続々 江戸時代の女性衣装 (葛飾北斎編) フロント 摩訶不思議へ Maccafushigi

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  江戸時代の女性衣装 江戸 ・女性 続 江戸時代女性の衣装 江戸 ・女性 日本の服の歴史 「日本の服の歴史」 目次

<江戸流行色 四十八茶 百鼠 藍>

度重なる、奢侈禁止令により、お江戸庶民の皆さんの服色は、「茶色」、「鼠色」、「藍色」 のバリエーションに。

☆ 四十八茶

江戸茶路考茶団十郎茶 芝翫茶璃寛茶利休茶 媚茶鶯茶千歳茶

唐茶 鳶茶 百塩茶 宗伝茶 金茶 宝茶 雀茶 桃山茶 梅茶 煎茶 威光茶 憲房黒茶 遠州茶 信楽茶

☆ 百鼠

江戸鼠深川鼠銀鼠梅鼠 葡萄鼠黒鼠藍鼠 錆鼠利休鼠

素鼠 都鼠 小豆鼠 紅鼠 臙脂鼠 嵯峨鼠 壁鼠 玉子鼠 島松鼠 呉竹鼠 松葉鼠 納戸鼠 源氏鼠 濃鼠

☆ 藍

鉄紺薄藍納戸色 浅葱舛花色露草色水浅葱瓶覗

藍錆 藍玉子 藍鉄 藍生壁 藍鳩羽 藍天鵞絨(あいびろうど) 藍湊 藍深川 藍納戸 錆納戸 納戸茶

藍色は江戸全般、茶色は江戸中期から、鼠色 (男性に人気) は主に文化 (1804年〜)・文政から。
藍○○、○○納戸、○○茶、○○鼠のオンパレードです。色味を無視しての色命名も数多く有ります。
藍茶、藍鼠、茶鼠、互いにフュージョンしています。江戸っ子の心意気で色名を決めていたのかも知れません。
サンプル色以外に、各々の色名を記しましたが、遠くから見れば、殆ど見分けが付けられない色々です。
しかし、お袖が触れ合う空間では、見分けが付き、微妙な色合いを競っておられたと思うと、思わず「素敵っ」と。
* 尚、「四十八茶 百鼠」 の四十八と百は色数では有りません。多色と云う意味合いです。

☆ 納戸茶の色事情
   納戸茶色の最初は、染め上げた色ではないと云う話も有ります。
   ある武家か町人さんかが、呉服屋さんに藍海松茶 (かなり黒に近い藍色) の反物を註文し、その時点で、
   大事な品物だったのでしょう?出来上がった物を屋敷の納戸 (物置) の奥へしまい込んでいたそうです。
   ついうっかりか、結局は大切な物でなくなったのか不明ですが、年月が過ぎ去り、何かの拍子に存在確認。
   時間の経過で色褪 (あ) せた反物が目の前に。 しかしながら、中々捨てがたい色に変化、納戸茶に。
   「愚雑俎」 田宮仲宣(橘庵)(大阪出身)(1811年刊) 本当か嘘は? でも流行色の2色混ぜ迄も・・・・・。

路考茶のお話しは、「続 江戸時代の女性衣装」 でいたしましたが、
茶色は特に、歌舞伎役者さんの 「イメージカラー」 に。時系列順には、 (参考 色 ・彩飾日本史 長崎盛輝)

路考茶二世瀬川路考(1741〜1773)江戸の女形1751〜1772年(宝暦〜明和期)
梅幸茶一世尾上梅幸(1717〜1783)江戸の男役1751〜1772年(宝暦〜明和期)
舛花色四世市川団十郎(1741〜1806)江戸の男役1781〜1801年(天明〜寛政期)
璃寛茶二世嵐璃寛(1769〜1821)京 ・大坂の男役1804〜1830年(文化〜文政期)
芝翫茶三世中村芝翫(1778〜1838)京 ・大坂の男役1804〜1830年(文化〜文政期)
岩井茶五世岩井半四郎(1776〜1847)江戸の女形1804〜1830年(文化〜文政期)
高麗納戸五世松本幸四郎(1764〜1838)江戸の男役1804〜1830年(文化〜文政期)
団十郎茶七世市川団十郎(1791〜1859)江戸の男役1804〜1842年(文化〜天保期)

*梅幸茶は、黄味の緑茶色  岩井茶は、梅幸茶より濃い黄味の緑茶色  高麗納戸は、黒味の納戸色

路考茶は圧倒的に女性 ・男性問わず大人気、彼以外は、贔屓筋、通の殿方に人気があったとの事です。
赤系 ・紫系の服色の着用を規制された江戸庶民の方々は、
青、茶、鼠色の渋ーい色、及び、限りなく黒色に見えるカラーで勝負していたのです。(但し、アウター色。)

