平安後期〜鎌倉時代の衣装 フロント 摩訶不思議へ Maccafushigi

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日本の服の歴史 「日本の服の歴史」 目次

<みやびの世からの移ろい>

1027年にこの世を去られた藤原道長さん。それ以後は息子さん達の時代(とき)に入ります。
政治向きには、摂関政治 ⇒ 院政 ⇒ 武士の台頭 ⇒ 鎌倉時代へと流れ。
1185年11月、守護 ・地頭設置及び兵糧米の徴収の勅許を得た源頼朝の関東鎌倉政権までの約160年間。
心安らかだった平安の世は、やや雲がかかり変容する事に。やがて風雲急を告げ平家 ・源氏の武家政権へと。
政治 ・経済状況が変化するに伴い、文化構造が変貌するのは世の習わし。服 fashion もご多分に漏れず変容。

<花園左大臣(源有仁)の抵抗と強装束(こわしょうぞく)>

☆ 服制度の乱れ ・綻び
女性の十二単の乱れ ・アバンギャルド化は 「十二単 資料」 でお話ししました。
何時の世もfashionを引っ張るのは、この女性の 「自己顕示欲」 に依りますのでこれは当然です。
それでは、今の世も服に保守的な男性はどの様だったかと云いますと、

「今鏡」 白川わたりの段 (二条関白 藤原教通 公伝) (諄いかも知れませんが、道長さんの息子です。)
「いつの事に侍る事にか。大御遊びに、冬の装束に半臂 (ベスト風) を着給へりれるを、肩ぬがせ給ふ時、
 宇治殿 (藤原頼通) より始めて、下襲のみ白く見えけるに、此の大臣ひとりは、半臂を着給へりければ、
 御日記に侍るなるは、予独半臂の衣を着たり。衆人恥ぢたる色ありとぞ侍りける。」
生真面目な?藤原教通さんだけがベストを着用なさっていた感じで、回りの方々は、いたく頭を掻いたみたいです。

「今鏡」 はらばら御子の段
「皇子御元服の時めす袍の色、浅黄とあるは、青か黄か。おぼつかなくて、花園の大臣に尋ねつるに、覚えず。」

時のファッションリーダー?の源有仁さん (1103〜1147) は、つむじ (旋毛) を曲げられたみたいです。
源有仁さんは、1103年生まれですので、清少納言 ・紫式部おばさま方のご活躍から約100年後の方です。
後三条天皇がお爺さんで、院政を敷かれていた白河上皇の養子でしたが、崇徳天皇がお生まれになった為、
臣籍降下で源姓に。そんなお血筋ですのでスーパーエグゼ。尚かつ、
お遊びだけに現を抜かす様な事はせず、古来からの儀式作法 ・故実を大事になさりお纏めになったお方です。
「春 ・秋玉秘抄」

彼は 「強装束」 を作成した張本人扱いされていますが、
本質は、古より伝わる紳士礼服の服制の乱れに 「もの申された」 感じです。

関根正直さんに依りますと、
 1 服飾の華麗な事。
 2 冠の巾子烏帽子の頂が高い事。
 3 指貫の中を踏んづけて穿く事。
以上3点は、藤原道長さんの世に既にデビュウしていたと述べられています。
確かに、束帯と表袴と直衣は直線の感じで、糊付け等の処理を施してある様に見えます。
それに比べ、指貫のボトムは曲線で所謂 「萎装束 (なえしょうぞく)」 の感じです。
それらの違いは、「平安朝 (平安時代) 衣装」 を確認下さい。
要は、だらけだした(カジュアルウェアー風)風潮にピシッと活を入れる為に、
折り目正しい所はより折り目正しく、糊付け分量を増やし、肩線などを強調させたのではないかと考えます。
そのファションが後の世の武家社会に取り入れられ、
威風堂々としている様に見える武士装束 (礼服) になったのではないかと考えています。
因みに、この時より一気に強装束一辺倒にはなっていません。
「玉葉(玉海)」 九条兼実(月輪摂政) 1168年正月16日条  「密々着打梨装束乗網代車参内。」
「次将装束抄」 藤原定家 五節寅日条  「同夜束帯打梨。卯日如昨日。」
上記の打梨は 「うちなし」 で、服 (布) を木槌で叩いて柔らかく仕上げる行為です。萎装束も健在していました。

