続 戦国時代 空白の衣装時空 京都 フロント 摩訶不思議へ Maccafushigi

奈良朝の衣装 奈良 十二単資料 十二単 平安朝の衣装 平安 続 平安朝の衣装 続 平安 平安後期〜鎌倉時代の衣装 鎌倉 安土・桃山時代の衣装 安土 ・桃山 江戸時代女性の衣装 江戸 女性 続 江戸時代女性の衣装 続 江戸 女性 江戸時代男性の衣装 江戸 男性
平安時代のキャリアウーマン(女房) 平安キャリア 続 平安時代のキャリアウーマン(女房) 続 平安キャリア 襲色目と重色目 襲色目 続 襲色目と重色目 続 襲色目 補色と匂い(グラデーション) 補色と匂い 続 補色と匂い(グラデーション) 続 補色と匂い 服の文献資料 服の文献資料

   室町時代の衣装 室町時代の衣装 続 戦国時代 京都 戦国時代 京都

<戦国時代 京都の実質支配者は一体、誰。>

前ページの「戦国時代 空白の衣装時空 京都」 で1536年まで、どの様な感じだったのか記してみました。
皆さんお気づきのように、1527年3月、細川高国と足利義晴が京都から逃げ去った時点で、
京都、或いはもう少し面積を増やし、山城国の単独 (行政上) 支配者は不在になってしまったのです。
明らかな資料が存在しませんので、この時代を研究されている皆さんは、推定でしかお話しされません。
戦国時代の一級資料として、山科言継 (ときつぐ)(1507〜1579) の 「言継卿記」 が有ります、
1527年から彼の亡くなる晩年までの記述されていますが、
1 彼に関係する出来事、見聞きした事を書き留めたもの
2 各年度全て揃っていない
と云う事実ですので、京都・畿内をフラットに考察するのは無理からぬ事だと思いますが、
これ以前の歴史資料も大なり小なり同じ事が付きまとっている訳ですから先生方は何とか頑張って貰わないと・・・。

しかしながら、事、京都で変容しなかった事実があります。
それは、「帝」 の存在です。
その存在を侵す方は出現しなかったのです。
「帝の権威」 を特に、京都、畿内以外にお住まいのリーダー達 (戦国大名) は大いに利用されました。
私ども ZIPANGU はライトウイングではございません。極めて政治向きは疎いです。
只、帝が京都にいらした事実を述べたまでです。

もう一つ明らかな事が有ります。
「諍い」 が起こる第一原因、自己の既存 (?) の利得の消滅 ・相手は発生関係。
この問題で当事者同士争う事になりますが、
最終戦争 (殺戮のし合い) の前の段階で第3者は何とかむごたらしい結果にならない様に画策します。
ある土地の権利保有の諍い (境相論) の仲介 (仲人) に、あのお公家さんの山科言継がなっています。
但し、彼一人ではありません。公家では、烏丸光康、広橋国光、中御門宜忠らも参加してます。
ここでご注目下さい。山科言継の言継卿記に記されています。

「前略 少々具足着し了んぬ。同道の衆以上八十余人これあり。此方上京衆所々合力五百計りこれあり。 後略」

具足を着用ですので、山科言継が戦闘服を着ていた事になります。
更に公家集団 (公家家人などを含む) 80名ちょい、それに上京にお住まいの方々500名余りの集団、
全員で580名を越す武装軍団?。 (これは、1554年の出来事です。)
山科言継が鎧兜姿だったとは思いませんが、何らかの戦闘服をおめしになっていました。
公家さん達も時代背景が異なると「束帯 ・衣冠 ・直衣 ・狩衣」 を脱ぎ捨て 「アーミールック」です。
上京の町衆も参加してますので、彼らも何らかの戦闘服を着用していたと考えられます。
現代風に云えば、ドブネズミルックの公務員さんが迷彩服に着替え、
町の商工業者 (○○銀行、○猫ヤマトさんの経営者) に呼びかけ、従業員さん諸共喧嘩を止めに行った感じです。
公務員さんのドブネズミルックと書きましたが、決して 「ダサイ」 と申し上げている訳ではありません。
コレが彼らの常時 「戦闘服」 (お仕事着) なのです。お仕事場でアルマーニを着ようものなら、
上司からの最初は 「冷たい目」 の投げかけ。長く続けようものならサラリー減の覚悟。
オシャレをしない事がお仕事でその分彼らのお給料に
「お洒落させなくてご免なさい料金」 が含まれているのですから。 努々 (ゆめゆめ) オシャレ何て・・・。