<葛飾北斎の着物はアートの極致>

☆ お江戸五人美人、上から

御殿女中 (女性)(現役キャリアウーマン)
どちら様かへ、お手紙 (メール) 書きに夢中のご様子。
outer ・・菖蒲と雲の柄 inner ・・緋と白縮緬

町人のお嬢さん (キャリア修得中の女性)
竹筒に入れた水をお花の鉢に注ぐかわゆいお姿。
outer ・・絞り柄 inner ・・緋と白の絞り柄

武家の奥方 (現役キャリアウーマン)
「揚げ帽子」 を付け、どちらかにお出かけ模様。
outer ・・草木柄 inner ・・緋無垢と白無垢と白縮緬

吉原女性 (花魁)(現役キャリアウーマン)
ややお仕事疲れ? 事件発生? 武家の奥方と目線合い。
outer もinner も桜の花柄 さすが素敵で、お洒落。

町人の内儀 (おかみさん)(現役キャリアウーマン)
読み物に耽るアンニュイ風な・・・。
outer ・・絽 (白絣文様が透過) inner ・・白絣と絞り

*揚げ帽子は通称 「角隠し」。
外出時、素敵な素顔を人様にお見せしない様にとの配慮。
でも髪を隠して顔隠さずの感じ。ご尊顔は拝せます。
日頃お持ちの? 「鬼の角」 を隠している訳ではありません。
    お江戸五人美人      お顔表情

☆ 立ち姿と座り姿美人

 

美貌 ・教養 ・才能と兼ね備えていたと云われる吉原女性を代表するお二人。
立ち姿美人の襟 V ゾーンのきめ細やかな配色。
立ち姿美人の表着 (outer) の扇柄に、何とフリンジ (房飾り) が付いています。言葉よりも・・・。
座り姿美人の3色共に三つ鱗 (うろこ) 柄のコーディネーション。紅 (赤) と緑の黄金補色。
水浅葱色から藍色へ連なるグラデーション。 紅 (赤) と蘇芳 (暗赤紫色) の近似配色。
紅 (赤) と黒のエクスタシー。 お後は、みずみずしい素足 (生足) まで? 只、一言、「スゴーイ」。

☆ 着物 (反物) を吟味する女性達


この図は、右の三人の女性が着物の反物を広げて、品定めとしている様子。頬杖女性は、早く私も大人に・・・。
       左のお二人は、「わたしく達には、ちょいと、派手過ぎるかしらん? いやぁーそうでも」 ってな感じ。

葛飾北斎 (1760〜1849年)   お江戸本所生まれで、浅草で亡くなる、元気な絵師、北斎さん。

 皆さん良ーくご存じと思いますが、彼は、当然 「富岳三十六景」 だけでは有りません。
 北斎の肉筆画には、素敵な女性を描いた絵が有ります。大概の絵は海外の方がお持ちになっています。
 彼に註文し、床の間に掛け、愛でていた持ち主は、やがて来る政変により、日本国外にお渡しする事に。
 海外のコレクターさん達のお陰で、今、私達はそれらの絵を確認、再認識できる現実には、いやはや・・・。
 明治時代に入り、日本文化の素敵な様式美を発見したのが、海外の偉い先生方と云う事になっていますが、
 その様な通り一遍な世迷い言には、耳をお貸しにならないで下さい。
 私達、日本人は、美しいものの中に囲まれて生活していただけなのです。それが日常だったのです。

 又、北斎さんは、 「北斎博物誌 文様編」 で
 着物小紋柄の見本の 「新形小紋帳」、
 女性用櫛 (くし) 柄の「今様櫛 (せっきん)雛形」 と云う絵手本迄も刊行して下さっています。
 それらは、私どもに取りましては、プリントの参考サンプル柄文様として、とっても役立っています。

★ お断り。この頁の画像は 「衣装 ・服」 を皆様に紹介する為、画像加工しています。
   故に、決して 「絵」 としてご覧にならないで下さい。
  「絵の余白」 を無視していますので、「絵」 に成っていません。葛飾北斎さんには大変失礼しています。

<粋(いき)・通(つう) とは 江戸時代に>

粋 (いき )は、広辞苑で、
(「意気」 から転じた語)
・気持や身なりのさっぱりとあかぬけしていて、しかも色気をもっていること。
 例証として、歌舞伎、浮名横櫛 「その粋(すい)な多左衛門どのなればこそ、かうしたいきなお富さんを」
・人情の表裏に通じ、特に遊里 ・遊興に関して精通していること。 反対は野暮。

通 (つう) は、広辞苑で、
・ある物事について知り尽していること。
・人情や花柳界の事情などをよく知っていて、さばけていること。やぼでないこと。また、その人。

「粋の構造」 で九鬼周造は、(1930年刊)
粋は「あかぬけていて、張りがあり、色っぽい事。」 と述べておられます。
具体的には、髪の毛をきちんとなでつけて乱れがないのが野暮で、後れ毛が有るのが粋との事。
刺激的には、シースルードレスが微妙に醸し出す、拒みと受け入れの両方を併せ持つ雰囲気が粋と。

意気は 「気立て」 「心映え」 「気前」 「心持ち」 「意気込み」 「心意気」 で、
結局は、辞書特有の巡り巡って振り出しに戻る、いつもの循環に陥ります。
広辞苑例証の歌舞伎の世界では、スイ (粋) は多左衛門で男性、いき (粋) はお富さんで女性に。
九鬼周造は、後れ毛 ・シースルードレス (羅で内側が透けて見えるうすもの全般を云い、絽、紗の着物) ・
着物の襟を抜いた着こなし、ですので女性になります。