「強装束」 を代表する絵は、京都の神護寺蔵 国宝 源頼朝像の似せ絵。最近の日本史では、足利直義とも。

<公卿と殿上人のメンズはカラフル・カジュアルへ>

☆ 礼服のカジュアル化

小直衣 ・狩衣直衣
 小直衣 ・狩衣直衣

保元の乱 (1156年)、平治の乱 (1159年)、それに続く平氏 ・源氏の戦いによる
平安後期の世の不安定さ。それらに伴い、格式有る服作法にかまけられず自然と
服装は簡便なカジュアル着になっていったとの事。 (鎌倉時代に近づくに従い。)
公卿、殿上人は 「小直衣」 「狩衣」 を着用して政府のお仕事をなさった様子です。
小直衣は狩衣の裾に襴(らん)を付けた物で、一名 「狩衣直衣」 とも。
襴は 「ありさき」 と云った様です。 「ありさき」 とは 「餘り先」 の約した詞との事。
増鏡 第八、北野の雪の段 「院 (後嵯峨) 御分御小直衣皆具、・・・。」
後嵯峨上皇 (1220〜1272年) も小直衣をおめしになっていた事がこれで分かります。
「いざ鎌倉、もしかの時の、小直衣かな。」 何てとこかしらん。
確かにカジュアルウェアーは動き易いです。でも反作用で、背筋がピシッとしません?

☆ 礼服の華麗なるカラフル化

平安のみやびの世から続く華麗な色の礼服はこの時代もより華美に継承されたそうです。
礼服の形(デザイン)には規制された形しか有りませんでしたので、
勢い色で勝負しお洒落度を競い合った感じです。
何時の世も、ファッションリーダーは 「若者?」 です。
この時代も既存のカラーに飽き足りず、
若き殿上人 ・公達 (ヤングエグゼ達) は様々な意匠にトライし凝ったみたいです。
その様な果敢な若者達のお洒落さを、少ーし、長ーくなりますが記してみます。