話を戦国時代の京都に戻します。
トップリーダー不在の京の都。(帝の存在はここでは置いてきます。)
故に、誰にもでも 「top−leader」 になれる 「chance」 が有るのです。これが 「戦国時代」 の所以。
でも、この云い方に 「嘘、偽り」 が有りました。
「機会」 は物理的に有るのかも知れませんが、「誰しも」 なれないのです。
「機会」 が有った集団組織は、
プロ戦闘武士軍団、人の数だけは集められた宗教軍団、お金だけが有った町衆軍団、貧乏?公家集団。
上記の組織軍団には確かに 「chance」 が有ったのです。
結果的には、皆さんご存じの通り、プロ戦闘武士軍団同士の 「戦い」 により
信長⇒秀吉⇒家康と続き、決着が付きます。
徳川家康 (1542〜1616) が息子、秀忠 (1579〜1632) のお嬢さん、和子さんを 「帝」 のお后にで終わります。
徳川和子さんの詳しい事は 「東福門院 (徳川和子) と雁金屋」 でご覧下さい。
和子さんの入内は1620年ですので、ここでは未だ1536年ですので、後80年程を要した事にまります。
故に、1527年以降、日本の中心であった京の都を力強くリードした方はおらず、間接支配構造の時空間に。
それでは、1536年以降、織田信長が足利義昭を伴い入京する1568年までの約30年の状況を記してみます。

<後期戦国時代 京都 ・畿内間接支配者達>

1536年
7月 天文法華の乱に続き、一向一揆軍団も摂津国中島(大阪府淀川区)で大敗を食らう始末。これにより、
9月 細川晴元が芥川 (城) (大阪府高槻市)から京都の地を踏む事が可能になりました。

1539年 (1536年より3年後)
閏5月 三好長慶 (1522〜1564)⇔三好政長 (1508〜1549) 三好一族内の諍い。

11月1日この日に、「曇花院宮餝抄」(「曇花院殿装束抄」) 著者 曇花院殿 聖秀尼宮 が出来上がる。
この書物により、私ども ZIPANGU は 「襲色目」 の配色方法を学習する事ができました。
彼女の詳しい事は、「曇花院殿 聖秀尼宮」 をご覧下さい。

1541年 (1539年より2年後)
10月 山城国守護代、木沢長政 (1493〜1542) が幕府に叛旗。足利義晴は近江に逃走。

1542年
3月 三好長慶 ・遊佐長教(ゆさながのり)(1491〜1551) らが木沢長政を太平寺の戦いで破る。
ここで人間模様。遊佐長教と木沢長政は河内国守護畠山家の重臣。
彼らのヘッド (主君) は畠山稙長 (たねなが)(1504〜1545)。
畠山稙長は応仁 ・文明の乱の因を作った畠山政長 (1442〜1493) の孫。
彼は、遊佐長教と木沢長政との共謀によりヘッドの座を弟、畠山長経 (?〜1541)に奪われる(1534年)
更に4年後には畠山長経の座は弟の畠山政国 (1502〜?) へ。(1538年)  整理すると、
畠山長経のバックは遊佐長教で畠山政国のバックは木沢長政の感じで、畠山長経 ・政国は傀儡。
実質は遊佐長教と木沢長政の二人。やがて内部権力闘争で二人は争う事に。

1543年
細川氏綱 (細川高国の養子 実父は摂津分郡守護 細川尹賢) が細川晴元に叛旗、和泉国で挙兵。

1546年 (1543年より3年後)
足利義晴 ⇔ 細川晴元の状況に。足利義晴が後ろ盾を
細川晴元+四国軍団から細川氏綱+河内軍団(遊佐長教)+大和国軍団(筒井順昭)に乗り換える。

*筒井順昭 (1523〜1550) は筒井順慶 (1549〜1584) の父。「旧 (もと) の木阿弥 (もくあみ)」 の元祖。
 旧の木阿弥 (元の木阿弥) は広辞苑では、
 「(戦国時代、筒井順昭が病死したとき、嗣子順慶がまだ幼かったので、
  遺言により、声が順昭に似ていた南都の盲人木阿弥をほのぐらい寝所に置いて
  順昭が病気で寝ているようにみせかけ、順慶が長ずるに及んで初めて順昭の死を世間に知らせ、
  木阿弥はもとの市人となったという故事から)
  いったん良くなったものが、再びもとのつまらないさまにかえること。
  苦心や努力も水泡に帰して、もとの状態にもどってしまうこと。」 と記してあります。
木阿弥さんにしてみれば、影武者の時代も元の姿に戻った時も両方甘受できてラッキーだったやも?

