平安時代のキャリアウーマン(女房) フロント 摩訶不思議へ Maccafushigi

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続 平安キャリア 平安キャリア

 平安時代の女性(キャリアウーマン)の生き方(文化)と現代の世のキャリアウーマンとの違いを考えてみます。

<平安時代のキャリアウーマン>

みやびな世の平安時代で大ブレイクした清少納言さんも紫式部さんも女房 (キャリアウーマン) でした。
文学をなさった藤原道綱の母、和泉式部、赤染衛門さんら全員、ばりばりのキャリアウーマンでした。
これ以降は、 「キャリアウーマン」 さんの事を、単に 「女性(キャリア)」 と云う表現にします。

<摂関の男性達を支えた女性達>

文学をなさった女性は当然ですが、
それでは一条天皇の奥様達の定子さん、彰子さん達を皆さんは、どう思われますか。
藤原道長さんの奥様達の源倫子さん、源明子さん達は女性(キャリア)にならないのでしょうか?

<藤原氏摂関家の奮闘 1>

藤原鎌足 ・不比等さんから日本のリーダーになられた藤原家。
奈良時代の攻防は省きまして、ここでは、平安初期に藤原冬嗣さん系が他家から一歩先んじた後からの歴史の流れを振り返ってみます。 (冬嗣さんは初代 「蔵人頭」。 後に上達部になれる超ヤングエリート役職コース。)
その前に、一応確認事を。
おおよそ女性と男性の思い慈しみ合う秘め事?はお二人にしか明らかな事実は分かりません。
従いましてお二人の間にお生まれになられた 「お嬢さん」 「僕ちゃん」 達の存在は、
今現在文献等により類推?を含まない世の中で流布されている情報を前提といたします。
もう一つ、これからご紹介する皆様には大変失礼ですが、「さん」 付けを省略します。
更に、表記順を長幼の序にいたしません。悪しからず。

藤原冬嗣(775〜826)のご子息
1 良房(804〜872)系2 良門(?〜?)系3 長良(802〜856)系
1→1 基経(836〜891)(=3→1)
1→1→1 時平(871〜909 )1→1→2 忠平(880〜949)

彼らを、その時代(とき)を引っ張ったリーダー達を 「手のひらの上で奔放に飛び立たせ支えた」 時の女性達の果てなき 「心の大らかさ」 をこの頁で紹介してゆきます。

<女房(にょうぼう)とは>

今の世では 「女房」 は既に死語となっているやも。 ほんの少し前迄、お子様方にとりましては「お母さん」。
当事者同士なら「連れ合い」「お嫁さん」「奥さん」「家内」「内の」冷たくは「配偶者」、要は 「カーサン」 です。
どんな 「詞」 も背景となる時空間の違いにより与えられる意味合いが異なる事は世の常です。

平安時代は、禁中 (天皇の住空間 ・内裏)・院中 (上皇の住空間) でその一部空間で 「房」 (部屋) を頂けた
高位の女官。又、貴族のお住まいでお仕事をする女性。これに当たるのが赤染衛門さんで道長
の奥様の倫子さんの下でお仕事をしていました。清少納言さんは宮中(内裏) でお仕事をしてい
ましたが、雇い主が定子さんの父の藤原道隆でしたので後者になります。
室町時代は、武士の奥様などにも使用され。やがてご婦人方一般総称に。
江戸時代は、商工業者や農作業従事者の奥様にも使われ1945年迄日常に奥さんの意味になっていた感じ。

* 女官は律令制下の後宮や十二司(今の政府省庁)などにお勤めする女性の総称になります。

平安中期 ・後期の女房は、貴族の子女の教育係であったり、
上司 (帝 ・院も含む) のお言葉の取り次ぎ等の雑務をこなすお仕事に
従事していましたので、各々開放的なプライベートルームを与えられていて幾ら朝の電車 ・車での
出勤がないにしても、お仕事 (勤務中のちょいとしたお休みも含め) に時間を費やす事は日常でした。
故に、お掃除、お洗濯、お子さんのお世話、食事の用意等々、職場のお仕事以外の 「お仕事」 は、
ご自分では賄いきれずそちらの 「お仕事」 はどちら様かにお願い(雇って)してやって頂いていました。
逆に見れば、素敵で賢く、見目麗しい?、清少納言さんも紫式部さんもそちらの 「お仕事」 から
解放されていたのでエッセーや物語に勤しまれたとも云えます。
枕草子では女房達の宮中プライベートルーム(房)で彼女らのお子さんが遊んでいる様子が描写されています。
かと云いましてもお若い女性も当然いらっしゃいましたし、又、
日常の出来事として、シングルマザーの女性もいらっしゃいました。
お局様 (お年をめされた方) だけでは決して有りませんのでご安心を?
その様な状況ですので、清少納言さんも頂いた俸禄 (サラリー) の中から捻出して?
身の回りのお世話をして下さる方々をお雇いになっていたのです。
その方達も含めて宮中で与えられた部屋空間が 「房」
(シンプルなキッチン付きリヴィングルーム感覚?)と云う事になります。
清少納言さんは定子さんのお世話係をしていましたので、
定子さんから見ると彼女は身の回りのお世話をしてくれる大勢の内の一人
(但し定子さんに覚えめでたい) になります。
ここまでだけでも現代のキャリアーと云われている女性達とはスケールが違い過ぎとお思いになりませんか?

