が織りなす心模様(お美代の方) Maccafushigi

 この世には、なぜか女性と男性しか存在しません。故に、このお二人が造り上げる世界の不可思議さついて。

徳川家斉 お美代の方

1768年 1812年 1872年
 
徳川家斉  
お美代の方 
溶姫  
仲姫 
末姫 
(中野清茂) 

徳川家斉 (1773〜1841年) 69歳お美代の方(?〜1872年)?歳(仮に溶姫のご出産を20歳と。)
溶姫(1813〜1868年) 54歳仲姫 (1815〜1817年)3歳(仲姫は生存2年ですので無着色。)
末姫(1817〜1872年) 56歳中野清茂(1768〜1842年)75歳(お年は皆さん数えです。)

上記の6人の方々のお過ごしになった年代です。表は生存されたアバウトの期間になります。
院政の時代からいきなり江戸時代、太平 ・泰平の文化 ・文政、悲惨な天保時代に跳んでしまいました。
文化年間は1804年〜1818年  文政年間は1818年〜1830年  天保年間は1830年〜1844年
江戸庶民 (町人) のささやかな 「文化」 が花開き、「粋」 で 「鯔背」 なお姉さんやお兄さんが闊歩した時代
(とき) と云われています。 尚、この時代の服に関しましては 「続々 江戸時代の女性衣装」 でご覧下さい。

徳川11代将軍、家斉も、とてもラッキーなお方でした。
10代将軍、徳川家治 (1737〜1786) 50歳 の息子、家基 (1762〜1779) 18歳 が家斉に取っては運良く?
お亡くなりになったお陰で将軍職になれました。15歳で何と征夷大将軍 (江戸幕府のトップリーダー) です。
基本的に歴史に登場するお方は、めちゃ幸運に恵まれた方か、めちゃめちゃ悲運の人々ですよね。
これは、今の世でも同じ事。平々 ・凡々に時を過ごされておられる方々は決して歴史には残りません。
この 「運」 と云う代物。家斉の場合は、ご自分で運 (はこ) んできた訳ではありません。
「運(ウン)と努力」 をなさらないで、棚からぼた餅なのです。(「ぼた」 は牡丹の略です。)
序でに、同じものでも、秋のお彼岸に食べるものは、おはぎ。これは萩の略です。 シーズン性たっぷり。
我が洋服業界での、新しい ⇒ ニュー ⇒ new ⇒ ネオ ⇒ neo ⇒ 見タ事ネェー
融合 ⇒ フュージョ ン ⇒ fusion ⇒ コラボ ⇒ collaboration
ってな感じの言葉遊びと違い、「季節感」 を伴っているのが 「日本文化」 の由縁たる所です。
因みに、ファッション業界2007年度は 「インスパイアー (inspire)」 にしたい感じです。
この言葉は、既に某重電 ・家電メーカーの catch-copy として流布しているのですが???
それは、さておきまして、何と云っても徳川家斉のメジャーになっている事は、
たくさんの奥様?に恵まれ、数多くのお子様方をこの世に出現なさった事です。