11月 足利義晴は北白川 (京都市左京区) に築城。12月息子の足利義輝は将軍宣下を賜る。
足利義晴 ・義輝らの立て籠もる北白川城は細川晴元+四国軍団+六角定頼軍団に包囲される。

1547年
7月 足利義晴 ・義輝らは北白川城に火をかけ近江国坂本へ脱出。細川晴元軍団はこれを見て、
河内軍団をめがけ一路摂津国天王寺へ。そこの舎利寺 (大阪市生野区) の戦いに勝利。
三好長慶はこの時は、遊佐長教と復帰した畠山政国軍と闘う羽目に陥いる。
遊佐長教はお嬢さんを三好長慶に嫁がせる事により、岳父 (義理の父) になる。
やむなく、足利義晴 ・義輝ら細川晴元と嫌々ながらも和睦し京に帰る。

1548年
8月 三好長慶 ⇔ 細川晴元+三好政長 不和が生じ、長慶は晴元に叛旗を翻す。
三好長慶は摂津国西半国守護代、越水城主 (西宮市)。

1549年
6月 摂津国江口 (大阪市東淀川区) で三好長慶が三好政長を破る。(江口の戦い) 政長は敗死。
これにて細川晴元政権が瓦解。細川晴元は和睦して京に在住していた足利義晴 ・義輝らと近江国に逃亡。
7月 三好長慶は細川氏綱を擁して京都に入る。
7月 フランシスコ ・ザビエルが薩摩に入国する。

1550年
5月 足利義晴が近江国穴太(あのう)(大津市)で他界。6月 足利義輝 ・細川晴元らは築城した中尾城に入る。
中尾城は近江国に近い、現在の京都市左京区浄土寺大山町。
9月 フランシスコ ・ザビエルが京都に来る。
11月 三好長慶軍が中尾城を攻め、足利義輝 ・細川晴元は近江国に逃げる。

1551年
3月 三好長慶は京都洛中に地子 (じし=年貢=税金) を課す。
3月 近江国朽木 (滋賀県高島郡朽木村) にいた足利義輝は三好長慶と遊佐長教に刺客を送ります。
足利義輝の奉公衆部隊は京のとある美味い所で宴会中の三好長慶を斬りつけ負傷させ、
遊佐長教を居城の高屋城 (大阪府羽曳野市) で刺殺。
遊佐長教が城内で命を落としたと云う事は、城に手配した 「裏切り者」 が存在した事に。
三好長慶は運良く命拾い、誰か素敵なお姉さんがお知らせ下さったのかしらん?
怒り心頭な三好長慶は足利義輝・細川晴元軍団を京で攻撃、粉砕、足利義輝は堪らず和睦交渉へ。
三好長慶太っ腹なのか?細川氏綱が家督継承をする条件付きで足利義輝と和睦。

1552年
1月 六角定頼が死去。細川氏綱が家督を継承。足利義輝は京都に帰れる事に。
3月 この状況に失意の細川晴元は髪を下ろし (坊さんになる) 近江国から若狭国に逃亡。
10月 足利義輝は霊山城 (京都府上京区) を造りそちらへ移動。

1553年
2月 細川晴元シンパシー残党軍と三好長慶とのコンバット。
7月 足利義輝は翻意し細川晴元軍と組み三好長慶軍団と洛中で睨み合い。
8月 三好長慶軍団は霊山城を落とす。これにて、足利義輝幕府崩壊。義輝は再度、近江国朽木に。
三好長慶政権の確立。1558年11月までの約5年間、京都のリーダーに。

1554年
5月 三好長慶は後奈良天皇の命により(朝廷の指示)禁裏東南に防護用の堀を築く。

1555年
1月 三好長慶は播磨国東部を手中に。
4月 織田信長 (1534〜1582)、清洲城にて織田広信を滅ぼす。ここからは 「信長の野望」 かしらん?
7月 上杉景虎(謙信)(1530〜1578) と武田晴信(信玄)(1521〜1573) との 「川中島の戦い」。
10月 毛利元就 (もとなり)(1497〜1571) と陶晴賢 (すえはるかた) (1521〜1555) との 「厳島の戦い」。