* 平安時代の食事事情は 「平安貴族のパーティのお食事とは」 でご覧下さい。

<藤原氏摂関家の奮闘 2>

1→1→2 忠平(880〜949)
1→1→2→2 師輔(908〜960)1→1→2→1 実頼(900〜970)1→1→2→3 師尹(920〜969)
1→1→2→2→3 兼家(929〜990)1→1→2→2→1 伊尹(924〜972)1→1→2→2→2 兼通(925〜977)
1→1→2→2→3→5 詮子(962〜1001)1→1→2→2→3→2 超子(954?〜982)
1→1→2→2→3→1 道隆(953〜995)1→1→2→2→3→4 道兼(961〜995)
1→1→2→2→3→1→1 伊周(974〜1010)1→1→2→2→3→1→3 隆家(979〜1044)
1→1→2→2→3→1→2 定子(976〜1000)(お世話教養担当係 清少納言)
1→1→2→2→3→6 道長(966〜1027)
1→1→2→2→3→4→2 頼通(992〜1074)1→1→2→2→3→4→3 教通(996〜1075)
1→1→2→2→3→4→1 彰子(988〜1074)(お世話教養担当係 紫式部)

*皆様の生没年は、「日本史辞典」 角川書店 を採用しています。 書物により差違が有りますのでご注意を。
分かりにくいでしょうか? 数字は世代交代の流れを表しています。藤原冬嗣さんのご子息からの世代順です。
約800年〜1075年までの275年間の時代 (とき) がとうとうと流れています。江戸時代よりも長いです。
私達日本人は、今現在、世界一寿命が長い国だそうですが、それでも約70年〜80年です。
近代医学が未だ皆無であり、疫病などを読経で退散させようと信じていた平安の世でさえ、
藤原道長のお子さん達は今の世と同じく長生きされました。
又、彼女 ・彼らだけでなく、道長の奥様の源倫子さんは、数えで90歳ですし、
「小右記」 で有名な藤原実資も数えで90歳まで
この世で空気をお吸いになられ、その他にも、多くの方々がその時を楽しまれました?
藤原実資 (957〜1046) は数字表記ですと、1→1→2→1→3→4 (実頼の養子) となります。
源倫子 (964〜1053) さんは後で触れます。   <ここで、皆さん不思議な事に気づきませんか?>
なぜか、歴史教科書では、お子様達の父をお示し下さいますが、
生(産)みのお母さんが基本的に表記されていません。
なぜかと問うのは子供じみているのでしょうか?  それなら子供のまま (ママ) で展開します。
年端を重ねれば 「照れ・誤魔化し」 の 「こうのとり」 表現は誰も誰も・・・。父母の存在あってのお子様です。

<藤原定子さん、藤原彰子さんはキャリア?