ここからは、kids goo の検索対象外のページに成る事を覚悟して展開します。
おおよそ、太古より、花と柳の世界に限らず、この世の中は、女性と男性 (+中性) で成り立っています。
その女性、男性、個々人の集まりが世の中 (世間 明治以降の翻訳語では社会) に。
昔、吉本ばなな さんのお父さん、吉本隆明は、
女性と男性のカップルを  ――――――――――→ 「追幻想」
女性、男性、個々人の集合体を =======⇒ 「共同幻想」 と素敵に命名され論じられました。
この世は、自然物も含め、すべて幻想世界、ファンタジーな時空間。
ファルコン (ネバーエンディング ・ストーリー) に乗せて貰い時空を飛ぶ生命体の私達。
そんな 「訳の解らない世界」。
故に、私達、人間は、何とか分かり合おうとする為に、「心の遣り取り」 をする事に。
「罪」 か 「ラッキー」 か 「幸せか (し合わせ)」、    (心は同じでも立場により云い方が異なるだけ)
どちら様かが私達人間に、「気持ち良さ」 を与えて下さったお陰で、より心の綾のやり取りに奥深さが。

その表現方法の一つが 「粋」。
服に関する事で、こと、女性においては、シースルー ・着物襟抜き着こなし表現。
この表現は、平安のみやびの世での 「女と男の心模様(出だし衣)」 と同じくします。
「見えないようで観える。観えるようで見えない。」 演出に他有りません。
古来より日本人の持ち合わせる
『 「人・(物)」 と 「人・(物)」 との 「間」 を完全に遮断しない。』 気持ちのやりとり。
又、この方法、出で立ち、仕草を、分かっているにも関わらず、てら (衒) って、
こ (媚) びる、おもね (阿) る、へつら (諂) う、
何て、女性のお気持ちを少しもお判りに成らない振りをして語る かわゆい 世の男性達?
この表現もひょっとしたら、おつ (乙) なのかも知れません。 いや、野暮ってもんじゃーございませんか。

ちょいと、服を離れ、髪型では、 (ファッションとしては一体です。)
後れ毛表現、これも古来からの日本の美しさに対する教えです。
日本の職人さん (アーティスト) 達は、必ず表現方法の一つとして取り入れておられます。
構築物、物の配置などを必ずと云って良い程、シンメトリー (対称) になさいません。
何とも表現をしかねる、アンバランスのバランス表現、アシンメトリー (非対称) の世界です。
お寺の屋根瓦をワザと一枚葺き忘れ。 龍安寺のお庭の石配置。 床の間の違い棚。
昨今の、日本橋地区建築物では、コレド日本橋ビルのアシンメトリー 。 (新 丸ビルと見比べて下さい。)
ロジックの積み重ねの新丸ビル、それ以上の筋書きをした味わい深いコレド日本橋ビル。
(決して中のコンテンツでは有りません。努々新 丸ビルが汚いとは申し上げていません。ただすぐ飽きて・・・。)
光り輝く2、3本の細く・しなやかな黒い後れ毛、うなじ (項) から垣間見える柔肌に、
思わずウットリ、とろけ、ファンタジーな空間を思い巡らすのは、私 (わたくし) だけかしらん。

粋は、美しい気持ち (心) の表意記号
観えそうで見えない、拒否と承諾の透けるドレス。 (レースも同じ表現です。)
YESでもNOでもない、「間 (あわい)」 表現、曖昧表現。 お決めになるのは 「あ・な・た」。
素敵な女性は、常に2つのボールを相手 (男性 ・女性) に投げかけています。(当然、間(あわい)ボールも)
そのボールをキャッチして、投げ返すのは相手の番であり役目。
彼女の 「心のたていと・よこいとで織りなしたボール」 を斟酌し投げ返すのが、「心の遣り取り」 の始まり。
「粋」 な心を 「粋」 で返せるのが 「通」 って事になるのではございませんでしょうか。
やぶさか、心が通い、ボールが投げ返せ、大願成就の暁には、
これぞ、お二人の追幻想世界が織りなす、素敵な時空。  お後は、よしなに、ごゆっくり。