1556年
10月 後奈良天皇の命により禁苑の修繕費を賄う為、洛中に賦課して徴収し、朝廷に献上する。

1557年
9月 後奈良天皇崩御。 正親町天皇 践祚 (在位 1557〜1586) (1517〜1593)。
即位式は1560年に、費用は毛利元就が献上する。

― 三好長慶の覇権模様 ―  1552・1553年〜1560年

山城国→細川氏綱摂津国→三好長慶丹波国→松永長頼西摂津 ・東播磨国  →松永久秀
和泉国→  ?淡路国→安宅冬康讃岐国→十河一存阿波国 ・伊予東二郡→三好義賢

*松永久秀 (1510〜1577) 三好長慶の家臣  滝山城 (兵庫県神戸市) 彼はこの中で、一番の長生き。
*細川氏綱 (1514〜1563) 淀城 (京都市伏見区)
*松永長頼 (1516〜1565) 松永久秀の弟   八木城 (兵庫県篠山市) 丹波守護代、内藤国貞の娘をを娶る。
*三好長慶 (1522〜1564) 芥川城 (大阪府高槻市)
*三好義賢 (1527〜1562) 三好長慶の弟   勝瑞城 (徳島件板野郡藍住町)
*安宅冬康 (1528〜1564) 三好長慶の弟   炬口城 (兵庫県洲本市) 阿波水軍安宅氏の養子に。安宅船。
*十河一存 (1532〜1561) 三好長慶の弟   十川城 (香川県高松市) 讃岐の土豪、十河景滋の養子に。
 (そごうかずまさ)

1558年
5月 足利義輝が六角義賢の援助の下、朽木から坂本 (滋賀県大津市) へ移動し、京を伺う。
三好・松永軍団は入京し、足利義輝将軍軍団と戦闘。 6月北白川、如意岳 (京都府左京区鹿ケ谷) での戦い。
9月 六角義賢は軍事力では京都奪回は無理と判断、和議の道を選択。三好長慶は応じる。
11月 足利義輝も三好長慶と和睦。5年ぶりに足利義輝幕府の再興。

1559年
2月 織田信長、上洛。4月 上杉輝虎 (景虎) も京都に。足利義輝将軍の手配。
8月 三好長慶は河内国高屋城 (大阪府羽曳野市)・飯盛城 (大阪府四条畷市) を陥落する。
畠山政国の息子、畠山高政 (1527〜1576) を河内国守護を復帰させ、(畠山政国は1542年に有ります。)
畠山高政アンチの河内国守護代、安見直政 (?〜1572) を大和国に追い払う。
更に安見直政を追いつめる為、三好長慶は松永久秀を大和国、信貴山城(しぎさん)(奈良県生駒郡平群町) に。
畠山高政は1550年に父、畠山政国の他界後、家督を継ぎ、六角定頼 ・義賢父子と手を結びアンチ三好長慶。
1558年11月に守護代、安見直政らが彼を排除、畠山高政は和泉国堺に逃避し、三好長慶と和睦、でこの年に。

1560年
5月 織田信長と今川義元 (1519〜1560) 桶狭間の戦い。(愛知県豊明市)
7月 この年の始めに畠山高政は三好長慶の了解を得ず、安見直政を守護代に復帰させる。なぜか?
三好長慶軍団は、再度、河内国高屋城 ・飯盛城を始め各城を10月までに落とし、河内国を手中に。
一方、畠山高政に与力した大和の国衆の諸城も松永久秀軍団が攻め落とし、大和国も手中に。
これにより、三好長慶政権は京都、山城国を除く畿内を制圧した事に。
三好長慶は摂津国芥川城より河内国飯盛城に引っ越しをする。畠山高政は紀伊国へ。

   ― 三好長慶の畿内覇権模様の変容 ―  1560年〜

山城国(細川氏綱)淀城
大和国松永久秀信貴山城 ・多聞山城 (奈良県奈良市)(1562年)
丹波国松永長頼八木城
河内国三好長慶飯盛城
河内国三好義賢高屋城
摂津国三好義興芥川城 *三好義興 (1542〜1563) 三好長慶の息子。
和泉国十河一存岸和田城 (大阪府岸和田市)

1561年
3月 三好長慶は足利義輝将軍を自邸に招き、饗応する。
4月 十河一存が死去。この期に畠山高政が根来鉄砲軍団を味方に付け岸和田城を目指し着陣。
*根来鉄砲軍団は根来寺 (和歌山県岩出市 真言宗) の僧兵鉄砲隊。鉄砲は種子島⇒薩摩⇒堺⇒根来へ
7月 その動きに呼応して、六角義賢軍団が勝軍山城 (京都市左京区) へ移動。
岸和田城と京都市街で両軍の8ヶ月に及ぶ睨み合い。