定子さんの母は、高階貴子 (?〜996) で円融天皇時代 (在位 969〜984) (959〜991) 、
才長けた宮中キャリア (内侍) でした。
道隆と恋に陥り、道隆が邸に通い、結果、伊周 ・定子さん達がこの世に出現する事に。
お二人がちゃきちゃきでお若い時代は、彼の父の兄である兼通が関白でしたので未だ下級殿上人でした。
やがて兼通が977年に関白の座を頼忠 (1→1→2→1→2) (924〜989) に譲りあの世に逝かれました。
時が流れ円融帝が譲位され、花山天皇 (在位 984〜986) (968〜1008) 時代。
986年にとても有名な 「一緒にお坊さんになりましょ事件」 が企画されます。
プロデューサーは道隆の父の兼家、役者は道隆の弟の道兼、まんまと嵌められたのが花山帝。
こんなドラマ演出を 「なぜ」 行うかは、皆さんご存じの様に 「天皇」 の義理のお爺ちゃんになる事により、
日本のリーダーにならんが為に他ありません。
これが世に云う 「摂関政治」。 このさわり辺りから 「枕草子」 に描写されています。
兼家はこの事件のより念願の一条天皇 (在位 986〜1011) (980〜1011) の 「摂政」 になる事に。
更に彼は、この時右大臣であった為その職を辞任までします。政府(太政官)の序列ではbRだったからです。
bPは太政大臣、藤原頼忠でbQは左大臣、源雅信 (920〜993) (祖父が宇多天皇で源倫子の父) でした。
それまで摂政関白は大臣兼務でしたからここに 「摂関」 と云う政府からは独立した最高 「権力」 を得る事なりました。
988年春には兼家の還暦の祝宴が法性寺で開催され、秋には自邸の二条京極殿で二次会のパーティーが催され、
ご接待係のコンパニオンは 「山崎の津の才色兼備な女性」 、池には 「船上の管弦楽団」 を用意するなど、
飲めや歌えやの舞い踊りでそれはそれは素晴らしい 「宴会」 だったそうです。
*山崎の津は淀川の港、現在の京都府乙訓郡大山崎町と大阪府三島郡島本町の境。桂川、宇治川、木津川の合流
  地点で交通の要衝地だった。明智光秀と豊臣秀吉の 「山崎の戦い」 の所です。
2007年に迎える日本の高度経済成長を引っ張った戦闘士軍団の皆様の 「還暦祝い」 こんな感じは如何ですか・・・。

☆ お疲れになるといけませんのでここで小休止。    服と服飾を専門としていますので、・・・。

日本伝統色の虹色  これは、日本伝統色の虹色順。平安ファッションカラーです。

◆ 紫式部  のファッションセンスは、「源氏物語 玉鬘」 で。光源氏の衣配りです。 「女性への、服の贈り物」。
◆ 清少納言のファッションセンスは、「枕草子   衣装」 で。登場人物の服色を表現しています。

その2年後の990年に兼家は亡くなります。
関白の位を息子達の道隆 ・道兼とその取り巻きを含めて争いますが、継がれたのが年上の道隆です。
道長はこの時争い事には参加していません。
もうお一人忘れていけないのが兼家のご子息の藤原道綱 (955〜1020) 。
母は文学なさった 「蜻蛉日記」 の作者の 「藤原道綱の母 ・藤原倫寧の娘」 です。
彼女の数字は(3→4→2→1→4) (?〜995) になり長良系の藤原一族です。
道隆らの母は藤原仲正(この方は冬嗣系でありません)。
冬嗣より3代前の魚名系)の娘、時姫さんでしたので道隆らと道綱は異母兄弟になります。
やっと、定子さんの父の道隆まで到達しました。 ここからが本題になります。

★ この時代、完璧に日本のリーダー (摂関) になる条件。  *完璧とは暫定的でなく実質長期間と云う意味合い。

1 先ずは、「健康」 。この事はずーっと変わりません。今日でも朝、苦しそうに義務的に?走っておられます。
2 奥様に丈夫な 「お嬢さん」 を生んで頂く事。子宝に恵まれる事は勿論、「女性」 が先決。
3 そのお嬢さんが帝の奥様に迎えられる事。
4 お嬢さんと帝との愛の結晶で、男の子 (男性) が生まれる事。
5 お嬢さんの 「父」 が健やかで 「存命」 の事。(お嬢さんと帝との間に、男子誕生〜東宮宣旨=立皇太子まで。)

