当然道長がお住まいになっていますので、
995年以降は回りの方々の 「贈与」 の甲斐あってそれは ・それは素晴らしい邸宅になっていったとの事です。
やがて、1008年里下がりされていた彰子さんは
この土御門殿(邸)で目出度く息子さん(敦成親王)を出産されます。
敦成親王は次男坊ですが長男 (定子さんのお子さん) はサポーターを欠いていましたので、
道長が健康を害さない限り、ほぼ皇位継承を約束されたお子さんでした。
彼は、後に三条天皇の譲位を受けて後一条天皇 になられた方です。。

一方、皆さん大好きな?紫式部さんは1001年頃に夫の藤原宣孝がお亡くなりになります。
「源氏物語」 は彼の他界後に構想され記述されたものと云われています。
大長編スペクタル王朝絵巻物語の圧巻には驚きを隠せません。
今の時代のキーボードで打ち込むのと違い、清楚に墨を擦り、料紙に筆で書き付ける作業が必要です。
1005年或いは1006年始め頃に彰子さんの教養担当お世話係でお勤めになった感じですので、彼女の
「源氏物語」 は京都小宇宙空間においては既に圧倒的な人気があり、写本につぐ写本であったと思われます。
その様な短時間で書き上げる彼女ですので、
どちらかと云うと基本的には非社交的で、
お外でパキパキとお遊びになるタイプでなく、
内なる感情をそこはかとなく、書にしたためる事を得意とした女性に感じるのですが、
皆さんはどう思われますか?
それ程の赤丸急上昇作家の登場に、かの道長さんは彼女をほっときません。
是非とも、我が子 (彰子さん) の教育担当スタッフとしてお願いする事に。
内気な紫式部さんを何とか口説き落とし、彰子さんの教育係になって貰う道長の迫力にも凄さを感じます。
彼は、回りの皆さんに完璧な迄の 「差異表示」 をお示ししています。

<藤原彰子 ・妍子 ・威子 ・寛子さん>            里内裏の変遷 「里内裏の変遷」

1008年の時点 道長 43歳 彰子 21歳 妍子 15歳 威子 10歳  寛子 10歳 皆さんのお年は数え。

1008年 彰子さんと一条帝との間に敦成親王 (後の後一条天皇) (在位 1016〜1036)(1008〜1036) が誕生

1009年 彰子さんと一条帝との間に敦良親王 (後の後朱雀天皇) (在位 1036〜1045)(1009〜1045) が誕生
道長の長男、頼通と源隆姫 (隆子女王) (995〜1087) と婚姻   *源隆姫は後程

1011年 一条天皇、三条天皇 (在位 1011〜1016) (976〜1017) に譲位 敦成親王を立(皇)太子にして死去
*藤原行成の 「権記」 には、一条帝が皇太子を敦康親王 (中宮定子との息子で長男) にとの気持ち
彰子さんは理解していて道長の方針に異を唱えたとか  三条天皇の母は詮子の姉の超子

1013年 妍子さんと三条帝との間に禎子内親王 (1013〜1094) が誕生

1016年 三条天皇、後一条天皇に譲位 条件は敦明親王(三条帝の長男)を立(皇)太子に 道長は摂政に
*敦明親王(994〜1051)の母は藤原済時 (1→1→2→3→2) (941〜995) のお嬢さん (972〜1025)

1017年 健康を損ね三条天皇、死去 敦明親王は父の後見がなくなり、皇太子職を敦良親王に譲る
*傷心の敦明親王 (小一条院) をフォローしたのが寛子さん、この年彼の奥様に

1018年 倫子と道長は、春に威子後一条天皇をめあわせ、初冬には、威子後一条帝の中宮=皇后に
威子の女御から中宮への格上げ儀式が内裏で終わった後、土御門殿(邸)での 「大宴会」
これが 「三人のお嬢さんが皇后になっちゃった。」 って云う 「道長の三女立后」

彰子=太皇太后 妍子=皇太后 威子=皇后  目出度い席での、飲めや歌えやの最中道長は、
「この世をば我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」 との歌を披露。