1562年
3月 和泉国久米田 (大阪府岸和田市) の戦いで三好義賢が敗死。足利義輝は男山 (京都府八幡市) に避難。
5月 三好長慶は飯盛城より駆けつけ、教興寺 (大阪府八尾市)・葉引野 (大阪府羽曳野市) の戦いで勝利。
畠山高政 ・六角義賢軍団は、やむなく撤退の道へ。 6月 足利義輝は帰京。

1563年
8月 三好長慶の嫡男、三好義興が死亡。長慶はかなり落胆。
十河一存の息子、三好義継 (1551〜1573) を後嗣に。

1564年
3月 足利義輝は越相の和を企図。 *越相の和は越後国の上杉氏と相模国の北条氏との同盟(アライアンス)。
5月 三好長慶がなぜか安宅冬康を殺害。(松永久秀の讒言とか?)
7月 なぜか三好長慶が43歳 (数え) で死去。
勇猛果敢を誇った三好軍団は、
1561〜1564年の間で十河一存 ・三好義賢 ・三好義興 ・安宅冬康 ・三好長慶を失う事に。
トップリーダーを欠いた組織、残った面々は三好家の継嗣、14歳の三好義継をサポートする、
大和国を制する松永久秀軍と通称、三好三人衆。
三好三人衆は、三好長逸 (ながゆき) (1515〜1573) 三好政康 (1528〜1615) 岩城友通 (?〜?)

1565年
5月05日 足利義輝に左京大夫にして貰った三好義継は松永久通 (1543〜1577) (久秀の嫡男)を伴い、京都に。
三好義継に官位授与を取り計った、武家伝奉、勧修寺晴右 (誠仁(さねひと)親王 の奥様、晴子さんの父)や
この時点で正二位 ・太宰権師 ・権中納言、山科言継らにもお礼をする。
5月18日 勧修寺晴右、山科言継は、京に滞在中の三好義継 ・三好三人衆 ・松永久通の宿に返礼に出かける。
5月19日 三好義継 ・三好三人衆 ・松永久通軍団は足利義輝将軍を攻撃し将軍を自害させる。(永禄の変)
11月15日 三好三人衆と松永久秀とに内部分裂。以後、畿内戦闘状態に陥る。

1566年
8月 足利義栄は阿波国より摂津国冨田(とんだ)(大阪府高槻市)、普門寺経由、越水城(兵庫県西宮市)に入城。

1567年
10月 松永久秀と三好三人衆との戦闘で、東大寺大仏殿が炎上する。

1568年
2月 足利義栄は征夷大将軍を朝廷より賜る。イベンターヘッド (将軍宣下上卿) は山科言継 於 ・摂津国冨田。
4月 足利義昭は越前国一乗谷にて32歳(数え)で加冠 ・元服。
9月07日 織田信長軍団は美濃国岐阜城を出て京を目指す。嘶く敵軍団を殲滅。
9月13日 近江国観音寺城を落とす、六角承禎(義賢)・義治 (1545〜1612) の父子は伊賀国へ逃亡。
9月26日 織田信長は足利義昭を擁して、京都に入る。 将軍、足利義栄は阿波へ逃亡し、死去?
9月28日 大和国多聞山城の松永久秀は信長に人質を差し出し降伏。
9月29日 織田信長と足利義昭は摂津国芥川城に入る。
10月4日 この日までに、摂津 ・河内 ・和泉の諸城は悉く信長の手中に治め、畿内を制圧した事に。
三好義継はなぜか三好三人衆と不和が生じていて、信長の上洛に際して降伏する有様。
一方、公家の方々の中で、足利義栄の将軍宣下に汗を流した、
関白、近衛前久 (1536〜1612) 参議、高倉永相 (ながすけ)(1530〜1585) らは京都から逃げ、
中納言、勧修寺晴右は籠居状態、権中納言、山科言継も同じ状況になる所を危うく回避、この件は後程。
畿内平定の織田信長は早速、武将を各地に配する事に。

   ― 織田信長の畿内武将配置 ―  1568年

山城国 (京都桂川以西)細川藤孝 (1534〜1610) 勝竜寺城 (京都府長岡京市)
大和国松永久秀 (1510〜1577) 信貴山城
摂津国 (東半国)和田惟政 (1532〜1571) 芥川城
摂津国 (西半国)池田勝政 (?〜?) 池田城 (大阪府池田市)
摂津国 (西半国)伊丹親興 (?〜1574?) 伊丹城 (兵庫県伊丹市)
河内国 (北半国)三好義継 (1551〜1573) 若江城 (大阪府東大阪市)
河内国 (南半国)畠山高政 (1527〜1576) 高屋城
和泉国  ?堺  織田信長の直轄領