増鏡 第八、あすか川の段      (尚、増鏡は、鎌倉時代に記された書物ではありません。)
(1268年閏正月23日 舞踊演奏会のリハーサルイベントの際。翌年は後嵯峨院50歳に)
「略 御前の簀子には、関白 (近衛基平) を始め 略 此の外上達部 略 みな直衣に色々の衣重ね給へり。
 時なりて舞人ども参る。
◆ 実冬の中将(滋野井実冬 ・閑院三条支流、後の五辻家)
 唐織物の桜の狩衣、紫の濃き薄きにて梅を織れり。赤地の錦の表着、紅の匂ひの三つ衣、同じ単、
 しじらの薄色の指貫、人よりは少しねびたるしも、あな清げと見えたり。
 ジャケット +梅柄      インナー + + +              ボトム
◆ 大炊御門中将冬輔
 といひしにや、装束さきのにかはらず、狩衣は唐織物なり。
◆ 花山院の中将家長右大将の御子、
 魚綾の山吹の狩衣、柳桜を縫物にしたり。紅の打衣をかかやくばかりだみ返して、萌黄の匂ひの三つ衣、
 紅の三重の単、浮線綾の紫の指貫に、桜を縫物にしたり。珍しくうつくしく見ゆ。
 ジャケット +刺繍      インナー + + +              ボトム +刺繍
◆ 花山院の少将忠季 (師継の御子なり)、
 桜の結び狩衣、白き糸にて水をひまなく結びたる上に、桜柳をそれも結びてつけたる、なまめかしく艶なり。赤地
 の錦の表着、金(かね)の紋を置く。紅の二つ衣、同じ単、紫の指貫、これも柳桜を縫物に色々の糸にてしたり。
 ジャケット +紐      インナー ++ +                 ボトム
◆ 中宮の権亮少将公重(実藤の大納言の子)、
 唐織物の桜萌黄の狩衣、紅の打衣、紫の匂ひの三つ衣、紅の単、指貫、例の紫に桜を白く縫ひたり。
 ジャケット +刺繍      インナー + + +              ボトム +白柄
◆ 堀川の少将基俊、
 唐織物、裏山吹、三重の狩衣、柳だすきを青く織れる中に、桜を色々に織れり。萌黄の打衣、桜をだみつけにし
 て、輪ちがへを細く金の紋(もん)にして、色々の玉をつく。匂ひつつじの三つ衣、紅の三重の単、これも箔散らす。
 ジャケット +襷柄 +桜柄  インナー +桜柄 + +玉柄 + + +     ボトム +金箔
◆ 二条中将経良(良教の大納言の御子なり)、
 これも唐織物の桜萌黄、紅の衣、同じ単なり。
 ジャケット           インナー + + +              ボトム
◆ 皇后宮権亮中将実守、
 これも同じの樺桜の三つ衣、紅梅の三重の単、
 ジャケット           インナー + + +              ボトム
◆ 右馬頭隆良(隆親の子にや)、
 緑苔の赤色の狩衣、玉のくくりを入れ、青き魚綾の表着、紅梅の三つ衣、同じ二重の単、薄色の指貫、
 ジャケット +刺繍?      インナー + + +              ボトム
◆ 少将実継、
 松重の狩衣、紅の打衣、紫の二つ衣、これも色々の縫物、置物など、いとこまかになまめかしくしなしたり。」
 ジャケット           インナー +刺繍 + + +刺繍 + +刺繍  ボトム

皆さん、凄まじい程のカラーリングとお思いになりませんか?これらに比して現代の若者は少し抑え気味かしらん。
全員狩衣の着用は、兼武官だからだそうです。平安の世の服制が綻び、この時代は、
文官(知的労働担当者)         束帯の縫腋の着用者 ⇒ 平服の直衣
武官(名ばかりの警察部門担当者)闕腋の袍の着用者   ⇒ 狩衣
の様に服種が変わりましたが、色 ・柄 ・刺繍などはとても豊富で華美になっていた感じ。

<レディースの十二単の変遷>

「十二単の資料」 のページで少し触れましたが、この鎌倉時代は明らかに 「五衣」 の枚数が5着以上に。

増鏡 第十、老の波の段
後嵯峨院の義母 (藤原貞子) の90歳のお祝いに集まったレディー達の衣装
ちょいとその前に、藤原貞子さんについて。
彼女は、なな何と御年107歳まで長寿を全うされたスーパお婆ちゃんなのです。金さん銀さんもビックリ。
1196年生まれで、お亡くなりになったのが1302年です。彼女の連れ合い (夫) は藤原 (西園寺) 実氏さん。
彼女らのお嬢さんのきっし?(大宮院) は後嵯峨天皇の奥様で、後の後深草天皇と亀山天皇のお母さん。
更に、貞子さんのお婆さんは、「平清盛」 さんのお嬢さん (建礼門院の妹) との事です。 と云う事は、
平清盛さんは 「壇ノ浦の戦い」 の敗戦はご存じなく
安徳天皇系は途絶えても後深草 ・亀山天皇で復活した事に。
本題に戻ります。ここのお話しは、1285年2月頃のイベントになります。

「前略
◆ 大女院 (藤原貞子)、白き綾の三御衣、
◆ 東二条院 (藤原公子 ・貞子さんの妹で後深草天皇の奥様)、
 唐織物の柳桜の八つ、紅梅のひねりあはせの御単、樺桜の御小袿奉れり。
◆ 姫宮 (公子さんと後深草天皇のお嬢さん)、
 紅の匂ひ、紅梅の御小袿、萌黄の御単、赤色の御唐衣、すずしの御袴奉れる、常よりも美しう見えさせ給ふ。」