<藤原嬉子 ・尊子さん>

1018年の時点 道長 53歳 嬉子 12歳 尊子 12歳 皆さんのお年は数え。

1021年 嬉子さんと13歳の敦良親王 (後の後朱雀天皇)と婚姻

1024年 尊子さんと源師房と婚姻

1025年 嬉子さんと敦良親王 の間に親仁親王 (後の後冷泉天皇)(在位 1045〜1068)(1025〜1068) が誕生
嬉子さんは、産後の肥立ちが悪くお亡くなりになります。

1027年 藤原道長さん、ご逝去

1035年 尊子さんと源師房 (1010〜1077) の間に源俊房 (1035〜1121) が誕生

1037年 尊子さんと源師房の間に源顕房 (1037〜1094) が誕生

*源隆姫と源師房 母は為平親王 (952〜1010) のお嬢さんで父は具平親王 (964〜1009)。
お二人の親王の父は村上天皇 (在位 946〜967)(926〜967)。
為平親王の奥様が源高明のお嬢さんだった事が安和の変の因。
源師房は道長の長男、頼通(奥様は源隆姫)の猶子(養子)になった。
道長は、頼通に息子ができなかった場合は源師房に継がせと云ったとも。
源師房は村上源氏の祖になり、
彼の子孫は、次世代、天皇家に異変が生じる際には、必ず登場し
鎌倉 (源通親) ・南北朝 (北畠親房) ・室町北山 (久我通宣) ・明治維新 (岩倉具視) らが
存亡の危機を脱する役目を不思議と果たします。

*皆様の生没年は、「日本史辞典」 角川書店 を採用しています。書物により差違が有りますのでご注意を。

<妻問い婚(通い婚)とキャリア>

今の私達には、良く理解できない妻問い婚 (通い婚) のシステムですが、
何の事はないこの時代では、不動産を女性の方々(が、又は、も、)相続していたと云うことです。
道長のお住まいになっていた土御門殿(邸 ・第) は、奥様の倫子さんが相続した土地 ・建物でした。
その物件が時を重ねるに従い、広く大きな地所 ・邸宅になったのです。
道長のお姉さんの詮子 (東三条院) さんは東三条殿 (邸 ・第) にお住まいになっておられ、
当然道長も小さい子供の頃はここで寝起きしていました。
彼がこの家を出られたのは、倫子さんと 「連れ合い」 になりお嬢さんの彰子さんが生まれた後の事で、
倫子さん家 (ち) に通う事をお止めになり 「鷹司殿 (邸 ・第)」 (旧土御門殿) で、
ご一家でお暮らしになりました。
道長のもう一人の奥様の明子 (「高松殿」) さんは、
敦明親王と一緒になられたお嬢さんの尊子さんに 「高松殿」 を相続されました。
敦明親王は尊子さんと結婚後、内裏から 「高松殿」 に引っ越されました。
故に相思相愛のカップルでも彼女と婚姻と云う手続きを踏みたいケースは、
彼女のお家(うち)に3日間連続でお邪魔し (通い) 彼女の親御さんに了承を得ると云う儀式が必要でした。
これが、妻問い婚 (通い婚) です。 相続と表現しましたが、今の 「相続」 とはイメージが違います。
今現在の相続と云う詞で即イメージするのは、あくまでも資産のお持ちの方々が対象になりますが、相続税。
この時代はその様な 「税」 は、不動産にしろ動産対しても国家と云う幻想体に、めしあげられませんでした。
彼女 ・彼らの時代は、それ以前から続いていた律令制度外の雰囲気的な 「日常約束事」 で有った体系です。
「妻問い婚 (通い婚)」 を、現状制度からの発想を基とした、
男性にとって、とっても 「楽?」 と安易に考えると間違えを起こします。
男の勝手な論理で女性に逢いたい時だけ会って、嫌んなったら 「さようなら」 と云う具合には物事進みません。
そんな横柄な事をしたら、昨今の核家族、ちまちま生活空間では消滅していますが 「小姑」 問題が生じ、
それに悩む? 「女性」 の立場と同じ情況を、この時代 (とき) の「男性」 は甘受しなければなりません。
これらの雰囲気 ・状景 ・情況を踏まえますと、この時空間でお過ごしの方々は、
どれだけ 「空気(気合い)」 が入っていたかお分かり頂けると思います。
この世に生を受けて、もの心がつき始めた瞬間 (とき) から、ご自分のおかれているシーンを出発点として、
回りの雰囲気 ・状景 ・情況をありとあらゆる 「感性」 を使って 「思考」 して行く積み重ね。
故に、女性も男性もイーコール (同等) に 「キャリア」 なのです。
今現在の、「外でお仕事をなさっている女性 ・男性」 のみが、「欧米輸入詞のキャリア」 ではございません。
「内 (家) でお仕事をなさっている女性 ・男性」 の方々もキャリアです。
母 ・父から受け継いだ、「こころ ・もの」 を脈々と次の世代に繋げる宿命を男性より、より多く担った女性。
感性を豊かにする為の 「英才教育」 この時代 (とき) でしたら、詩歌 ・管弦 ・漢籍を積極果敢に猛勉強して、
感性UP・スキルUPキャリア目指しは、しごく自然な事ではないでしょうか。 (詩歌等お勉強可能な方々は。)