戦国時代に一応終止符が打たれたこれ以後の経過は、皆さんよくご存じと思いますのでこれで終わりにします。
織田信長は、1573年7月に足利義昭を京都より追放し、京都の実質支配者 (トップリーダー) になります。

信長から畿内に 「土地=城」 を頂いたサブリーダー達の中の現代まで繋いだお方が存在します。
そのお方は、細川藤孝、通称、細川幽斎。細川ガラシャの義理の父親です。

<細川藤孝=細川幽斎 ⇒ 細川忠興と細川ガラシャ → 細川護熙>

細川藤孝=細川幽斎は、1993年に総理大臣になられた細川護熙のご先祖さんです。
序でに、肥後国熊本藩主の末裔細川護熙 (もりひろ) 氏は残念ながら?
明智光秀のお嬢さんである玉(子)、細川ガラシャ (1563〜1600) の血は流れていません。
細川忠興 (1563〜1645) と別の奥様の息子、細川立孝 (1615〜1645) 肥後国宇土藩主の血脈です。
更に、細川護熙氏の弟は何と、藤原道長の子孫、近衛家の養子になっておられます。(近衛忠W氏)
話を細川藤孝=細川幽斎に戻します。
細川家保守本流である管領家 (京兆家) は基本的には、細川高国で終了。
一応、名ばかりの管領職の細川氏綱が存在しますが実質が伴っていません。
細川氏綱のNEXTの方々は不明です。
一方、細川高国に敵対した細川晴元。彼と六角定頼のお嬢さんとの息子、細川信良 (昭元)(1548〜1592) は
織田信長の妹、お犬の方 (?〜1582) と結婚し、息子の細川元勝らを設けますがその後は?。
細川氏綱 ・元勝らの末裔はどの様に過ごされたかは 「なぜか歴史上に登場しません。」
彼ら ・彼女らにも、当然歴史が存在する筈ですが、ここの所はいかんともしがたく歯がゆい部分です。
当世流行りの 「勝ち組 ・負け組」 と云う、負け組の皆さんには、この世からご退場との事かしらん。
「退場」 される方がおられれば、必ず 「登場」 される方がおられます。
そんな 「ラッキー」 なお方が、細川藤孝=細川幽斎になります。
彼は、和泉半国守護 細川元常 (1482〜1554) の養子です。実の父は三淵晴員。
細川元常は細川家においては庶流中の庶流でした。
三淵晴員 (1500〜1570) は細川元常の弟。細川元常は細川晴元のシンパシー。
細川元常は、三好長慶らにより和泉国を奪取され、12代将軍 ・足利義晴に従い近江に逃亡していたのです。
元常にはお子さんがおらず、弟の息子を継嗣 (1540年) としました。
細川藤孝=細川幽斎は13代将軍、足利義輝をサポートする幕臣。
1565年5月、足利義輝が自刃するや、捕らわれの身の義輝の弟で、
お坊さん (一乗院覚慶) になっていた後の15代将軍、足利義昭 (1537〜1597) を奪還し
越前国守護の朝倉義景 (1533〜1573) に庇護を依頼。   その後は、皆さんよくご存じなのでこれ迄に。