鯔背な美人

<鯔背(いなせ)とは>

  元気が良い男の子 ・女の子 (若者) は、何時の世も・・・。
  元気が無いのは、「気」・「心」 が無い事。
  鯔背 (いなせ) は、このお江戸時代に生まれた 「言葉」。
  威勢が良く、元気で、明るい日本橋、魚河岸の 「お兄さん」 達の通称。
  お侍さん達を含め、100万人都市だったと云われている 「江戸」。
  各藩 (地方独立国家) の捕らわれの連れ合いがいる藩主の皆さん、
  及び、部課長級のお偉いさん以外、殆どが若い単身赴任の男性達。
  葦原湿原地帯だった後の東京。皆さんのご努力で、台地作り、
  幕府の中心、お金が回る江戸に、土地を持たない方々は、お集まり。
  消費生活文化は、嫌がおうでも、右肩上がり曲線。
  腕と頭に力のある男性達は、こぞって江戸へ、エードとまっしぐら。
  腕に力が無いばっかしに、後追っかけの女性達。
  勢い、その分女性の方々は男性に比べて少なめ。
  葦原 (よしはら) を、素敵な場所にと 「吉原」 に。
  やがて、人口増の煽りを請け、吉原プロデューサーは移転の申請、
  明暦の大火もあり、隅田川で交通の便が良く、浅草寺裏手に。
  江戸食生活の一翼を担う、若くて、ピチピチのお魚やさん。
  吉原にお出かけしたいも、お足 (お金) が不足。
  それならと、出世魚にあやかって、髷の銀杏をちょいと立て、
  何れ、おいらも出世して、トドのつまりになる前に、(ボラとして)
  吉原に一度 と 「夢」 を託した?、「鯔背(イナせ)銀杏」 の髪型。
  「縁はイナもの味なもの」 で、その間、お助けお姉さん。
  その女性が、左図。スレンダー柳腰で、素敵なお方。
  北斎若かりし時の 「後ろ姿超美人」。 藍のドレスに広幅帯。

引きこもり、自己を見つめる若者も、短期間は良いけれど、やっぱり 「鯔背 (いなせ)」 で行かないと・・・・・。
上の素敵な女性は、トドのつまった酸いも甘いも訳知りぶり顔の男性を、手拭いストールで力強く振っています。
(画像が小さくよく見えませんが、彼女の髷結い赤布の下に男性の顔が描かれています。北斎さん素敵っ。)
「パソコンを捨て、街に出よ。」 気持ちの通じ合いはダイレクトに。 でもお帰りの際は、「Maccafushigi 」 に。

☆ 尚、「舞絽倶 日本文化と服 ・小物 」 で粋 (いき )について展開中です。
   「粋(いき)・鯔背(いなせ)と服」 も合わせてご覧頂きますと、とっても幸いです。

<文化 ・文政 ・天保時代>

ここで、綱紀弛み風俗乱れ、江戸市民は遊び惚け、町人芸術は爛熟の極と云われている文化 ・文政 時代

1804年 2月文化時代スタート 文化時代ですので何となく文化チック?
1805年 滝沢 (曲亭) 馬琴(1767〜1848)(江戸深川出身)、「椿説(ちんせつ)弓張月」 前編刊行
1806年 1月幕府、薪水撫恤令を出し沿岸諸藩に国の防備を命じる  3月芝の大火
10月江戸町人らに御用金を課す
1809年 式亭三馬(1776〜1822)(江戸出身)、「浮世風呂」 前編刊行
1810年 2月相模・安房海岸に砲台を築造する
水戸徳川家、朝廷に「大日本史紀伝」を献上
1811年 番所和解御用掛を設置
1815年 酒井抱一(1761〜1828)(姫路藩主 酒井忠以 (ただざね) の弟)、尾形光琳の百回忌を行う
1819年 塙保己一(1746〜1821)(武蔵国出身)、「群書類従」 正編刊行
1818年 4月文政時代スタート
1821年 伊能忠敬(1745〜1818年)(上総国出身)、「大日本沿海輿地全図」 が完成
1823年 7月オランダ商館にシーボルト(独人)が出島に着任
1825年 2月異国船打払令
1829年 3月江戸大火 (己丑(つちのとうし)=佐久間町の大火)
柳亭種彦(1783〜1842)(幕臣)「偐紫(にせむらさき)田舎源氏」 の初編刊行
1830年 12月天保時代スタート
伊勢お陰参りの大流行 旅行ブーム
1831年 この頃年から、葛飾北斎の 「富岳三十六景」 の刊行始まる
1832年 為永春水(1790〜1843)(江戸出身)の人情本 「春色梅児誉美 (暦)」 の初編刊行
1833年 この年から、歌川広重(1797〜1858)(定火消同心の息子)の 「東海道五十三次」 の刊行始まる
天保の大飢饉 〜1839年
1834年 2月江戸大火
3月水野忠邦(1794〜1851)(唐津藩主 水野忠光の次子)が老中に 〜1843年
1836年 奥羽地方大飢饉での大打撃、死者多数
1837年 徳川家斉がリタイヤー、家慶 (1793〜1853)(在職 1837〜1853) へ
1838年 4月江戸大火
5月江戸、奢侈禁止令
1840年 7月オランダ船入港して、アヘン戦争の情報伝わる
1841年 閏 1月家斉が死去
5月天保の改革スタート
10月奢侈禁止令
12月各種株仲間を解散する
1842年 草双紙 (絵草紙) の規制、人情本禁止、柳亭種彦 為永春水が処罰される

この華やかな時代、徳川家斉、恋の遍歴は、続 女と男が織りなす心模様(お美代の方)をご覧下さい。

<天保時代の奢侈禁止令>

歴史教科書風では、江戸3大改革の最後、水野忠邦による 「天保の改革」
彼の奢侈禁止令に対する取り締まりは、それ以前に比してそれは厳しいものだった感じです。
江戸町人は、「絹縮緬」 「羽二重 (絹)」 の素材 (生地) 着物の着用を規制されました。
とりあえず、「絹高級衣装は、何が何でも着てはだめ。」 とのお達し。
倹約に励めと云われても、庶民の一番大好きな 「消費生活」 をめし上げるとは、驚き、桃の木、ってなもんで
皆さんの抵抗策と云うと、