<藤原道綱の母 ・菅原孝標の女>

「蜻蛉日記」=藤原道綱の母=藤原倫寧の女 (娘)  「更級日記」=菅原孝標の女 (娘)
藤原道綱の母は、菅原孝標の女の母方の伯母さんとの事。
これらの「母 (はは)」とか「女 (むすめ)」 の表現 ・表記方法には、皆さん一度は疑問を呈しますよね。
「この世をば」 の道長の感極まった歌の存在を残して下さった藤原実資。
彼の 「小右記」 では紫式部は、「越後守 為時 女」 と表記されているそうです。
今の皆さん、「名字帯刀」 を許されていますが、(帯刀は 「無言の差異表示」 と云う事にしておきます。)
この平安の世のみならず、つい先だって迄、名字がなくても全く支障が有りませんでした。
互いの存在認識は、概ねお住まいになっている 「場所名」 で分かり合えました。
藤原道長ではなく、「土御門殿」。倫子奥様ではなく、「鷹司殿」。明子奥様でなく、「高松殿」の様に。
或いは、官僚の方々は役職名で、藤原道長ではなく、左府(左大臣)殿。
誰々は、右府(右大臣)殿、大納言殿、中納言殿、頭中将殿、頭弁殿・・・・・等々です。
一緒の時空間にいらした方々は、決して道長の事を、藤原道長さんとはお呼びしませんでした。
「藤原道長」 の「道長」 とは、公文書に記されている 「記号」 みたいなものです。
後の世の私たちが、その公文書に記載されている書物をみて、彼の事を 「藤原道長」 と呼(読)んでいます。
身近な私ども庶民の名字につきましては、「女帝・女系 姓名無し?」 をご覧下さい。
道長のお嬢さん達の子供の際は、彰子さん=一の女(娘) 妍子さん=二の女(娘)と云う風になります。
回りの皆さんは、彰子と云う記号で呼ばず、彼女の事を996年以降は 「左府の一番目のお嬢さん。」 と。
彼女に云わせれば 「藤原彰子ってへんてこりんな物はなぁーに」 と云う事になります。
そんな記号無しでも 「素敵な、解り合える時空間」 を共有していたのです。
ゆめゆめ、「誰々の母 ・女」 表記を男尊女卑とか女性蔑視なんて云う風にお考えにならないで下さい。
太古の時代より現在まで、「お財布を握っておられる」 のは 「山の神 (かみ) カミさん。」 と云う女性です。

<乳母(めのと)と云う女性(キャリア)>

「平安キャリア」 でお話ししました様に、
清少納言 ・紫式部さん達の女房、お役所にお勤めの女官、高級官僚の奥様、帝の奥様達は、
「ご自分」 では、お腹をいためてお産みになったお子さん達をお育てになりませんでした。
お子さん達をお育てになって下さるプロの女性方々は、「乳母」 と呼ばれていました。
乳母になれる第一条件は、新鮮?で健康な 「お乳」 を供給できる事です。
お乳を供給できる条件は、その方が直近にお子さんに恵まれいて (生まれいて)、
お乳を豊富に供給可能な母体でなくてはなりません。
次の条件は、そのお子さんが、
赤ん坊⇒よちよち歩き⇒おしゃべりできる⇒飛び歩く⇒意思疎通可能⇒我が侭 ・やんちゃ ・おちゃめ期
などの経過時期から元服 (大人世界に突入) を迎える迄の間に、
それなりのハイソな教育とお世話ができなくてはなりませんので、
自ずと乳母には、お子さんを逞しく育てる方法及び高い教養が求められました。
かなりーきつーい 「お仕事」 でしょう。 女性の皆さん如何思われます?
彼女らプロの乳母さん達がこの時代よりも活躍される時代がやがて訪れます。