<山科言継 ・「言継卿記」 のお陰>

戦国時代の京都 ・畿内の状況を記しましたが、1527年以後の出来事の大半は
山科言継が書き残して下さった 「言継卿記」 と云う日記 ・日誌に頼る事が大です。
山科言継の家系は 「高階栄子(丹後局)と山科言継」 でご覧下さい。
言継卿記に依りますと、
言継は天下統一以前の尾張国の覇者、織田信長に会っています。(信長の、の織田信秀にも)
単に 「顔」 を知っていると云う程度ではなく、互いに利得計算をし、利用し合った 「仲間」 です。
言継は朝廷の官僚として、尾張 ・三河 ・駿河に旅しています。又、信長の上洛の際も一緒に食事をしています。
徳川家康には直接会っていませんが、家康の家臣、松平親乗 (大給松平) は旅先で彼に会いに来ています。
1566年12月家康が清和源氏の末裔である事を確定させる為、
「徳川」 姓に改める件に言継は汗をかいた感じですし、
更に、1569年 朝廷イベント、後奈良天皇十三回忌法要の費用に窮した際、
正親町天皇より山科言継が相談を受け、対策として、徳川家康に負担してもらう案を奏上し、
自らが三河に赴き (この時、言継63歳) 法要費用を調達しています。(途中美濃国岐阜で信長に会っています。)
言継の死後、1585年6月 息子の山科言経(ときつね) (1543〜1611) は正親町天皇からお叱りを受け(勅勘)
家族全員で京から大阪 (堺) へ移動し、9月に摂津中島で暮らす事になります。
勅勘ですので、山科家の経済的基盤である「家領」を全て失う事に。
故に、大阪での暮らし向きはそれ以前と比べとても困窮してしまいます。
生計は、父 ・言継がアルバイトでやっていた町医者家業で立てます。(幼い頃、父の背中を見ていてラッキー。)
更なるラッキーはこの間、大坂天満宮の大村由己(ゆうこ)(梅庵)(?〜1596)との出逢いでした。
大村由己は豊臣秀吉のお話し相手 (御伽衆) で天神様の禰宜 (ねぎ) をしていて文化人でした。
田舎摂津での洗練された文化人?同士の意気投合ってな所かも知れません。
とは云うものの、言経の京都帰郷は心から離れませんでした。「そうだ ・京都 ・行こう。」
たまたま、1591年豊臣秀吉政権下、秀吉の命で 「本願寺京都移転」 が決まり、
顕如(光佐) (1543〜1592) の懇意により、この年2月に山科言経らは京に帰れる事になったのです。
京に帰った直後 に早速、既に京住まいだった 「お友達」 の大村由己が訪れてくれます。
そして驚く事に、領地250万石となったいた「徳川」 家康に一緒に会いに行ってくれるとの素敵なお話しを頂く事に。
翌々日に、二人は京の徳川邸に伺いますが家康は不在。翌日もお会いできず。
雪吹雪く三日目にやっと二人は 「徳川」 家康に会う事ができたのです。(何か三顧の礼の雰囲気?)
家康は快く迎えてくれ、何と饗応までも。その後、家康は言経に経済的援助を施してくれたのです。
京都で暮らせるようになった言経ですが、未だ勅勘はとけません。正親町天皇は1593年に逝去され、
帝は後陽成天皇 (在位 1586〜1611) (1571〜1617) の時代に変わっていました。
一方、1598年8月に豊臣秀吉が亡くなり、「徳川」 家康が実験を握る事に。そしてこの年の11月、
この 「勅勘」 を反故にしてくれたのが、「徳川」 家康でした。
苦節14年、耐えに耐え抜いた山科言経らは家領を安堵され、朝廷に復帰できる事になったのです。
山科言継のお話しはどうなっているのかと心配される皆様、「心配ご無用」。
息子さんの目出度い出来事は、元はと云えば、お父さんの言継のお力。
家康に取って、「徳川」 姓は掛け替えのない物だったに違いありません。
それでは、いよいよ本題に。

<山科言継 ・「言継卿記」 戦国時代の衣装>

室町時代に記された、有職 ・故実は何と云っても
一条兼良と三条西実隆が残して下さった文献が貴重な資料となっています。それらは 「室町時代の衣装」 で。
それ迄、故実については代々、徳大寺家と大炊御門 (おおいみかど) 家が受け継いでいました。
それが色んな事情で、その家職は
   徳大寺家====⇒山科家*徳大寺家は藤原実能 (1096〜1157) が始祖
   大炊御門家===⇒高倉家  に移動。    *大炊御門家は藤原経実 (1068〜1131) が始祖

1529年の時点で、有職故実家として山科言継と高倉永家 (1496〜1578) とが衣装担当官僚として、
衣紋 (えもん)・装束 (しょうぞく) の作法などを教授する役を担っていました。

 *高倉家は藤原永季 (ながすえ) (1338〜1392) が祖。 又、藤原永康 (?〜1302) が祖とも。
   高倉永季の代に衣装関係の仕事で帝に仕え、脚光を浴び以後担当する事に。
   彼の息子、高倉永行 (?〜1416) の代には将軍家の衣装も担当したとの事。
   高倉永家の息子、高倉永相 (ながすけ) (1530〜1585)は15代将軍、足利義昭の下にいて信長とは敵対。
   後の子孫が徳川将軍家の衣装を担当し、衣紋道の高倉流に。

山科言継 ・「言継卿記」 に記述されている衣装関係は

1568年2月8日と12日条
越前国一乗谷、朝倉義景の庇護を受けていた15代将軍、足利義昭からの書状。
そのお手紙の内容は、義昭本人の加冠 ・元服儀式の件に纏わる問い合わせが有った由。
要は、成人式の衣装等について、山科言継に指南 (アドバイス) を要請した感じ。

