☆ 服制度の乱れ ・綻び
女性の十二単の乱れ ・アバンギャルド化は 「十二単 資料」 でお話ししました。
何時の世もfashionを引っ張るのは、この女性の 「自己顕示欲」 に依りますのでこれは当然です。
それでは、今の世も服に保守的な男性はどの様だったかと云いますと、 |
「今鏡」 白川わたりの段 (二条関白 藤原教通 公伝) (諄いかも知れませんが、道長さんの息子です。)
「いつの事に侍る事にか。大御遊びに、冬の装束に半臂 (ベスト風) を着給へりれるを、肩ぬがせ給ふ時、
宇治殿 (藤原頼通) より始めて、下襲のみ白く見えけるに、此の大臣ひとりは、半臂を着給へりければ、
御日記に侍るなるは、予独半臂の衣を着たり。衆人恥ぢたる色ありとぞ侍りける。」
生真面目な?藤原教通さんだけがベストを着用なさっていた感じで、回りの方々は、いたく頭を掻いたみたいです。 |
「今鏡」 はらばら御子の段
「皇子御元服の時めす袍の色、浅黄とあるは、青か黄か。おぼつかなくて、花園の大臣に尋ねつるに、覚えず。」 |
時のファッションリーダー?の源有仁さん (1103〜1147) は、つむじ (旋毛) を曲げられたみたいです。
源有仁さんは、1103年生まれですので、清少納言 ・紫式部おばさま方のご活躍から約100年後の方です。
後三条天皇がお爺さんで、院政を敷かれていた白河上皇の養子でしたが、崇徳天皇がお生まれになった為、
臣籍降下で源姓に。そんなお血筋ですのでスーパーエグゼ。尚かつ、
お遊びだけに現を抜かす様な事はせず、古来からの儀式作法 ・故実を大事になさりお纏めになったお方です。
「春 ・秋玉秘抄」 |
彼は 「強装束」 を作成した張本人扱いされていますが、
本質は、古より伝わる紳士礼服の服制の乱れに 「もの申された」 感じです。 |
関根正直さんに依りますと、
1 服飾の華麗な事。
2 冠の巾子烏帽子の頂が高い事。
3 指貫の中を踏んづけて穿く事。
以上3点は、藤原道長さんの世に既にデビュウしていたと述べられています。
確かに、束帯と表袴と直衣は直線の感じで、糊付け等の処理を施してある様に見えます。
それに比べ、指貫のボトムは曲線で所謂 「萎装束 (なえしょうぞく)」 の感じです。
それらの違いは、「平安朝 (平安時代) 衣装」 を確認下さい。
要は、だらけだした(カジュアルウェアー風)風潮にピシッと活を入れる為に、
折り目正しい所はより折り目正しく、糊付け分量を増やし、肩線などを強調させたのではないかと考えます。
そのファションが後の世の武家社会に取り入れられ、
威風堂々としている様に見える武士装束 (礼服) になったのではないかと考えています。
因みに、この時より一気に強装束一辺倒にはなっていません。
「玉葉(玉海)」 九条兼実(月輪摂政) 1168年正月16日条 「密々着打梨装束乗網代車参内。」
「次将装束抄」 藤原定家 五節寅日条 「同夜束帯打梨。卯日如昨日。」
上記の打梨は 「うちなし」 で、服 (布) を木槌で叩いて柔らかく仕上げる行為です。萎装束も健在していました。 |
「強装束」 を代表する絵は、京都の神護寺蔵 国宝 源頼朝像の似せ絵。最近の日本史では、足利直義とも。 |