貞子お婆ちゃんは別格として、袿 (インナー) と称する五衣 (いつつぎぬ) の着数が、
この時代では、東二条院さんは8枚、姫宮ちゃまは10枚お召しになっています。
やがて時が経て、伏見天皇(在位 1287-1298)の世では、この着数が12枚になりました。

増鏡 第十一、つげの小櫛の段に
「前略 宮は濃き紅梅の十二の御衣に、同じ色の御単、紅の打ちたる、萌黄の御上衣、葡萄染の御小袿、
 花山吹の御唐衣、唐の薄物の御裳、 略」  と有ります。
     伏見天皇の宮     淑景舎
     鎌倉時代の十二単     平安時代の十二単
左側が伏見天皇の宮様の十二単で鎌倉時代。
右側が定子妹の淑景舎の十二単で平安時代。
宮様の袿だけで12着には凄まじい物があります。
初々しくヤングでちゃきちゃきの宮様だからこの装いの重さに耐えられたと思いますか?
私どもは、一枚の袿の重さは平安の世に比して軽かったと考えています。
いかな強靱なスポーツウーマンであってもこれじゃ
「どっこいしょ」 になると思いますが・・・・・。
この段に依り、後の世において 「十二単」 と呼ばれる様になった所以かも知れません? 枕草子の衣装はこちら。

<京都小宇宙の経済的基盤>

鎌倉時代に入り、京都より見て東夷 (あずまえびす) が住むと云われていた 「東国」 の鎌倉政権に
政治 ・経済的基盤を奪取された京都政権は平安の世に比べ、経済的に困窮した状態に陥っていました。
しかし、処、京都及び京都周辺、又一部の神社仏閣には一定以上の影響力を保持していましたので
「高望み」 をしない限りは問題が有りませんでした。
とは云うものの経済的基盤の 「絶対量」 が減少した事は否むことはできず、
その為に上記のメンズの華やかさとレディースの豪華さは、
「晴れ」 と表現される 「お祭り」・「イベント」 日のみの衣装 ・服だったとの事です。
逆に考えると、お洒落する事が 「日常」 でなくなった事に依り、その様な現象が生じたのやも知れません。

<「褻 (日常・普段)」 は質素? 湯巻(ゆまき)>

湯巻 この鎌倉時代、レディースに 「湯巻」 と云う新アイテムが登場します。

お二人の女性ともに、腰 (ローウエスト気味) に巻いています。

順徳天皇のお書きになった 「禁秘抄」 (1219〜1222年) に依りますと、
「几禁中着 湯巻 上臈一人典侍一人也、是候 御湯殿 故也、
 近代上搨准 此役 多着不可為例也 」 と有ります。

上臈とは、上臈女房で宮中(政府)御用達高給取りキャリアウーマン。
御匣殿(みくしげどの)のヘッド (オートクチュール縫製担当係の1)
尚侍(ないしのかみ) (1政府キャリアウーマン)
典侍(ないしのすけ)(2政府キャリアウーマン) 等の方々。

御湯殿はバスルームですので、帝の入浴のお世話の際に「湯巻」の
出で立ち(格好)でお仕事。 云わば湯巻は 「お仕事ウェアー」。

そのお姿(格好)は、お湯で濡れるので「紅袴」を取り去りラップスカート状のものを着用した感じ。
これによりお湯でびしょ濡れになりません。
その湯巻ファッションが順徳天皇の時節には、リヴィングルームでも着用する様になったと云う内容です。