  徳川家斉と女性達

お万(満)の方(?〜1835)
 淑姫 ・鎮子(1789〜1817)尾張名古屋藩主の奥様へ御三家他3名夭折
お楽の方(?〜1810)
 家慶(1793〜1853)江戸幕府第12代将軍
お梅の方(?〜1795)
 端正院(1794)
お歌の方(?〜?)
 敬之助(1795〜1797) 他3名夭折
近衛寔子(ただこ)(1773〜1844)実父は島津重豪 (薩摩鹿児島藩主)外様
 敦之助(1796〜1799)清水徳川家へ御三卿
お志賀の方(?〜1813)
 総姫(1796〜1797)
お里尾の方(?〜1800)
 格姫(1798〜1799)
お登勢の方(?〜1832)
 峯姫 ・美子(1800〜1853)常陸水戸藩主の奥様へ御三家
 斉順(なりゆき)(1801〜1846)紀伊和歌山徳川家へ御三家他2名夭折
お蝶の方(?〜?)
 亨姫(1801〜1802)
 斉荘(なりたか)(1810〜1845)尾張名古屋徳川家へ御三家
 和姫 ・操子(1813〜1830)長門萩藩主の奥様へ (毛利家)外様他4名夭折
お美尾の方(?〜1808)
 浅姫 ・達子(1803〜1857)越前福井藩主の奥様へ御家門他1名死産
お袖の方(?〜1830)
 安姫(1807〜1811)
 文姫 ・結子(1809〜1837)讃岐高松藩主の奥様へ御家門
 斉彊(なりかつ)(1820〜1849)紀伊和歌山徳川家へ御三家他4名夭折
お屋智の方(?〜1810)
 元姫 ・幸子(1808〜1821)陸奥会津藩主の奥様へ御家門他1名夭折
お八重の方(?〜1843)
 斉明(なりのり)(1809〜1827)清水徳川家へ御三卿
 盛姫 ・国子(1811〜1847)肥前佐賀藩主の奥様へ (鍋島家)外様
 斉衆(なり?)(1812〜1826)因幡鳥取藩へ 池田斉衆外様
 斉民(なりたみ)(1814〜1891)美作津山藩へ 松平斉民御家門
 喜代姫 ・都子(1818〜1868)播磨姫路藩主の奥様へ (酒井家)譜代
 斉良(なりよし)(1819〜1839)石見浜田藩へ 松平斉良御家門
 斉裕(なりひろ)(1821〜1868)阿波徳島藩へ 蜂須賀斉裕外様他1名夭折
お美代の方(?〜1872)
 溶姫 ・偕子(1813〜1868)加賀金沢藩主の奥様へ (前田家)外様
 仲姫(1815〜1817)
 末姫 ・貴子(1817〜1872)安芸広島藩主の奥様へ (浅野家)外様
お八百の方(?〜1813)
 奥五郎(1814)
お以登の方(?〜?)
 琴姫(1816)
 永姫 ・賢子(1819〜?)一橋徳川家の奥様へ御三卿
 斉善(なりさわ)(1820〜1838)越前福井藩へ 松平斉善御家門
 斉省(なり?)(1823〜1841)武蔵川越藩へ 松平斉省譜代
 斉宣(なりこと)(1825〜1844)播磨明石藩へ 松平斉宣御家門他1名夭折
お瑠璃の方(?〜?)
 斉温(なりはる)(1819〜1839)尾張名古屋徳川家へ御三家
 泰姫 ・益子(1827〜1843)因幡鳥取藩の奥様へ (池田家)外様

 他、多分多数?藪の中で全く不明です。 *島津重豪 (しげひで) *溶姫 (やすひめ)

家斉の女性遍歴は、16歳でお万の方からスタートしてお亡くなりになる迄続いたとの事です。
2006年暮れ、阪大の先生で政府税調の偉い方が女性問題発覚?で辞任に追い込まれましたが、
家斉は「大奥」と云うシステムがあり公然とお付き合いできたのですから職を解かれません。と云うよりも、
半ば大事なお仕事の一つであった訳ですから、今の世の男性は嫉妬する筋合いのものでもありません。
又、これは私達、女性についても同じ事で、「恋」 は 「灰になるまで」 現役つづきと・・・・・。
この江戸時代後期でさえも生まれたお子さん達が幼くして命を落とされています。
未だこの時点でも大人の人間にまで育つのは至難の業だった事実がよーく判ります。
そんな中で一際 (ひときわ) 母子ともにお健やかだった方は、お八重の方。
お名前通り 8人のお子さんをこの世に送り出され、子供達もお一人を除き立派に成長されました。
彼女の息子のお一人、松平斉民は明治二十四年まで生き、徳川家の為にご尽力されたご様子です。
次ぎに、色んな政治的な配慮があるとしても、成長された女性と男性の嫁ぎ先と養子先を見ますと、
男性は斉衆以外、御三家 ・御三卿 ・御家門 ・譜代を養子先にしています。 一方、
女性は御三家 ・御家門 ・譜代と外様へのお嫁さんになられた数はイーブン (even) です。
既にこの時代では、家康 ・秀忠 ・家光時代と違い 「外様」 と云っても、徳川幕府に叛旗を翻す牙を
抜かれた存在で決して各外様藩主も鬼では無かったと思いますが、表意記号はあくまでも外様、
女性の方々は 「心して」 嫁がれたに違いありません。
この事実だけでも女性の方々の根性の座り具合が如何に凄いか容易に理解できます。
表意記号と差異表示が厳然と存在した事実は、江戸城での入室空間 (待機サロン) が示しています。