1 「絹縮緬」 「羽二重 (絹)」 地の着物よりも、高価だった「古渡唐桟 (こわたりとうざん)」 地の着物へ
   古渡唐桟とは、素材が綿で極細ストライプ柄。   「庶民の縞柄の着物」 はこちらに。
   絹素材よりお値段が高い綿素材、なぜお高いかは、皆さん良ーくご存じ、インポート、海外製品だったから。
   古渡とは、室町時代以前に日本に輸入された織物、器物 (うつわもの) 等の総称です。
   唐桟は、唐は輸入物。桟は桟留 (サン・トメ) でポルトガル語の漢字当て、英語はセイント(聖)・トマス。
   彼のインド布教伝説による、綿 (木綿) の産地の異称です。産地はコロマンデル地方で中心はマドラス。
   マドラスチェックの発祥地です。
   故に、古渡唐桟は、室町時代末にポルトガルかオランダ船がインドより日本に運んだマドラス製の綿生地。
   今で云う、リーバイス501の初期もので、超ヴィンテージ物、お値段がお高くても ってな感じになります。

2 外から見える表地には我慢し、裏地を超高級素材で文様柄を施す事に
   これは、中々素晴らしい発想です。ZIPANGU も小さな声でお薦めします。
   普段は見えない処に 「オシャレ」 をするこのお気持ちは、ファッションの達人です。
   気付いてくれる少しばかりの素敵なお方にだけ、お分かり頂ける究極の Fashion です。
   お江戸の粋なお方は、表、何も変哲のない無地で、裏、豪華絢爛、品(ひん)有りの偽紫 ・紅地に模様柄。
   偽紫 ・紅と称して、本紫 ・本紅色を着用されていたとの事です。残念ながら?お役人さんには判別不能?

等々、いろんな手練手管で、規制から逃れファッションを楽しまれました。お江戸町人さん達に拍手喝采です。

*セイント(聖)・トマスは、イエス・キリストの十二使徒の一人で、インドへ布教に来たと云う伝説が有るとの事。
  江戸の国学者、平田篤胤 (1776〜1843)(秋田出身)は、「霊能真柱(たまのみはしら)」(1813年刊)で、
  「いざなぎ と いざなみの命」 を 「アダム と イブ」 の元祖だと述べています。

<三都物語 江戸、京・阪 着物事情>

各地方毎、ファッションセンスの趣に違いが有るのは、今の世と何ら変わりません。
それではこの江戸時代、大阪出身で、後に江戸深川に住み、江戸、京阪を行き来し、
1837〜1867年に書き続けた、喜田川守貞(1810〜?)の 「近世風俗志 (守貞謾稿)」 に依りますと、

「当時 (1658〜1662年) 武家市中とも、婦女の風変異なることなし。
其の古風、今 (1830〜1843年) も武家に遺 (残) れり。
(本注、御殿女中に遺る也。小臣武士の婦女は、更に古風を失して、坊間 (市中) と共に、時様に押しうつれり)
民間は古風更に失せて、時々の流行に走り、今は御殿女中と坊間の婦女と、其の風姿千里の差となる也。
蓋 (けだ) し京阪も市民時々の流行変革ありと雖 (いえど) も、自づから又古風存するあること江戸に勝れり。
江戸は八九十年来、特に古風を失脚す。」 と有ります。

お江戸(東京)町人は、流行を追い、京都、大阪の町人は、未だコンサバティブでクラシックだと述べています。
彼自体、up -to -date (今日的) でなく保守的な考えの持ち主で、
浪速出身の方ですので京、大坂の方に身びいきしていたのかも知れません。又、守貞は庶民の女性は、

「京阪市中の(女性)も、式正 (正式) の時、或いは式正の時主人の供する等、紬紋付き専用とす。
江戸の女性、紋付着する者稀(まれ)にして縞物を専(もっぱら)とす。」  と記していますので、

京都、大阪地区の女性は、 絹紡糸の紋有り着物。
東京地区の女性は、木綿のストライプ柄着物。  と云う違いが有った事に。

三都で差異が有る様にお感じになるやも知れませんが、現代に比したら、とても差異は 「カワユイ」 です。
マスメディア皆さんは、日本全国、津々浦々同じ姿と情報宣伝していますが、実際はとても違います。
北は、北海道、南は、九州 石垣島まで、
各地区の女性の方々、それぞれ、独特のテイスト (味わい) をお持ちになっています。
と云うよりも、その事は、「自然の理 (ことわり)」 にとっても適っていると ZIPANGU は考えています。

<女性の羽織着用は京都から江戸へ>

次は、女性が羽織をはおる様になった経緯です。(羽織は落語家の皆さんが着ているジャケットです。)
徳川家康が江戸に幕府を開いた時、三河国より一緒に引っ越してきた町人で限定3名様の「江戸町年寄」
喜多村彦右衛門、樽屋藤右衛門、奈良屋市右衛門の内、
喜多村家、次男坊の喜多村信節(1783〜1856)が書いた「嬉遊笑覧」(1830年刊)に依りますと、