これらが完備されないと、完璧な日本のリーダー (摂関) にはなれません。1〜5は、必要かつ十分条件です。

定子さんは990年1月に一条天皇邸に入られ (入内)、女御になり10月奥様 (中宮=皇后) になりました。
彼女の父、道隆はこの年の5月に既に一条帝の摂政になっていた事は前に述べました。
「枕草子」 「大鏡」 に依りますと、道隆はとても明るく、冗談が分かる、お酒が大好きなお方だったそうです。
母の貴子さんは学者肌で、当時、エリート男性の必須科目であった
「漢文・漢籍」 に女性でありながらも堪能でいらした方だったそうです。
そんなご両親でしたので彼女は、反面教師の立場を貫かずに、
素直に育ち、お二人の感性及び取り巻き教育係の知識を吸収していたと考えます。
この時、定子さんは数えで14歳立派な? 「女性」です。
一条帝は彼女より3歳年下の数えで11歳未だ 「男性」 ? ではなかった感じです。
彼女は、一条帝が素敵な男性になるのを今か今かと待つ日々でしたので、
感性を養う時空間があり更にキャリアアップする事になります。
そうこうしている際に、
ちょいと気位が高く、父譲りの漢籍の素養があり、物事 ・人に心配りできる清少納言の存在を知らされます。
彼女は、「その様な素敵な女性を私のブレーンに」 と所望され目出度く実現する事に。
このお二人の出逢いなくば 「枕草子」 の存在もなかったと云っても過言でないと思います。
彼女らの感性は枕草子をご覧頂く事として、突然ですが995年に父の道隆がこの世を去られます。
未だ父の確固たるリーダー存在を確立する 「お仕事」 が貫徹される前にです。5の条件が欠如する事になりました。
4の条件も未だ、満たされていませんでした。
お子さんはできないは、サポーターはあちらの世界に逝かれるは、で、定子さんはさぞかし・・・。道隆さんはこれ迄に。
聡明な定子さんはひとまずおいて、
次は彰子 (上東門院) さんと道長の今まで誰もなし得なかった燦然と輝く 「大成功」 の事例に。

<清少納言と紫式部 (教養担当スタッフ)>

ここで誰でも認めるみやび平安の世のキャリアウーマンの清少納言さんと紫式部さん。

  清少納言

彼女の生没年は(?〜?)です。
色んな書籍をあたると994年に中宮定子さんと接近遭遇して彼女のお世話係になったと推察されています。
「枕草紙」 には994年の出来事が活写されていますのでほぼ間違いないと思いますが不確かです。
枕草子をご研究されておられる方々はこの994年頃、清少納言さんのおん年は30歳前位と推定なさっていますので
数えで約28〜29歳位と考えられます。

  紫式部

彼女の生没年も(?〜?)です。
識者の皆さんは清少納言さんよりも年下として想定されています。
中宮彰子さんが1008年に身籠もられて、生家の土御門殿(邸)でお過ごしになった状況が
「紫式部日記」 に記されていますので、それ以前にスタッフになっていたと考えられます。
お二人共に、お洒落で素敵な女性ですが、後に紫式部さんの賢子お嬢さんも彰子さんの女房 (キャリア)
になっていますので、その分情報量が多く、清少納言さんは幾分記述されている書籍が少ない為、
より 「ミステリアスな女性」 と考えています。
お二人の事は、後に追々と紹介しますので995年から時間を進めます。

彰子さんが一条帝の邸にお入りになるのが999年数えで12歳の時です。
この間にはいろんな出来事が有りました。
さしずめ道長にとって (あくまでも彼にとってですよ。) 一番ラッキーだったのは、
兄の道隆、道兼が健康を害してあの世に逝かれた事。だから、先ずは健康でしょう?
「大鏡」 では、道隆の死後の関白の座をめぐる、
道隆の息子の伊周 (内大臣) (サポート=一条帝、中宮定子の仲良しさんコンビ) と
道隆の弟の道長 (サポート=一条帝の母で道長のお姉さんの詮子) との争いで、
なぜか詮子 (東三条院) さんが道長をエイドして息子の一条帝を口説き落とし、
嫌々一条帝は内覧 (関白に準じる) の宣旨を下した記述。
更に、道長は 「氏長者」 (藤原摂関家領を継承) ・ 右大臣から左大臣に。
(「大鏡」 は、「栄花物語」 程酷くありませんが、ややよいしょ文脈なので話し半分以下に。)
「枕草子」 では、後に道長のブレーンになり、道長と同じ年、日に亡くなった藤原行成 (972〜1027) は
数字表記ですと、1→1→2→3→5→1? 清少納言の同志のお方です。
彼は 「頭弁」 として登場し、彼女との素敵な時空間を過ごされた様は 「函谷関と逢坂の関」 で活写されています。
又、伊周 ・隆家の 「思わず矢が当たっちゃた事件」。
この事件は、藤原為光 (1→1→2→2→8?) (942〜992) のお嬢さんを巡る恋の鞘当て。
伊周が通っていたお嬢さんは、いと美しい女性?であったような。
花山院はその美女の妹さんの所へ通っていたそうな。
伊周は、それを何と、あの爺さん?実は美女狙いと勘違いし、
少しやんちゃで腕に自信がある?弟の隆家に相談、ブラフをして貰うことに。
運悪く射た矢が花山院のお袖に命中? ここまで来ると、最早、冗談では済まされず、やがて二人は左遷の運命に。
と色んな書物に書かれていますが、真相は 「藪の中」 ですので何ともいやはや。
花山院は例の 「一緒にお坊さんになりましょ事件」 でお坊さんになられた花山帝です。
清少納言さん情報では、この年 (996年) に身籠もられ (脩子内親王) ていて
お里の二条殿(邸)で過ごされている最中に二人の左遷のショックからの落飾 、
出家 (ロングヘアーをすべてカットしていません。ご安心下さい?) ・邸の火事 ・母親の死
などの災難が続きますが、気丈な定子さんは翌年無事出産の運びに。
藤原斉信(為光の息子で行成と同じく四納言の一人) (1→1→2→2→8?→2) (967〜1035) と
源経房 (969〜1023) (源高明の息子で兄に四納言の一人源俊賢 (959〜1027) 源高明については後程)
ら懇意の方々に、昨今の情勢から中宮定子さんのお側に余りお近づきにならない様にと耳打ちされます?
がしかし、そこは 「女の中の男 ・男の中の女」 右顧左眄なさらず、操? は守られました。
そんな中、清少納言も用事で里に帰っている期間が長引いた際に、定子さんからのラブコールのお便り。
「心には 下行く水の 湧きかえり 言わで思うぞ 言うにまされり」 です。この件は 舞絽倶 「匂い(補色)」 で確認下さい。
紫式部さんは、この頃、
父の藤原為時 (2→2?→1?→1?→2?) (?〜?) のお仕事先に決まった越前国に同行して過ごしている感じです?
京都に帰郷後、藤原宣孝 (2→1?→3?→3?→1?→1?) (?〜?) と目出度く結ばれ、
999年ないしは1000年にお嬢さんの賢子さんが生まれます。
ここで、ようやく彰子さん入内まで辿り着きました。