 江戸城の詰所 大廊下〜柳間

江戸城の詰所     上ほど当然、豪華サロン (仏 salon) になります。
大廊下御三家 (尾張 ・紀伊 ・水戸藩)
大廊下御家門 (越前福井藩 ・播磨明石藩 ・美作津山藩松平家)
大廊下国持外様 (加賀藩前田)
大広間御家門 (石見浜田藩 ・出雲松江藩 ・伊予西条藩 ・上野前橋藩松平家 等)
大広間国持外様 (薩摩藩島津、長州藩毛利、安芸藩浅野、佐賀藩鍋島、鳥取藩池田
 米沢藩上杉、仙台藩伊達、熊本藩細川、福岡藩黒田、津藩藤堂 等)
溜間 (たまりのま)御家門 (陸奥会津藩 ・讃岐高松藩 ・伊予松山藩 ・武蔵忍藩松平家 等)
溜間 (たまりのま)譜代松 (姫路藩酒井、彦根藩井伊、越後高田藩榊原、筑前小倉藩小笠原 等)
帝鑑間譜代竹 (大和郡山藩柳沢、小田原藩大久保、岡崎藩本多、福山藩阿部 等)
雁間 (かりのま)譜代竹 (土浦藩土屋、宇都宮藩戸田、高崎藩大河内、鯖江藩間部 等)
菊間 (きくのま)譜代梅 (小久保藩田沼、柳生藩柳生、峰山藩京極、庭瀬藩板倉、丹南藩高木 等)
柳間 (やなぎのま)外様梅 (天童藩織田、狭山藩北条、綾部藩九鬼、松前藩松前、平戸藩松浦
 飫肥藩伊藤、臼杵藩稲葉、日出藩木下、赤穂藩森、村松藩堀 等)

*御三卿 (田安 ・一橋 ・清水家) は大名ではありません。将軍家ファミリーの感じ。

*大廊下は決して休み時間に跳び回った学校の 「ろうか」 をイメージしないで下さい。
  超高級サロン、v.i.p. ルーム、セレブ (celebrity) な方々が集 (つど) う空間です。
(江戸城の詰所は、「幕末諸州最後の藩主たち 人文社」 参考)

話が逸れましたので、元に戻ります。
上の表からお分かり頂けますように、この頁のタイトルの 「お美代の方」 はかなり後ろでの登場です。
家斉、百戦錬磨の御年40歳、お美代の方とのお付き合い 「恋」 の成就です。

 お美代の方 

江戸時代は誰でもとは行きませんが、江戸庶民のお嬢さんでも将軍の奥様になれるチャンスがありました。
その内のお一人がお美代の方です。基本的に 「色恋沙汰」 の範疇ですので確証はありませんが、
彼女の父親は、下総国中山にあった中山法華教寺内の智泉院住職、「日啓」 と云う説が有力です。
日啓はお坊さんですので、いきなりお嬢さんのお美代の方を徳川家斉の奥様にはできません。
物事を成就する為には、今の世もそうですが、「儀式」 が必要になります。
ここに、目利きで、利に聡 (さと) い 「人間」 の登場が必須条件となる訳です。
そのお方が、「中野播磨守清茂」 後の 「中野石 (碩) 翁」。
彼は、徳川家斉の側近中の側近で幕府でのお役目は 「小納戸頭取 (こなんどとうどり)」。
「側用人 (そばようにん)」 クラス 2 のランキングです。 今の銀行ですと頭取はトップですが・・・。
側用人は常に将軍のそばにいて、役どころは平安時代の 「内覧」 の如く、
老中提出の幕閣での決議事項を将軍に読み上げ、諾否、採否を伺うお仕事、及び、将軍お世話係。
老中は江戸幕府立法 ・行政 ・司法機関では top になりますが、側用人は裏 TOP の存在。
中野播磨守清茂は、そんな美味しい?お仕事の次席にいたのですからそれはそれは・・・。
又、将軍の側 (そば) にいれる 「小姓 (こしょう)」 と云う将軍防衛軍団がいますが、特別なお仕事も・・・。
因みに、この時代の老中、水野忠成 (ただなり・ただあきら)(1762〜1834) は、
10代将軍家治の際、小納戸役 ・小姓を勤め、
家斉の際は、寺社奉行 → 若年寄 → 側用人(1812年)→ 老中(1818年) と進んでいます。
今のキャリアー (career) 官僚も真っ青のエリート (仏語) コースを直 (ひた・ただ?) 走りました。。
たまたまお美代の方はワンクッションあったのかダイレクトか不明ですが、
中野播磨守清茂の家で家事見習いのお仕事をしていました。多分、エロかっこいー?かったのでしょう。
清茂は彼女を家斉の奥様にと目論みます。先ずは彼女を自分の養女に。
この事は特に中野清茂のみならず、このクラスの方は誰しも企図したことで珍しくも何でもありません。
老中の水野忠成らも同様に将軍家斉に素敵と思われる?女性を紹介していました。
端の方々は紹介までは可能ですが、それ以降は、すべてお二人次第、追幻想の世界です。
運良くか、手練手管か、知る術 (すべ) はありませんが、お美代の方は家斉のハートをキャッチング。
お美代さんは当然として、養父の中野播磨守清茂と実父の日啓はバンバンザイです。
なんてったって第11代征夷大将軍、徳川家斉の奥様にお嬢さんがなってしまちゃったんですから。
家斉は日本国家のナンバーワンですよ。 お美代さんはとってもエライ。 ここで、お美代さんはちょいとお休み。