「下手談義豊後ぶし語りの事をいふ処、あまつさへ女があられもない、羽織を着て、
脇差(刀)までさした奴も、折ふし見ゆるぞかし。」 と有ります。

1763年頃、豊後節を語る女性が、京都から江戸吉原に来て、その曲がお江戸八百八町に流行り、
彼女が豊後節を語る際に羽織を着ていて、この事で、江戸女性も羽織を着用アイテムにしたと述べています。
豊後節語り女性→深川女性 (芸妓) →商人妻女と広まり、天保時代には老若を問わず羽織がファッションに。

*江戸町年寄は、江戸町役人の代表。1590年設置、町奉行の元で町政の執行に当たり、町名主を支配した。
  江戸町名主は、総数ほぼ264人 触書の伝達、家屋敷の買い取り譲渡等、町内の事務を行う。(日本史辞典)

*豊後節は、宮古路国太夫の豊後掾受領後の宮古路節(国太夫節)の別称で、
  常磐津節 ・富本節 ・清元節 ・新内節などの総称だそうです。(広辞苑)
  私どものオフィスの近辺で、時折、三味(線)の音(ね)が聞こえてくるのですが、何節なのかはさっぱり・・・。

<葛飾北斎 究極の着物コーディネートファッション>

究極の着物コーディネート お洒落な襟・胸元

 葛飾北斎、最後の美人画

 1811年〜1833年
 北斎 52歳〜74歳の間
 に描かれた美人画になります。

 「北斎美術館3美人画」 集英社
  を参考にしたものです。
素敵で粋な世界

アウター 濃藍の小袖 (ロングドレス) 黒の襟 裏地は紫
インナー 1 表地 古渡唐桟? 裏地 小紋模様
      2 飛柄模様
      3 小紋模様
      4 総鹿の子絞り 紅
帯     帯あげで表着を裾上げ シンプル帯に紅帯あげ
小物   花簪(かんざし)べっ甲の笄 黒と橙 蛇の目傘
履き物  黒塗り足駄 (高下駄)

北斎は、既に、この時、アウター ⇒ シンプル インナー ⇒ お洒落で 「粋」 なコーディネートを提案済みです。

<葛飾北斎の美的感性>

葛飾北斎は、日本人を代表するアーティストの三本指に入る絵師 (芸術家) と考えます。
日常生活の中での美の追究!! 当然、彼の 「生き様」 も含めて。
北斎は、あの世に旅立つ際、「もう、5年生きられたら、本物の絵描きになれるのになぁー」 と呟いたそうです。
もし、彼があと5年生き延びたとしても、
死の間際には、同じフレーズ (phrase) をリフレイン (refrain) していたのではないかと勝手に考えています。
北斎は、純日本絵師ですが、未だメジャーになる以前に西洋画法に関しても、知識を会得しています。
この時代に「西洋画」 を学び油絵で描いた、司馬江漢 (1747〜1818) (浮世絵師 鈴木春重)が有名ですが、
どっこい、北斎は画材の油を使用しなかっただけで、浮世絵版画で西洋画風表現をしています。
西洋画の基本である、パースペクティブ(perspective = 遠近法) 光と陰 (明暗 ・陰影法) 等々。
北斎を始め、日本の絵師さん達は、こぞってご自分達自身で上手く利用し日本風に、焼き直しました。
又、北斎は、長崎出島在住オランダ人が江戸情報仕入に上京した際、彼らに 「浮世絵」 を所望されています。
オランダ人は当然外交官ですので、それも、本国からは遥か遠い東の国への好んで?の赴任、故に、
彼らも好奇心旺盛の方々で裏の顔はスパイ (spy ・諜報部員)。
只、彼らの中に絵心がお有りの方がいらしたらしく、自国では味わった事がない、
構図、色づかいの浮世絵に、関心をお示し下さり、江戸市中で人気があった浮世絵版画を
数多く購入されたと考えています。 調度この頃、
日本は 「旅行ブーム」 「名所ブーム」 でそれをよりアピール (appeal) する雑誌の類が出版されていました。
それらのイラストレーターが皆さんよくご存じの、葛飾北斎、歌川(安藤)広重らの方々です。
やがて、オランダ外交官は江戸で手にした、浮世絵版画を自国に送るか、お仕事明けで持ち帰ります。
そして、それらの浮世絵版画が、行き詰まり気味で何か新手法が無い物かと模索していた
西洋の絵描きさん達 (アーティスト) の目に触れる機会が訪れます。
彼らにとっては、斬新で画期的な浮世絵版画は、驚きの連続・強烈な印象を与えました。
後に云われた、印象派、後期印象派の絵描きさん達は、ご自分の絵画にそのテクニックを取り入れる事に。

