一条帝に請われて還俗 (出家取り止め) した中宮定子さんは、997年に帝の元に戻ります。
慈しみ合う愛の力は世情の進展ごときに全く臆せず、お二人の間に男児誕生 (敦康親王) です。
入内済みの彰子さん、と云うよりも、道長にとっては嫌ーな感じ。
翌年1000年には、彰子さんを 「中宮」 に定子さんを 「皇后」 へと布石打ち。
中宮=皇后ですので、何とお二人の正規?の奥様が存在した事に。
これにはさすがの定子さんも持ち前の明るさと才気では抗しきれず、第三子をお産みになった後、
体調をいたく壊され、楽しい生活の日々を打ち切り彼岸の世界に旅立たれました。
1008年に彰子さんと一条帝との間に誕生する敦成親王 (後一条天皇) の展開の前に、彰子さんの父母のお話を。
藤原道長さんは (さんづけはここのみ後も気持ちは一緒。)、多くの女性にお世話になっておられます。
今日まで、ファンタジーフィクション物語 ・小説のジャンルのbPと云われている
「源氏物語」 の作者の紫式部さんともお付き合いが有った事実は、多くの識者がお認めになっておられます。
それはさておき、 |
☆ 先ずは、源倫子さん (964〜1053) 数えで90歳、長寿でしょう。 |
母は、藤原穆子 (?〜1016) (2→1?→4→3→3) 父は、源雅信
(源雅信は、前出。宇多源氏の祖、綾小路・五辻などの公家。
綾小路きみまろさんは末裔では有りません。南北朝の時代にファッショナブルでお洒落で豪快だった、
その時代の言葉では 「ばさら」 、佐々木道誉は彼の末裔です。)
道長が彼女の邸に通い、目出度く連れ合いになるのですが、
このお二人が結婚に漕ぎ着けたのは彼女の母の穆子さんのお力添えが有った様です。
父の源雅信は花山帝の皇太子時代 (東宮) に彼のお世話係をしていましたので
お嬢さんの倫子さんを花山帝の奥様にしようと目論んでいました。
しかし例の事件で花山帝が一条帝に譲位してしまった為大願ならず、
次の一条帝・後の三条帝とは年が離れすぎいて彼らの奥様にはちーと無理が有り、
又、彼女とお付き合いが有った道長は、摂政兼家三男坊で出世の見込みが薄いしなあーと
思い悩んで妻の穆子さんに相談をした所、
女の第六感?か分かりませんが夫に 「ぐじゃぐじゃ考えないで道長にお決めなさい。」 と促したそうです。
源雅信は993年に他界しますので、残念ながら奥様の感が大的中した事を確認できませんでした。
穆子さんは、彼女らの煌めく栄光の出来事をご自分の眼 (まなこ) で。 万歳。 987年に華燭の典? |
☆ 次は、源明子さん (964?〜1049) 彼女も964年生まれが正しければ、数えで86歳の長寿。 |
母は、藤原師輔のお嬢さん (愛宮) (1→1→2→2→多?)
父は源高明 (914〜982) (醍醐源氏 ・西宮左大臣) 969年
「安和の変 (安和2年) ・義理の兄弟 (兼家、伊尹、兼通) 警護係の源満仲 (清和源氏) らの偽り?密告事件」 で
太宰府に左遷された方。2年後には京の都にお帰りになっていますのでご心配なく。でもご隠居さんです。
彼が左遷された後に叔父さん、盛明親王(928〜986)の養女となり、親王の死後、
明子さんは従姉妹の詮子さん (円融帝の奥様 (女御)・後の東三条院) の東三条殿(邸)に身を寄せます。
お年頃が近く、父らの陰謀策略?に対して詮子さんは、不憫?に思われたやも知れません。
或いは、詮子さんは、980年に無事に後の一条天皇をご出産していますが、
この時点での円融天皇の1女御?は藤原頼忠 (924〜989) (1→1→2→1→3) のお嬢さんの遵子さん。
頼忠は 「たなぼた」 で円融帝の関白職を得ていましたので、
兼家にとっては気分が悪く? 詮子さん共々邸で燻っていました。
「大鏡」 では、遵子さん (957〜1017) の弟の藤原公任 (966〜1041)
(四納言の一人で和漢朗詠集 ・北山抄などの作者)
が東三条殿(邸)の前で 「悪たれをついた話」 が記されています。
この様な情況ですので、
詮子さんの心模様は、同類相憐れむ的?なのか、明子さんの父の怨霊慰撫的?なのか、
女性同士の花の連帯感が生まれていたのやも知れません。
結果的には遵子さんにはお子さんが生まれませんでしたので、
986年、花山帝の例の事件後、息子さんが一条天皇になりました。
そんなこんなで、詮子さんは兄弟の中で大のお気に入り?だった弟の道長に彼女とのお付き合いをさせ、
こちらも目出度く、988年に婚礼の儀?に。 |
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ・・・・・。 あまた (数多) の女性と。 詳しくは、道長にお聞きしないと、いやはや何とも素敵。 |
道長のお嬢さん達と息子 |