 中野播磨守清茂と日啓 

お美代の方のお陰で羽振りが良くなった二人

― 中野播磨守清茂 ―
彼女の存在無くしても、彼の役職がら何かと利得を得たい方々の 「付け届け」 が多いにも関わらず、
彼女のお陰で、なおのこと、その多さに拍車がかかります。
この時空で役得が多かった官僚は、彼を除き、水野忠成(老中)、
水野忠篤(お側御用取次) 林忠英(若年寄) 美濃部茂育 (小納戸頭取)→天保の三佞人(ねいじん)
佞人と揶揄されていますが、このパターンをゲットしたいが為の彼らの並々ならぬ努力も見逃せません。
今現在も、幼気 (いたいけ) なお子さん達が夜な夜な蠢 (うごめ) いている光景が証明しています。
佞人軍団は、日本の素敵な 「贈答文化」 の極限乱用模様。
少なくても、庶民レベル (level) では、結婚式では同額返し、喪では半額返しが古来からの相場です。
他所 (よそ) 様のお宅にお邪魔する際の「お土産 (みや)」 は、フィフティ (fifty) 狙いです。
佞人官僚軍団は 「額に汗せずゲットしたTAX」 を消費できる立場 (お役目)。
額に汗して無い (ご自分の財布を痛めない) 物ですのも、フィフティ以上の何倍万返しにも。
こんな美味しい構造に群がらない方々は、昨今の言葉では、「負け組」 と云うチーム (team) だそうです。
そして、中野播磨守清茂は1837年、家斉が将軍を息子、家慶に渡した際に一緒に役をリタイヤーしています。
その後の彼 (中野石 (碩) 翁) の悠々自適なお暮らしぶりは、「向島の隠居」 と云われる程に。
向島 (現在は墨田区向島) の下屋敷の大邸宅の障子には、「ビイドロ (ガラス)」 が使用されていたとの事。
更に、大御所になった西の丸在住の家斉訪問時には、隅田の川を屋形船で下り西の丸辰の口にダイレクト。
その屋形船の障子も当然クルスタルガラス?だったとか。 (この時代 (とき) のガラスはとても高価でした。)
かく云う私も、「向島住まい」。 障子は生粋?の 「和紙」 でございます。