尚、このページで紹介した、葛飾北斎の描いた女性着物絵は浮世絵版画ではなくすべて肉筆画です。
更に、それらの肉筆画は、旅行 ・名所ブーム (富岳三十六景など) 時期以前に描かれた作品です。
北斎の浮世絵版画 富岳百景、北斎画譜、北斎漫画、富嶽三十六景、諸国名橋奇覧、諸国瀧廻り、等は、
「山口県立萩美術館・浦上記念館」 でご確認下さい。
「Top」→「コレクション」→「浮世絵コレクション」→「収蔵作品検索システム」→「浮世絵」→「葛飾北斎」で。

<北斎画号の変遷と晩年の葛飾北斎>

「葛飾北斎の美的感性」 に関して、何もコメント (comment) していません。
なぜならば、「美の感性」 は、飽くまでも、ご自身で 「感じ・愛で・安らぐもの」 だからです。
決して、他の方の 「物言い」 には耳を貸さず、ご自分の 「五感 + 一感」 をフル出動して 「感じて」 下さい。
決して、マスメディアの誘惑には屈せず、あなたの耳目で味わって下さい。
あなたの 「気持ち」 「心音・根」 を揺り動かすものが何処かに存在する筈です。
それこそ、あなただけの、素敵で、お洒落で、美しいものになると 思い、考えます。

ZIPANGU 的表現では、「全面揺らぎの美」 もさることながら、「八分の五の揺らぎの美」 も中々です。
日本文化独自のファジー (fuzzy) 美と感じる側のファジー感性のコラボレーション。
決して、割り切れず、円周率の小数点が延々と続く感じの感性美。
ほんの少しだけ、「のほほん」 とするだけで、
あなたの気持ちを 「ほっ」 とさせてくれるものは、すぐそこに存在します。

葛飾北斎は、ご自分のお気持ちの変化 ・昇華 ・変貌を、「画号」 で表現しています。代表的な画号は、

20〜35歳36〜39歳39〜42〜49歳〜52歳52〜〜56歳61〜75歳〜74歳75〜90歳
春朗宗理北斎〜   〜北斎為一 画狂老人
  可候〜 〜可候    
  辰政〜 〜辰政     
   画狂人      
     戴斗〜  〜戴斗 

春朗(しゅんろう) 宗理(そうり) 可候(かこう) 辰政(ときまさ) 戴斗(たいと) 為一(いいつ) 卍(まんじ)

「後ろ姿超美人」 A → 宗理   「江戸五人美人」 B.C の2点 → 北斎   「立ち姿・座り姿美人」 D → 画狂人
「北斎究極の着物美人画」 E → 載斗  の順序で描かれた葛飾北斎の作品です。

富嶽三十六景を代表する、とてもメジャーで有名な、

「凱風快晴 (赤富士)」「神奈川沖浪裏」「山下白雨」「東都浅草本願寺」「江戸日本橋」「遠江山中」
「甲州三坂水面」「深川万年橋下」「常州牛掘」「尾州不二見原」「甲州三島越」「本所立川」
「甲州石班沢 (かじかざわ)」          等々枚挙の暇もありません。

この富嶽三十六景は1831〜1833年の間に制作 ・刊行されていますので、葛飾北斎は71〜73歳の創作品。
江戸時代の流行色であり、尚かつ日本人の心に響く、「藍色」 をふんだんに使用しています。
富嶽三十六景の内、最初に刊行された36枚はこの色を多用しています。(後の刊行の10枚は墨刷り。)
そして、青系の色は、「プロシャンブルー (ベルリンブルーとも)」 と云われる化学染料 (顔料)、通称「ベロ藍」。
 (最新輸入物のプロシャンブルーの染料は、独製ですので多分、オランダの外交官経由と思うのですが?)
未だ勝手浮世絵版画で彩色された事がなかったベロ藍色に、江戸庶民は度肝を抜かれた事と思います。
とかく、私達は 「新しい」 ものには、すぐ飛び付きたくなるのが性癖で取り柄です? 決して「畳と○」 ではなく。
当に現代のインディゴデニム、ブリーチアウトされた色からインディゴ色までのグラデーション。
私ども、ZIPANGU でも思わず 「神奈川沖浪裏デニム ポケットティッシュケース」 で表現してしまいました。

北斎の画号に戻ります。 上で紹介しました10タイプの命名。とても味わい深いとお思いになりませんか?

春朗青年、爽やか健やか朗らか「婦女風俗」ふくよか 美人
宗理壮年、理路整然で論理的「夜鷹」 Aやなぎ腰美人
北斎惑わず、穢れなき身です?「五美人」 B.Cみんなが美人
可候なすがまま・なるがまま  
辰政星 ・月 ・日、自然の摂理  
画狂人すべては心の趣くままに「二美人」 Dどちらも 美人
載斗北斗七星を頂くお姿「雪中傘持ち美人」 Eなんとも 美人
為一すべての宇宙は混然一体「富嶽三十六景」 「諸国瀧廻り」 
画狂老人老いても動ぜず元気です「怒濤男浪図」 上町祭屋台天井絵素直で大胆なる男性
功徳円満 ・吉祥万徳「怒濤女浪図」 上町祭屋台天井絵素敵でお洒落な女性