この現象は私どもを含め婦人服を扱う業界人に取りましては、「ファッション革命」 になります。
なぜかと云いますと、ボトム単品の変革。仰々しく暑苦しい?「紅袴」(超ワイドロングバギーパンツ)を脱ぎ去り、
ライトなストレートラップスカートにシルエット変更になったからです。
やがてこの湯巻単品の丈(この当時の着丈がくるぶしが隠れる位の丈)が時を経る従い丈が上へ上へと上昇し
室町時代末期の戦国の世ではミニストレートラップスカート(膝上丈)になりました。
今年の某局の 「巧妙が辻」 で山内一豊さんの最初の浮気相手役に設定されている
小りん役(長澤まさみ)さんのファッションです。 お時間があれば一度ご覧下さい。
その後、更にスカート丈が上昇し、超ミニになったかと思いきや、さにあらず、
エーイ、こんなもん、めんどくさいわってなもんで湯巻は脱ぎ去られてしまったのです。
でもご心配なくミニスカートの下?には何枚ものお着物をお召しになっていましたから。
これは単なるおふざけでは決して有りません?
このアイテム (単品) をなくす事により、今に繋がる 「着物ファッション」 が形作られたのです。
時を鎌倉時代に戻します。

「源平盛衰記」 (鎌倉時代後期から南北朝時代に成立?) の那須与一が扇を射る條に、
「弓手の方を見わたせば、主上を始め奉り、 中略 女房達の御船ども、その数こぎ比べ、
 屋形々々の前後には、御簾も几帷もさざめきて、袴 ・湯巻の座までも、楊梅桃李と飾たれたり。」

鎌倉後期のファッションを前提に源平合戦(平安後期)を描写していると考えられますので、
鎌倉時代中期より、
見習いキャリア達は既に 「袴」 を脱ぎ捨て 「湯巻姿」 で街を闊歩していた感じが伺われます。
TOPの経済基盤の揺らぎに従い、褻と云われた日常 ・普段に於いては、
庶民感覚 ・感性着?と云う 「普段着ファッション」 にスライドせざると得なかったのかも知れません。
でもさすがは、この時のヤングレディの皆さん、
バスルーム着を街着にしてしまうなんて、トレンディじゃーございませんか。
何時の世も、「革命は既成概念を刷り込みが終了してないヤング」 から。
今時のお若い方 (特に男性の皆様) もカジュアルウェアーぐらいご自分の着こなし感覚で・・・。
頑張って・・・・・・・。

☆ 絵の中のお二人の女性は、クチュラー(註文婦人服制作者)です。
   左の女性は反物を広げています。右の女性は針に糸を通す仕草をしています。
   現在のフランス ・イタリアのオートクチュールのお針子さん達もビックリ?

<鎌倉武士の服装は至って庶民感覚>

平治の乱の結果、
清和源氏軍団 (源頼政 ・源三位) を除く桓武平氏軍団が 「武力」 により政権を奪取した後の約25年間。
この間、桓武平氏軍団は、都会(京都)の光景(シーン)を背景として小洒落た 「服」 を着用するに至ります。
世の云う所の「平家にあらずんば、人にあらず。」で平清盛さんをヘッドにお洒落三昧の日々。
一時、都庁移転で福原に都を。
「頑張った人にはU・・A。」 で平清盛さんはこの世にいらっしゃる際は栄華を極められて当然です。
やがて、結果知ったる云い方ですが、「おごる平家、久しからずや」で
深ーく田舎に潜行していた清和源氏軍団が復活をする事に。
「いいくに(1192)作ろう鎌倉幕府」 で育てられた私どもは、教えられた事が次々覆され、
最近は1185年が鎌倉幕府のスタートになっている様で、面食らっちゃいます。
「源頼朝の似せ絵」 あの男らしくて・素敵で・凛々しい彼は頼朝さんじゃなかったんですって?
これにはちょいとショックでした。
「昨日(きのう)までの頼朝さん、今日からは違う人?」
昨日まで好きだったけど、今日から嫌いになられた彼と訳が違うのですから。
でも端(はな)から信じてしまった私どももいけません。
「少し位は勢い語られている物事を斜に見なさい。」 との教えも同時にお教え下さいましな。
ちっちゃな時から、同時刷り込みをしないと日本を背負って立つ子供達がいなくなってしまいませんか?
それは置いといて、関東 ・東北田舎育ちの武士軍団、京都政権下に組み込まれていないものですから、
当然無位無官、京都都会風ファッションには縁もゆかりも有りません。
風光明媚な純田舎の光景を背景としたとっても素朴で豪放磊落、勢い粗野なカントリーファッションの出で立ちです。
所謂、野良着デニムファッション感覚です。
いっとき、頼朝の息子さん(源頼家 ・源実朝)が京都風ファッションに傾きましたが、
頼朝の奥様である北条政子さんのお力を持ちまして、
片田舎(誤解しないで下さいね。この時代の京都政権を中心とした発想で見るとと云う事ですので)の
北条武士軍団 (遡れば桓武平氏軍団) が鎌倉政権を担う事になります。
更に1221年に京都政権と大げんかしてしまうものですから京都風ファッションを横目で見ながらの
素朴で豪放磊落ファッションを貫徹する事に。
それらを代表するアイテムが、彼らにとってはちょいとお洒落な 「渋色の狩衣」 であり、
庶民も着慣れていた「アースカラーの直垂 (ひたたれ)」 でした。
狩衣と直垂の絵は 「平安朝 衣装」 でご覧下さい。