― 日啓 ―
彼はれっきとした (生臭) お坊さんです。そう (僧?) でなければお美代さんはこの世に存在できません。
彼の宗派は 「日蓮宗」 でした。徳川将軍家の菩提寺は、天台宗の上野、寛永寺と浄土宗の芝、増上寺。
この時代 (とき) 、代々の将軍は、増上寺には葬られていました。
日啓はこの期に日蓮宗の底上げを図り、将軍の廟所の一つに日蓮宗のお寺をと画策します。
それが、お美代さんのお陰で日蓮宗寺院の創建が実現する事になります。
時は1833年にスタートし1836年に大ピークを迎える 「天保の大飢饉」 で上を下への大騒ぎの最中、
1835年に建立スタート1837年に大伽藍が完成する、雑司ヶ谷鼠山(現在の豊島区目白)の 「感応寺」です。
当然、家斉の祈願寺とされる訳ですから、幕府関係者、大奥女性らはこぞって参詣する羽目に。
江戸のランドマーク (landmark) は、浅草、浅草寺 (せんそうじ) を含め4っつになりました。
そう云えば、芝の 「東京タワー」 がお役ご免になり、やがて浅草 に「新東京タワー」 ができる段取りに。
大奥女性らはこぞって参詣する羽目と記しましたが、
大奥女性でお仕事をされていた女性の皆さんに取っては、とってもハッピーな出来事なのです。
「お仕事中」 に 「お仕事」 で外出ができるからです。
仕事場が 「大奥」 ですので、いつもは奥まっていなければならないお仕事です。
それが、公に外に出かけられる機会が作られる訳ですから。
お仕事柄、日頃、男性とお付き合いできる空間が殆ど無い彼女らにとってはとってもラッキーなのです。
表向きは、妻帯禁止で清い? 「僧侶」 と男性社会とは隔絶されている 「大奥女性」。
「禁」 のすぐ隣は、「解放」。 「愛」 のすぐ隣は、「憎」 と同じ構造です。
ちょいとでも隣に足を踏み込めば、それはそれは、「大解放(開放)の世界」 にいとも簡単に突入です。
又、日啓の根拠地である中山法華教寺内の智泉院にも大奥女性らが良く通われたそうです。
この時点では智泉院の住職が日尚 (日啓の息子?) に変わっていて、
その日尚が、会った事がないので定かではないですが、とっても 「美男子 (美僧)」 だったとの事です。
美男子とくれば、若いお嬢さん方 (お年をめされた方も) は、ほっときません。
彼も、本業のお仕事の祈祷は、そっちのけで・・・・・。
やがて、彼自身が江戸城西の丸に出入りが許され、祈祷の後は、秘密の ハ・ナ・ゾ・ノ・・・・・。
江戸城のとある空間では、ひとときのスイートな何ても素敵な?時空間が生まれる事となっていた様です。

 溶姫と末姫 

お美代の方と家斉のお嬢さんの溶姫と末姫さんのお二人。

― 溶 姫 ―
溶姫は既にこの時は、加賀100万石の藩主、前田斉泰(なりやす) (1811〜1884) 74歳 の奥様になり、
1830年にお二人のお子さんの前田慶寧(よしやす) (1830〜1874) 45歳 をこの世に送り出しています。
そして、今も燦然と輝き?国家官僚を圧倒的に養成する 「東京大学」 本郷キャンパス (campus)。
そのメルクマール (独 Merkmal) の 「東大赤門」。
この赤門は溶姫さんが前田家に嫁ぐ際のモニュメント (monument) でした。
将軍のお嬢さんを 「お嫁さん」 に頂く大名は、この当時、「御守殿門 (赤門)」を作製していたそうです。
東大本郷キャンパスは、加賀前田藩の上屋敷跡にこさえたものです。
又、東大の最前身は「江戸幕府天文方」で、シーボルト事件でメジャーな高橋景保(1785〜1829)は大先輩。
エリートを輩出する 「ブランド (brand)」 に溶姫さんが参加する羽目に。

― 末 姫 ―
一方、末姫は安芸広島藩主、浅野斉粛(なりたか) (1817〜1868) 52歳 の奥さんになります。
しかし残念の事に、彼女は世継ぎをもうける事は叶いませんでした。
安芸広島藩に取りましては、江戸幕府要請のこの縁組みは多大な散財を要し、困窮を深めた様子です。