<摂関政治時代から院政政治時代になるきっかけを作った女性達>

藤原道長さんの息子達の帝に嫁がれたお嬢さん達が、なぜか男のお子さんに恵まれなかったのです。

この時代の帝の順列は、
一条天皇   (在位 986〜1011)   (980〜1011) →三条天皇(在位 1011〜1016) (976〜1017) →
後一条天皇 (在位 1016〜1036) (1008〜1036) →後朱雀天皇 (在位 1036〜1045) (1009〜1045) →
後冷泉天皇 (在位 1045〜1068) (1025〜1068) →後三条天皇 (在位 1068〜1072) (1034〜1073) →
白河天皇(在位 1072〜1086) (1053〜1129)

藤原頼通のお嬢さん達、 寛子さん (1036〜1127) は後冷泉天皇皇后
                養女さん (1016〜1039) は後朱雀天皇中宮 実父は中宮定子の息子、敦康親王
藤原教通のお嬢さん達、歓子さん (1021〜1102) は後冷泉天皇皇后
                真子さんは後朱雀天皇女御
藤原頼宗のお嬢さん、延子さんは後朱雀天皇女御  彼女の父は中宮定子の弟、藤原伊周

ここに、摂関家のお嬢さんが男子をお産みにならない事で摂関政治 (外戚政治) の仕組みが崩壊する事に。
藤原嬉子 (道長のお嬢さん) と後朱雀天皇の間にお生まれになったのが後冷泉天皇です。
途中ですが、後冷泉天皇の乳母を紫式部のお嬢さんの賢子 (大弐三位) がおやりになりました。
禎子内親王 (道長の孫) (1013〜1094) と後朱雀天皇の間にお生まれになったのが後三条天皇です。
禎子内親王の母は道長のお嬢さんの妍子で父は三条天皇になります。

ここで、藤原能信と藤原実成のお嬢さんで祉子さんご夫妻の登場をお願いする事になります。
藤原能信は道長の4男です。奥様のお爺さんは藤原公季 (閑院流の祖) 数字は1→1→2→2→10?
お二人には残念ながら、お子さんができませんでした。お寂しいので養子を頂く事に。
男の子は能信の兄、頼宗のお子さんで、女の子は奥様の弟、藤原公成のお子さんでした。
その養女が藤原茂子さん (?〜1062) で、後三条天皇の奥様になられ後の白河天皇をこの世に送り出します。

乳母乳母 ・乳母子 ・乳母兄弟 ・乳母連れ合い>

白河天皇の乳母は藤原親子さんがご担当されました。
彼女の父は藤原親国で院政の因を創った 「藤原能信」 の家司 (けいし) をしていました。

*家司は平安中期以降、親王 ・ 内親王 ・摂関家など高級官僚家の家政お世話係。鎌倉以降は違う意味。

親国は歴史を遡りますと、道長の母の時姫さんの兄弟が摂関家の家司となり、そのお孫さんになります。
親子の連れ合いが藤原隆経で、彼女・彼らの息子さんが藤原顕季 (1055〜1123) になります。
藤原隆経も時姫さんの父の藤原仲正と同じ祖先は藤原魚名 (721〜783) になります。
藤原顕季は母親が白河天皇の乳母をおやりになっていましたので 「乳母子」 と云う事になります。
白河天皇は20歳(数え)(1072年)で帝になられ、34歳(1086年)に8歳の息子さんに帝位を譲られ、
後見役の太上天皇(上皇)になりました。  息子さんは堀河天皇 (在位 1086〜1107) (1079〜1107)

一方、外戚で無くなった摂関家の摂関期間は、
藤原頼通、1017〜1067年 教通、1068〜1075年 師実、1075〜1094年 師通、1094〜1099年
忠実、1105〜1121年 忠通、1121〜1158年 基実、1158〜1166年 基房、1166〜1179年
基通、1179〜1186年 兼実、1186〜1196年     途中 師家、1183.11/21〜1184.1/22