ここでお詫び。鎌倉武士の服装についてだらだら記しましたが、文献資料を基としておりません。
原初の自然に近い空間で心おきなく過ごされ満喫された方々のどちら様かが文献を書き残して下さっている
と思うのですが、生憎、私どもは、持ち合わせておりません。
☆ このサイトをご覧下さっている皆様へのお願い。ご存じの方は、お教え下さいますと幸いです。 (戦闘服を除く)

<武家女性の服装>

「吾妻鏡」(鎌倉時代後期に成立?)
巻48正元二年(1260年)3月28日 和泉前司行方の持て参れる、御息所御服月充注文の條に
「正月分小袿、 略 御表着、 略 重御衣、 略 御単、紅袴」 又、6月分で
「御単重、生の小袖、白御袴」 等と有りますが、

こちらは京都からご出張されている鎌倉将軍 (後嵯峨天皇の息子さんの宗尊親王) の奥様用。
純武家女性となりません。北条得宗家はどの様で有ったのか不明です。
関根正直さんは京都風ファッションにおいても女性が 「袴」 を着用しなくなっているので
武家女性も同様 「袴」 を付けていず、
着物だけだったのではないかと記されていますが実際の所は分かりません。
どの様なスーパーワーキングファッションで有ったのかとても興味深いです。
新情報が得られ次第お知らせします。

<鎌倉時代のnew color(新色名)>

平安時代までに殆どの色が出現しましたが、鎌倉時代に始めて登場した 「新色名 ・新色」 があります。
その色はメンズの 「狩衣」 の色としてこの世にデビューしました。質実剛健な武士ファッションセンスの影響として。

☆ 海松 (みる) 色・・・・・・海の岩場の海藻の色。濃い萌黄色。 海松色  重色は「襲色目と重色目」 にあります。
☆ 青苔 (あおごけ) 色・・・この色名も暗い萌黄色で海松色のバリエーション。
☆ 褐 (かち) 色・・・・・・・・紺よりも濃い藍色。武士の間では「勝色」と云い、戦闘に勝つシャレ。 褐色
☆ 瑠璃 (るり) 色・・・・・・・縹色の薄い色。瑠璃色  「枕草子」 の夏虫色と同じ。
☆ 柿衣 (かきそ) 色・・・・・柿渋で染めた色。 柿衣色

海松色と瑠璃色は 「満佐須計装束抄」 に、褐色は 「梁塵秘抄」 に記されていますので、
平安後期には新色名として存在していたと思われますが、
鎌倉武士の気風を表現する 「渋め」 の大人? の色の感じとして愛用されたとの事。
渋めの色のみだと少し鎌倉武士の方々に失礼ですので、
探し出してみますと、、綺麗な柑子 (こうじ) 色 柑子色 が一色 「玉葉」 にありました。