1571年7月25日条
「各々結構、金銀 ・金襴 ・段子(緞子)・唐織 ・織物 ・紅梅 ・綺麗を尽くす。先代未聞なり。」
この状況は、京都、上京の町衆が室町幕府将軍、足利義昭に 「風流踊り」 を披露する際の出で立ち。
京都では、夏の風物詩、お盆のイベントとして禁裏で 「灯炉供養」 (灯籠流し) が行われていたとの事。
戦国時代以前には公家衆のみの参加行事だったらしいのですが、
この戦国時代になり公家衆達の窮乏化だけの理由では無いと考えますが、
禁裏周辺に住んでいた方々 (町衆) が禁裏で 「風流踊り」 と云うダンスをする様になっていたみたいです。
1532年8月20日条
「夜八ツ時分まで以ての外風流、各くるい候い了んぬ。一興々々。」
夜中の午前2時頃まで各々の町で go-go-party って感じだった様子です。
ダンスと来れば 「バックソング」 なぜか山科言継はとても多才で (止むに止まれむ事情?)
楽所別当 ・楽奉行 (宮中交響楽団担当官僚) までも勤めていました。
気さくであったと思われる言継は町衆にバックソングを依頼され気持ち良く歌を提供し、レッスンまでも。
言継自身もかなり 「お好き」 であった様な感じもしないでもないです。
1553年7月20日条
京都室町地区の町衆に禁裏で 「風流踊り」 を供する様指示しています。
そんなこんなで、前出の衣装は 「ダンスウェアー」 だった事になります。
年に一度のお祭りとは云え、金銀 ・金襴 ・段子(緞子)・唐織 素材のお着物ですからスゴイです。
この戦国時代でも (こそ)、京都市民の中で、超お金持ちになられた方々がたくさん居られた事実は否めません。
とは云え、オシャレがし難い世の中であった事も事実です。
オシャレをしたい欲求は、ご自分以外の方々の存在が有って代物。
アウター衣装での存在訴求はドンパチが続く世界では成り立ち難い物です。
やはり平和ぼけ過ぎる世の中ならではのものではないでしょうか???
この室町 ・戦国時代に自己存在証明を 「別のもの」 で成し遂げた方が居られました。

<蘭奢待(らんじゃたい)を聞いた武将達>

東大寺、正倉院の宝物の一つ、蘭奢待。
とっても 「良き香り」 がする 「香木」 と云う噂です。
噂と云うのは、この香りを聞いた方がごく僅かな方々のみで、更にどの様な香りがするのか不明だからです。
元来、香りは感性に関わるものですから 「詞」 で表現する事が困難な部分が有るとは思いますが・・・。
稀少物であるが故の高価格。これも大きな経済原則の一つです。
「凄く良いもの」 だと云われ、わざと 「目に触れない」 状態にされると
誰しも見たい衝動に駆られるのは人間のなせる業 (わざ)。
そんなアイテムの一つに、蘭奢待が有りました。
「かたち」 だけでしたら、往々にして「なぁーんだ。」と云うことがよくありますが、
この蘭奢待は始末が悪く、何と 「香り付き」 と云う代物です。
視覚のみでなく、嗅覚のお出ましの方がより先行します。
その様な得体も知れない素敵な香りをお聞きになった武将がいらっしゃいます。

3代将軍 足利義満   6代将軍 足利義教   8代将軍 足利義政
1535年 土岐頼芸 (1502〜1582) (美濃国守護)     1574年 織田信長

以上の方々が、この時代にご自分の 「鼻」 で感じた方です。
勿論、香りですから、香木をたいている空間にいらした方は味わっている筈です。
又、土岐頼芸のケースは、足利義政の所望した際の残片が朝廷に保管されていた小分けですので、
禁裏で蘭奢待パーティが催された時に、内緒で参加された武将がいらしたかも知れません?
織田信長のケースは、当に 「征夷大将軍」 と云うステイタス狙いで、恫喝がらみ半強制ゲットです。


(参考文献 「日本史辞典」 角川書店 「戦国時代の貴族」「戦国大名と天皇」 今谷明 )

  続きは、又、後日にいたします。 お楽しみに・・・。
 

★   リ ン ク 先   ★
平安朝 十二単等 絵 ZIPANGU  春夏秋冬の十二単の彩色画をご覧頂けます。
奈良朝 吉祥天女 絵 ZIPANGU  吉祥天女像に彩色し、蘇らせました絵をご覧頂けます。
舞絽倶 日本文化と服 ・小物 「舞倶」日本文化と服について語る ZIPANGU のブログです。

     


Maccafushigi

Copyright © 2006〜 ZIPANGU Co.,Ltd. All rights reserved.