 徳川家斉 力尽きる。

いつも、元気で逞 (たくま) しかった家斉は、1841年の正月から体調をこわし床に伏せる状態に。
早速、美僧の日尚が呼び出され、家斉のベッドルームで、「平癒祈願」 のお念仏。
お医者さんは、中野播磨守清茂を以前直した実績を持つ故の、清茂、一声で吉田成方院法印 一人のみ。
平癒祈願は家斉の病状を快方に向かわす事に、何も寄与しませんが、未だこの時代は信じ気味のご様子。
本丸にいる息子、家慶も耳にし、家慶お見舞いのアポ (appointment) でさえも
お美代の方、及び、大御所取り巻き、家斉大奥関係者らは西の丸 「お見舞いお断り」 の始末。
近代医学情報を持たない一人の医師では、中々延命治療もできず、ただ病状進行を見続けるのみの処置。
如何ともしがたい中、翌月の閏正月七日、家斉は69歳の生涯を閉じる事になりました。
経済的基盤を持ったバックのお方が存在しなければ、中野清茂にしろ日啓 ・日尚も 「ただの人」。
ここぞとばかり、新規参入権力組は、既得権益者排除に乗り出します。
この時の老中は、水野忠邦(越前守) (1794〜1851) 翌年1842年、天保の改革で有名な方。 又、
寺社奉行は、阿部正弘(伊勢守) (1819〜1857) 水野忠邦失脚後老中、1854年、「日米和親条約」 を締結。
彼らにより、中野清茂は江戸城出入り差し止め、家斉側近らは職を罷免される事に。
一方、いかがわしい派の日啓は大願成就できず仕舞いで 「遠島」。
イケメン息子の日尚は、日本橋で 「三日晒の刑」 の処分に。 二人の罪状は「女犯(にょぼん)」。
日啓女犯相手は、田舎の後家さん。日尚女犯相手は、宿屋の下働きのお姉さん。 とのお咎め粛正でした。
物件の方では、「感応寺」 は即刻お取りつぶしの運命。 目白ランドマークの消滅。増上寺浄土宗は胸がホ。
そう云えば、最近とんと 「目白御殿」 のお噂も・・・。 目白は鬼門? 今太閤個人的にはエールもの。
これにより、大奥キャピキャピ女性軍団はお咎め無しで、救われる事に相成るのでございます。
と云うよりも、「大奥」 は次期将軍をこの世に出現させる機能を持ち、
江戸幕府予算の三分の一以上を消費していたと思われる、否それ以上やも、
それは、それは、大切な組織体でございます。官僚は将軍に関わる部署を処分する事なんぞできる訳が・・・。

 その後のお美代の方

彼女は家斉死後、髪をカット (落飾) し、西の丸 「専行院」 でお過ごしになります。
二人のお嬢さん達は、素敵な夫?と暮らしています。何の心配もありません。
少しの 「おいた」 は、溶姫所生の前田慶寧を将軍候補として暗躍した事くらいです。
彼女の晩年、世の中騒々しくなりますが、本郷の前田邸や霞ヶ関の浅野邸にお邪魔されていた様です。
やがて、「明治維新を経て、明治時代の世」 へ移り変わります。

続きは、又、後日にいたします。 お楽しみに・・・。
 
待賢門院と白河法皇

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 緑 縹 紺 藍色
    紫 滅紫 葡萄
★ 褐色 ・墨系の色
 黄橡 胡桃 柴染
      橡染 榛染
ここまでが、
太古〜奈良朝の色
★ 衣服令 延喜式の
      位階服色
★ 禁色(きんじき)
  聴色
  (ゆるしのいろ)
★ 平安朝で創造
      された色
 紅梅 萌黄 二藍
      香染 青鈍
★ 太古から
   奈良朝の顔料
 鉛丹 白緑 緑青
      群青 臙脂
★ 平安後期から
  鎌倉時代の新色
 柿衣 褐色 猩々緋
      鳥子 煤竹
★ 綺麗な色は
    みやびの世に
 紅梅 薄紅梅
      桃色 桜襲
★ 江戸時代
    の流行色
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★ 江戸時代
    の流行色
        百鼠
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    の流行色
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おつなぎ処

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★ やまと言葉
 

慈 汎 倶

★ ZIPANGU
和ごころ香るお品を
 紹介しています。
・ポケティッシュ入れ
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・ショルダーバッグ
・絹 タンクトップ
・絹 キャミソール
・絹 ビスチェ
・絹 ワンピース
・レーストップス
・絹と絹製品の事。
 絹にまつわる
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   記しています。
桔梗
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一輪挿し椿







一輪挿し椿
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