<藤原道長を支えた女性達> ☆ 母 藤原時姫 (?〜980)

一条帝に請われて還俗 (出家取り止め) した中宮定子さんは、997年に帝の元に戻ります。
慈しみ合う愛の力は世情の進展ごときに全く臆せず、お二人の間に男児誕生 (敦康親王) です。
入内済みの彰子さん、と云うよりも、道長にとっては嫌ーな感じ。
翌年1000年には、彰子さんを 「中宮」 に定子さんを 「皇后」 へと布石打ち。
中宮=皇后ですので、何とお二人の正規?の奥様が存在した事に。
これにはさすがの定子さんも持ち前の明るさと才気では抗しきれず、第三子をお産みになった後、
体調をいたく壊され、楽しい生活の日々を打ち切り彼岸の世界に旅立たれました。
1008年に彰子さんと一条帝との間に誕生する敦成親王 (後一条天皇) の展開の前に、彰子さんの父母のお話を。
藤原道長さんは (さんづけはここのみ後も気持ちは一緒。)、多くの女性にお世話になっておられます。
今日まで、ファンタジーフィクション物語 ・小説のジャンルのbPと云われている
「源氏物語」 の作者の紫式部さんともお付き合いが有った事実は、多くの識者がお認めになっておられます。
 それはさておき、

 ☆ 先ずは、源倫子さん (964〜1053) 数えで90歳、長寿でしょう。

母は、藤原穆子 (?〜1016) (2→1?→4→3→3) 父は、源雅信
 (源雅信は、前出。宇多源氏の祖、綾小路・五辻などの公家。
  綾小路きみまろさんは末裔では有りません。南北朝の時代にファッショナブルでお洒落で豪快だった、
  その時代の言葉では 「ばさら」 、佐々木道誉は彼の末裔です。)
道長が彼女の邸に通い、目出度く連れ合いになるのですが、
このお二人が結婚に漕ぎ着けたのは彼女の母の穆子さんのお力添えが有った様です。
父の源雅信は花山帝の皇太子時代 (東宮) に彼のお世話係をしていましたので
お嬢さんの倫子さんを花山帝の奥様にしようと目論んでいました。
しかし例の事件で花山帝が一条帝に譲位してしまった為大願ならず、
次の一条帝・後の三条帝とは年が離れすぎいて彼らの奥様にはちーと無理が有り、
又、彼女とお付き合いが有った道長は、摂政兼家三男坊で出世の見込みが薄いしなあーと
思い悩んで妻の穆子さんに相談をした所、
女の第六感?か分かりませんが夫に 「ぐじゃぐじゃ考えないで道長にお決めなさい。」 と促したそうです。
源雅信は993年に他界しますので、残念ながら奥様の感が大的中した事を確認できませんでした。
穆子さんは、彼女らの煌めく栄光の出来事をご自分の眼 (まなこ) で。 万歳。 987年に華燭の典?