基実と基通は 「近衛」 基房と師家は 「松殿」 兼実は 「九条」  後の近衛家 ・九条家の祖 五摂家の走り。

戻って、白河天皇 (在位 1072〜1086) (1053〜1129)  藤原顕季 (1055〜1123)
実質的には藤原師通、1099年の死去後が「院政」の始まりになります。
1086年に帝をリタイヤーされた白河院は、初期の頃には息子のサポーターに徹します。
未だ、禎子内親王 (陽明門院) (1013〜1094) お婆さんも健在。政府も藤原師実 ・師通が支えていました。
政府が一応機能していますので、高級貴族はそちらの組織でお仕事をなさっています。
故に白河院 (上皇) のサポーターは勢い 「受領」 層達の中級 ・下級貴族になります。
中でも、白河院が頼りにし、お気に入り近習の1だったのが 「乳母兄弟」 の藤原顕季でした。

*受領 (ずりょう) は日本68カ国の国司 (長官) で実際に現地に赴任した方。
*近習 (きんじゅう) は権力者の側近くにいて、色々お世話する方。

藤原顕季の父は上国の美濃守(国司)でしたが、顕季は上国の尾張・丹波及び大国の播磨国などを歴任。
その際に得た経済力で都に邸宅を何カ所も作り、その内の六条殿 (邸) が白河院の院庁になった位です。
そのお陰で、顕季の家は代々、五位が極位で有ったのが顕季自身が正三位になりその後も優遇されました。
快挙は彼の息子の長実と彼の奥様、源方子(源俊房のお嬢さん)との間にお生まれになったお嬢さんが、
後に鳥羽天皇 (在位 1107〜1123) (1103〜1156) の奥様 (藤原得子=美福門院) になり
近衛天皇 (在位 1141〜1155) (1139〜1155) をこの世に。

次の方は、堀河 ・鳥羽天皇の乳母の藤原光子さん
彼女の兄、藤原為房 (1049〜1115) (2→1?→4?→5?→1?→3?→1?→1?→1) で藤原北家良門系です。
妹の光子さんのお陰で最終的に参議で正三位になりました。彼の長男、為隆も同様に。共々摂関家の家司。
後の時代の吉田家、甘露寺家、勧修寺家、万里小路家の祖になる方。

次男の顕隆は奥さんの藤原悦子さんが鳥羽天皇の乳母で、
お嬢さんが崇徳天皇 (在位 1123〜1141) (1119〜1164) の乳母の恩恵で、参議、権中納言になりました。
「今鏡」 では、彼、藤原顕隆 (1072〜1129) を関白忠実のリタイヤー後、「夜の関白」 と記しています。
更に、藤原光子さんのお嬢さんのお一人が、
待賢門院=藤原璋子で崇徳天皇・後白河天皇 (在位 1155〜1158) (1127〜1192) をお産みになっています。

その待賢門院の女房であり後白河天皇の乳母が、藤原朝子さん (紀伊の局) です。
彼女の連れ合いは、武士政権になるきっかけを作った、藤原通憲 (信西) (1106〜1159) です。
彼は、鳥羽上皇の近臣で上皇が亡くなられた後、1156年に平清盛 ・源義朝 ・藤原忠通 ・後白河天皇側に
与し、平忠正 ・源為義 ・源為朝 ・藤原頼長 ・崇徳上皇側との争い (保元の乱) に勝利を収めました。
その後始末として、この平安の世で長い間中止していた死刑罰を復活させたのが彼です。
しかし、1159年、藤原信頼 ・源義朝らのクーデター(平治の乱)により命を落とす事になりました。

*藤原頼長 (1120〜1156) は摂関忠通の弟で和漢の書を熟読された勉強家。
*藤原信頼 (1133〜1159) は後白河天皇のご寵愛?を賜った方。

最後の方が藤原邦綱 (1122〜1181) (2→2?→1?→1?→2?→2?→1?→2?→1?)のお嬢さん達。
藤原成子さんが、六条天皇 (在位 1165〜1168) (1164〜1176) の乳母。
藤原邦子さんが、高倉天皇 (在位 1168〜1180) (1161〜1181) の乳母。
藤原輔子さんが、安徳天皇 (在位 1180〜1185) (1178〜1185) と建礼門院(平徳子) (1155〜1213) の乳母。
このケースは前の4タイプと異なり、お嬢さん達の恩恵ではなく、藤原邦綱自身の力量になると思います。
摂関忠通 ・基実の家司 ・平清盛とは大のお友達との事。又、彼の4代前の兄弟が紫式部になるそうです。
彼は蔵人頭から権大納言までなりその間各国の受領を歴任して財力を養い貯め込む事をせず、
都 (京都) に邸宅を数多く作り、その邸は後白河院の御所 ・里内裏として使用されたとの事です。
現在の京都御所も彼の邸宅の跡であるとの事です。平安後期、立身出世物語の旗頭的存在です。 「偉い。」