*2007年に還暦をお迎えになる第一次ベビーブーム ・団塊の世代の皆さん。
  日本の経済基盤を担い、支え、オイルパニックにも果敢に立ち向かい、バブル崩壊で艱難辛苦を味わい、
  漸く、無事に定年の年月となり、企業を去る経済戦闘軍団の方々に対しまして、
  心より、「大変お疲れ様でした。」 と申し上げます。
  春より、新たな旅人となり悠々自適な?お暮らしをスタートされる皆様方。
  葛飾北斎をご覧下さい。 何と彼は、60歳なんてまだまだ子供! ってな感じで、
  今から約190年前に、素敵にお洒落にお過ごしになっていました。お老けになるのは未だ早しです。

北斎は、83歳の時 (1842年)、江戸からは遥か彼方の小布施に旅しています。
出迎えてくれたのが、高井鴻山 (1806〜1883) (地元の豪商で文化人)
小布施は、今現在、長野県上高井郡小布施町大字小布施。ダム工事ストップから復活になる長野県です。
昔は林檎、今は北斎と青い目の女将さんで一躍有名になりました。
どうです、定年を向かえるお父さん達!! 北斎は、「歩き」 ですよ。 高速も新幹線もないのです。
元気元気の北斎です。そして85歳の時に小布施に足を伸ばした際の作品が上の「怒濤 女 ・男浪図」 です。
いやはや、何とも、頭が下がります。

北斎には、お栄さんと云うお嬢さんがいました。彼女もお父さんを見習い絵師になっています。
画号は 「(葛飾) 応為」、北斎が彼女をいつも 「オーイ」 と呼んでいたから 「応為」 との事ですが、
真偽の程は、定かでありません。
彼女の描いた作品の中に、「夜桜美人図」 (1830年頃) があります。
この江戸時代は、未だ、電気は不通ですので、屋外の灯りは 「灯籠 (とうろう)」 になります。
灯籠の灯りに煙る隅田川の 「夜桜」 と灯籠の明かりで (恋文?) を書きしたためる素敵な美人。
何とも云えなく、ほんわりとした絵です。
そして、わたくし毎ですが、日々の仕事の行き帰りに、何とこの 「灯籠」 が目を楽しませてくれるのです。
その絵は 「メナード美術館 葛飾応為 夜桜美人図」 で確認できますが、この画像は余り感心しません。
そろそろ、年に一回の 「桜」 の季節を迎えるお日柄となりました。(隅田川ほとりの常夜灯は灯ります。)
これからの日本を担う若き経済戦闘士の皆さんは、「桜咲く」 或いは 「桜散る」?
何れにせよ、お時間は、たっぷりあるので、合格の方は、よく遊び、不合格の方は、よく学べ ってな感じ。
2007/ 2/10

現在、「ギメ(フランス)東洋美術館所蔵 浮世絵名品展」が日本で開催されています。
2007年 2月25日までは、太田美術館 (東京) 4月10日〜5月27日の間は、大阪市立美術館で開催。
葛飾北斎の 「龍図」 が日本に帰っています。北斎の亡くなった (数え90歳) 1849年の作品との事です。
ギメは、エミール・ギメ (1836〜1918) フランス リヨンの方。彼は、1876年 8月〜11月の間来日しています。
その際、ギメは多くの仏像 ・仏具を収集していますが、「絵」もどちら様から買い求め、譲り受け?ています。
彼の美術館に収蔵されている作品で、葛飾北斎の絵は多くありませんが、
喜多川歌麿作品は凄いです。
歌撰恋之部 「深く忍恋」 「物思恋」 婦人相学十躰 「面白キ相」 北国五色墨 「川岸」
娘日時計 「辰ノ刻」  「鮑取り」 「二つ枕」 等々。
東洲斎写楽作品も凄い、
「二代目坂東三津五郎 石井源蔵」 「市川鰕(海老)蔵 工藤左衛門祐経」 「三代目市川高麗蔵 志賀大七」
「尾上松緑 松下造酒之進」 「三代目瀬川菊之丞 田辺文三妻おしづ」 「四代目岩井半四郎 乳母重の井」 等々

エミール・ギメ は写楽の 「首絵」 と歌麿の描く女性と日本の UTAMARO を西洋社会に紹介して下さいました。

夜桜美人の灯籠

<夜桜美人の灯籠>

2008/04/01 雨に煙る夜桜美人の灯籠?
 
この灯籠は葛飾北斎のお嬢さん、
お栄さんが 「夜桜美人図」 で描いた「灯籠」ではありません。
これは、今現在、隅田川、桜橋のほとりにある灯籠です。
縁起に依りますと、
明治初期より牛嶋神社の境内にあったもの。
対岸の浅草に渡る目印、
向島料亭に誘う温かい光だったとの事。
その牛嶋神社も関東大震災を期に
現在の吾妻橋のほとり、旧水戸藩下屋敷の跡地に移転。
この灯籠のみこの地に残されたのでした。
この地とは、当に、隅田川岸。
お栄さんが残した絵の構図感じ趣が・・・。
今でも、対岸は待乳山聖天とその奥には暗鬼紅灯の巷?
こちらの向島はほのかな三味の音が澄み渡る料亭街。
只、口惜しいのは、桜の季節にしか火が灯りません。


続きは、又、後日にいたします。 お楽しみに・・・。
 

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