 ☆ 次は、源明子さん (964?〜1049) 彼女も964年生まれが正しければ、数えで86歳の長寿。

母は、藤原師輔のお嬢さん (愛宮) (1→1→2→2→多?)
父は源高明 (914〜982) (醍醐源氏 ・西宮左大臣)  969年
「安和の変 (安和2年) ・義理の兄弟 (兼家、伊尹、兼通) 警護係の源満仲 (清和源氏) らの偽り?密告事件」 で
太宰府に左遷された方。2年後には京の都にお帰りになっていますのでご心配なく。でもご隠居さんです。
彼が左遷された後に叔父さん、盛明親王(928〜986)の養女となり、親王の死後、
明子さんは従姉妹の詮子さん (円融帝の奥様 (女御)・後の東三条院) の東三条殿(邸)に身を寄せます。
お年頃が近く、父らの陰謀策略?に対して詮子さんは、不憫?に思われたやも知れません。
或いは、詮子さんは、980年に無事に後の一条天皇をご出産していますが、
この時点での円融天皇の1女御?は藤原頼忠 (924〜989) (1→1→2→1→3) のお嬢さんの遵子さん。
頼忠は 「たなぼた」 で円融帝の関白職を得ていましたので、
兼家にとっては気分が悪く? 詮子さん共々邸で燻っていました。
「大鏡」 では、遵子さん (957〜1017) の弟の藤原公任 (966〜1041)
(四納言の一人で和漢朗詠集 ・北山抄などの作者)
が東三条殿(邸)の前で 「悪たれをついた話」 が記されています。
この様な情況ですので、
詮子さんの心模様は、同類相憐れむ的?なのか、明子さんの父の怨霊慰撫的?なのか、
女性同士の花の連帯感が生まれていたのやも知れません。
結果的には遵子さんにはお子さんが生まれませんでしたので、
986年、花山帝の例の事件後、息子さんが一条天皇になりました。
そんなこんなで、詮子さんは兄弟の中で大のお気に入り?だった弟の道長に彼女とのお付き合いをさせ、
こちらも目出度く、988年に婚礼の儀?に。

 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ・・・・・。 あまた (数多) の女性と。 詳しくは、道長にお聞きしないと、いやはや何とも素敵。

道長のお嬢さん達と息子

 ☆ 彰子( 988〜1074)母 倫子夫 一条天皇 後一条天皇、後朱雀天皇の母
 ★ 頼通( 992〜1074)母 倫子  *京都宇治に平等院鳳凰堂を作った方
 ★ 頼宗( 993〜1065)母 明子  *紫式部のお嬢さんの賢子 (大弐三位) と仲良しさん?
 ☆ 妍子( 994〜1027)母 倫子夫 三条天皇 禎子内親王(後朱雀天皇 皇后)の母
 ★ 顕信( 994〜1027)母 明子  *世の煩わしさに嫌気がさし、お坊さんになった方
 ★ 能信( 995〜1065)母 明子  *摂関政治から 「院政」 政治へ変貌する因を作った方
 ★ 教通( 996〜1075)母 倫子  *頼通との不和から延久の荘園整理令(1069)を発した方
 ☆ 威子( 999〜1036)母 倫子夫 後一条天皇 章子内親王(後冷泉 中宮)、馨子内親王(後三条 中宮)の母
 ☆ 寛子( 999〜1025)母 明子夫 敦明親王 教通の息子、信家の奥様になるお嬢さんの母
 ★ 長家(1005〜1064)母 明子?  *藤原俊成の曽祖父の方。 俊成の息子が藤原定家
 ☆ 嬉子(1007〜1025)母 倫子夫 後朱雀天皇 後冷泉天皇の母
 ☆ 尊子(1007〜1084)母 明子夫 源師房 源俊房、源顕房の母 麗子(頼通の息子、師実の奥様) の母

*道長のお嬢さん ・ご子息は、永井路子さんの 「望みしは何ぞ」 等を参考にしています。
*皆様の生没年は、「日本史辞典」 角川書店 を採用しています。 書物により差違が有りますのでご注意下さい。

 倫子さんと明子さんの時代を背負い、お気持ちを込めた 「お仕事」 ぶりには、感心なさいませんか? 
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