*梁塵秘抄は、1177年鹿ヶ谷 (ししがたに) 事件 (平氏一門潰し作戦のバレバレ事件) の後、
  後白河法王が、平清盛に疎んじられ、1179年、院政を停止させられ、鳥羽院に幽閉された際、
  お時間に余裕ができ、法王が小さな時から好きだった「歌」 (今のポップソング風) を後の世に残す為
  書き残して下さった歌謡集との事。  残念ながら 「クラシック」 にはならなかった。

<女性史の流れでは鎌倉時代と室町時代は途切れていない。>

日本史の時代区分は、基本的に 「政府建物所在地」 で便宜的に区切られていますが、
人間模様の観点で考えると 「時間の流れ」 が途切れないとの同じく、殆ど途切れてはいません。
このページは武家政権の鎌倉時代と区分けしていますが、
私達、後の世の時代の人間は、勝手に解釈しているに過ぎません。
当にその時代、その時、その一瞬、に生活しておられた方々は、
それなりの 「楽しさ ・苦しさ?」 を味わい生きておられた筈です。
因みに 「台風のお陰で大助かり事件」 の後の鎌倉幕府、
皆さんご存じの通り北条武家軍団は内部抗争分裂状況に陥ります。
一方の京都公家政権も同じように内部抗争分裂状況に明け暮れていました。
そんなこんなで、その後に、鎌倉幕府体制においては、
御家人であった足利高氏 (尊氏) 室町幕府初代将軍 (在職 1338〜1358) (1305〜1358) 軍団が
武家のリーダーになる訳です。 1333年時点の鎌倉幕府の執権は北条守時 (1295〜1333) でした。
ここで人間模様の歴史が繋がっている事が確認できます。
足利高氏 (尊氏) の奥様は、北条守時の妹の登子さんです。
彼女 ・彼らの息子さんが足利義詮で室町幕府第二代将軍 (在職 1358〜1367) (1330〜1367) です。
故に、北条家或いは北条女性軍から見れば、
室町幕府は、鎌倉幕府の都を 「鎌倉」 から 「京都」 に遷都しただけになりませんでしょうか。
「お財布の紐」 はどちら様が握っておられたのでしょう?

<番外編 鎌倉時代初期、源通親の奮闘>

鎌倉時代を創った源頼朝の朝廷工作に対し、戦いを挑み勝利した、村上源氏の末裔 「源通親」 に関しましては、
「舞 絽 倶 日本文化と服 ・小物 」 で語っていますので、そちらをご覧下さい。

能円と範子とのお嬢さんが在子さん・・・・・・→  「藤原(高倉)範子と源通親 1」
源通親の一番目の奥様・・・・・・→  「藤原忠雅の娘と源通親」
源通親の二番目の奥様・・・・・・→  「平教盛の娘と源通親」
範子さんと源通親との出逢い・・・・・・→  「藤原(高倉)範子と源通親 2」
後白河法皇と丹後局に取り入る通親・・・・・・→  「丹後局と源通親」
山科言継に取って丹後局はご先祖様・・・・・・→  「高階栄子(丹後局)と山科言継」
九条兼実と源頼朝とタッグ・・・・・・→  「源頼朝の娘(大姫)と源通親」
九条兼実と源通親の明暗・・・・・・→  「幸運の女神は源通親に」
範子と兼子(卿局)は姉妹・・・・・・→  「藤原範子と兼子(卿局)」
藤原 (松殿) 基房のお嬢さん、藤原伊子・・・・・・→  「藤原伊子と源通親」
道元の父かお爺さんの源通親・・・・・・→  「道元と源通親」

  続きは、又、後日にいたします。 お楽しみに・・・。
 

平安朝 十二単等 絵 ZIPANGU  春夏秋冬の十二単の彩色画をご覧頂けます。
奈良朝 吉祥天女 絵 ZIPANGU  吉祥天女像に彩色し、蘇らせました絵をご覧頂けます。
舞絽倶 日本文化と服 ・小物 「舞倶」日本文化と服について語る ZIPANGU のブログです。

     


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