*里内裏は内裏焼失時など内裏新造の間、仮に帝がお住まいになった邸。

<平安時代のキャリアウーマン達の変貌>

太古より続いていた 「大らかな」 気持ち。その消費文化の絶頂を極めて下さった藤原道長さん。 (結果論)
彼は、次世代までレールを引いたのですが、息子さん達はお嬢さん達を帝と婚姻まで持ち込むものの、
残念ながら彼女達は 「健やかな男のお子さん」 をこの世に送り出す事ができませんでした。
その結果、摂関家のお嬢さんではなく、
内親王と帝との間のお子さんと摂関家以外のお嬢さんとの愛の営みより、白河天皇がお生まれになりました。
彼のお婆さんの禎子内親王が1094年に、
外戚でなくなった摂関家で彼のお目付役の藤原師実が1101年に、師通が1099年に他界します。
1086年に白河天皇が譲位する際、父とお婆さんの禎子内親王 (陽明門院) の意志に反し、
ご自分の息子さん、8歳の堀河天皇にnextを委ねました。これにより陽明門院さんと白河上皇とは不仲に。
しかしながら白河上皇は、いつもでもこの様な塩梅でいれず、孝行心?からか
陽明門院さんの 「お願い」 である、「彼の妹、篤子内親王 (1060〜1114) を堀河天皇の奥様に。」
を聞き入れ、陽明門院さんを安心させます。心安堵の彼女は、この世を去ります。
この婚姻は堀河天皇にとってはポカーン情況。なんてったって篤子内親王さんは19歳年上。
陽明門院さんの亡くなった1094年時点で、篤子内親王さんは35歳、堀河天皇は16歳。 (数え年で。)
ここで、妻問い婚(通い婚)とキャリアに関わる里内裏の変遷を確認します。

里内裏の歴史の流れは、「里内裏の変遷」 をご覧下さい。

里内裏の変遷をご覧頂けますと、おぼろげながらこの約100年の空気が伝わってきませんか?
一条天皇の践祚 (せんそ ・即位式) 以後での内裏及び一条院 (準内裏) 焼亡は、
一条帝時代 999・1001・1005・1009年の4件。
三条帝時代 1014・1015年の2件。
後一条帝時代は0件。
後朱雀帝の践祚ご初の内裏焼亡は1039年。1042・1043年の3件。
彰子さんが2子めの後朱雀帝をお生みになった1009年11月25日以降、
三条帝時代の不可解な2年続きの火事以外、1015年により1039年の24年間、内裏は焼亡していません。
いかに、この時代には、お嬢さん方が健やかな男児をお産みになる事が大切で、
藤原道長さんが、あの世に旅立つ1027年12月4日、及び彼の効力残存期間の1039年まで、
少なくても京都小宇宙空間では 「みやびな世」 が流れ続けていました。

<里内裏の変遷から見るキャリア達>


それ以後の世の乱れは、里内裏の変遷でけでも読み取れますが、ここでは女性(キャリア)に。
摂関家が健康男児をこの世界に出現させる事ができなかった事により、
外戚政治と云うシステムに終止符を打たざるを得ませんでした。

後三条天皇の奥様、茂子さんは彼が帝になる以前1062年に他界しています。
彼の践祚儀式(イベント)は内裏も一条院も焼失したままでしたので、
母 (禎子内親王) がお世話になり滞在していた、
藤原能信邸=閑院=能信の奥様相続物件で行われました。能信はこの時点(1068年)では亡くなっています。
以後、1071年の内裏新造までの期間、御子左第→二条殿→閑院→御子左第→高陽院→四条殿→内裏
と移動されます。表向きでは奥様の存在が有りませんので、奥様の里邸は存在しません。
その間、一番長く過ごされたのが9ヶ月間の御子左第になります。この空間に良き人?が存在?。
御子左第はこの時点では藤原長家が他界していますので、
彼の奥様の源高雅(醍醐源氏)女、懿子さんがお住まいになってか、或いは、
彼女らのお子さんが過ごされていたと思います。
御子左第は以前は醍醐天皇の息子、兼明親王の邸でした。(帝の御子大臣兼明親王から命名とか。)
後三条天皇のこの頃のお付き合い相手?は源基子さん。 (1049?〜1134) (三条源氏)
(父方のお爺さんが小一条院で、母方の曾お爺さんが藤原隆家 (中宮定子の弟) )
彼女は、実仁親王 (1071〜1185) 、輔仁親王 (1073〜1119) らをお産みになりました。
「花園左大臣 (源有仁)」 で源有仁を紹介していますが、とってもお洒落だった彼の父が輔仁親王です。
源基子さんは後三条天皇の奥様、茂子さんの長女の聡子内親王 (1050〜1131) の女房でした。
そんなこんだで、彼女の里邸が、里内裏になろう筈がありません。 (お子様が誕生する以前には。)
後三条天皇は実仁親王をいたく慈しまれ、
1072年に白河天皇に譲位される際、実仁親王を皇太子にされました。
その翌年、輔仁親王が誕生した1073年に40歳で後三条天皇は生涯を閉じます。

やがて、その後には、「お父さん」 の時代 (とき) を迎えます。 (院政と云われる時代)
その 「お父さん」 の唯一頭が上がらない事は、幼い時代 (とき) に、
慈しみ・愛し・育んで下さった 「乳母 (めのと)」 と云う女性 (キャリア) の存在です。
彼にとって信頼を寄せる事ができる年端が近い男性は勢い彼女自身がお腹を痛めて生んだお子さん。
所謂、「乳母子」 になります。その彼とは、いっと最初の 「お友達」 に。
後の 「おひれ・はひれ」 は、皆さん良〜くごぞんじな筈です。特に乳母の連れ合いは。
清少納言さんもご心配になっていました。「枕草子」 の かしこきものは の段で・・・・・。

連れ合いは別として、乳母と云うキャリア女性、その存在の重要性がここでお解り頂けると思います。

☆ 院政時代の後白河法皇と待賢門院さんと鳥羽天皇の恋は、
女と男が織りなす心模様(待賢門院)をご覧下さい。

<やがて、嫁入婚へ・・・。>

「ご自分」 「母」 「父」 「兄弟姉妹」 を思い、必死にお仕事された平安女性 (キャリア) 達。
「みやび」 で 「平安」 で 「大らかな消費」 の一瞬 (とき)
が過ぎ去り、

「お父さん」 の時代 (とき) を迎えた結果として、鶏 ・卵ですが、殺伐とした物理的な 「力」 が謳歌する時代に。
自分の存在背景を無理やり忘却したと思われる父権と称す力をバックとした男性達がちまちま暗躍いたします。
平安後期から鎌倉時代、或いは、南北朝から室町初期のどの時点で、

妻問い婚 (通い婚) ――――――⇒ 嫁入婚

に変遷したのか未だ明らかでは有りませんが、「思想」 の変化が生じたのは否めない事実です。

平安女性 (キャリア) と現代女性 (輸入語のキャリアウーマン) と、比べる事はとても失礼ですが、
どこか平成バブルが弾けた後の女性の 「心模様」 と、同じように感じるのですが、如何なものでしょう?
その様な事は、「杞憂」 で有ると切に願っています。

* 妻問い婚 (通い婚) から嫁入婚への変容につきましては、情報を得しだいお知らせ致します。
青海波     青海波     青海波
★   リ ン ク 先   ★
平安朝 十二単等 絵 ZIPANGU  春夏秋冬の十二単の彩色画をご覧頂けます。
奈良朝 吉祥天女 絵 ZIPANGU  吉祥天女像に彩色し、蘇らせました絵をご覧頂けます。
舞絽倶 日本文化と服 ・小物 「舞倶」日本文化と服について語る ZIPANGU のブログです。

     


Maccafushigi

Copyright © 2006〜 ZIPANGU Co.,Ltd. All rights reserved.