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  江戸時代の女性衣装 江戸 ・女性 続々 江戸時代女性の衣装 続々 江戸 ・女性 日本の服の歴史 「日本の服の歴史」 目次

<光琳模様雛形から小袖製品へ>

光琳雛形

左図 光琳雛形わかみどり 夜藤
              1727年刊

右図 納戸縮緬地藤障子模様
    友禅染小袖
    (国立歴史民族博物館蔵)

ひいなかた (サンプル画) の見本
通りに小袖が製品化されています。

障子模様のデザイン画と製品柄
かなり見本の線 (角度) に忠実。

光琳模様と書いて有りますが、
尾形光琳のデッサン画ではなく、
光琳の構図を模したサンプル帳。

光琳模様とは、
梅、藤、菊、千鳥、波、松などの
古来より伝わる柄をダイナミック
に小袖の全身頃に描いた文様柄。

小袖雛形(ひいなかた)本=ファッションモード誌は、「雁金屋」 (京都 高級呉服商)の見本帳として使用して
いた柄サンプルブックが、とても好評を博し、印刷技術 と 寛文小袖 の流行とあいまい、1666年頃に初めて
巷にファッションモード誌としてデビューしました。尾形光琳は雁金屋の息子さんです。
雁金屋の詳しい事は 「東福門院 (徳川和子) と雁金屋」 でご覧下さい。
小袖雛形本のお江戸版の普及に貢献した方が、浮世絵の創始者と云われている 「菱川師宣」 になります。

<お着物の帯は 前結び ・横結び から 後ろ結びへ>

子供振り袖中振袖振り袖小袖
お嬢ちゃんが振袖中振袖右のお二人が振袖小 袖


着物の帯が脚光を浴びたのは、小袖がアウターになってからでした。見える分量が圧倒的に増したからです。
故に、小袖がアウターとして定着した、室町後期から安土 ・桃山時代になります。
初期の頃は、帯の結ぶ目が、前、横、後ろと何処で結んでも良く、これと云った決まりは有りませんでした。
それが、やがて、お嬢さん (娘さん) は後ろ結びで、既婚者は横ないしは前結びになった感じです。

更に、安土 ・桃山時代になり、やや世の中が安定し始めると、ファッションです。
帯幅を広くして、差異表示の手段に。
帯幅が広くなりますと、自動的に結び目がデザイン性を持つ様になり、その分量は自ずと大きくなります。
従いまして、前、横にお団子みたいな? 結び目がありますと動きに不都合です。下記に理由により、

 1 うたた寝 ・お昼寝 (伏せ寝状態) が不可能。
 2 やはり、ヤング (お嬢さんファッション) に見せたい (魅せたい)。?
 3 フロントには自信があり、それならバックも しゃんで。

は当たっているか否かは分かりませんが、後ろ結びが主流になりました。
抵抗を試みたのは、より男性達を楽しませて下さる、その筋のお姉様(花魁 ・傾城)。 アンチ 「地女」軍団。
彼女らは、江戸時代きっての教養伴うファッションリーダー達。
お江戸文化大好きな、田中優子さんは彼女ら花魁 ・傾城さんのスタンスを次の様に記しています。

1 相手の気持ちに敏感。
 2 簡潔表現で必要不可欠のみの物言い。
 3 お金、食事、自分の利益に欲がない。
 4 お手紙の文字及び文章が美しい。
 5 回りの雰囲気を壊さず、楽しく・ハイにお酒を嗜む。
 6 歌の一つも所望されれば、しっとりを気持ちが入った歌を奏でる。
 7 お召し物のファッションセンスは抜群。
 9 姿勢が良く、 中略 。
10 必要であれば、決してケチらない。
11 伽羅 (きゃら) の香りがほのかに漂っている。
12 教養 ・芸は、和歌 琴 笙 三味線 唄 生け花 茶の湯 髪結い 碁 時計調整などなど。」 (「江戸の恋」から)

スーパーレディーの花魁 ・傾城さん達の 「心音 (根)」 は量り知り得ませんが、
お習い事の数々を修得されたご努力には敬意を表します。
今時のお嬢ちゃん ・僕ちゃん達も塾通いでお勉強の日々。 しかし、科目がアーティスティックで無い事は・・・。

☆ 左図の禿 (かむろ・幼いお嬢ちゃん) と右図のお目覚め朝のお姉さんは帯を後ろで結んでいます。
☆ 帯の結び方もファッションですので時空間、年齢等により差異表示のツールになっていました。

<着物のお袖(袂)の長さ 小袖 ・振袖 ・留袖 帯幅の推移>

小袖は、十二単 ・袍等の大袖に対する詞で、小袖がアウター (表着) に成る以前は、肌着のデザインでした。
光琳模様の着物を 「小袖の着物」 = 「小袖」 と表現していました。 袂に空き (脇スリット) 無し。

振袖は、長い袖がついている着物で、袂に脇スリット(八つ口)があるのが特徴です。
動いた際や風が吹いた時に、そのお袖が 「振れる」 ので振り袖と。初期は元服前(15歳まで)の男女の着物。

留袖は、元服に際し、振袖の丈を切り詰めてお袖を 「留め付け」 た事から留め袖と。
視点を変えますと、お子さん達の着物のお袖は脇スリット無しで、お袖を身頃に接いでいました。
江戸時代の中期頃、留袖の丈が長くなり、又、帯幅が広くなった為、運動量として脇スリットが必要になり、
脇スリット(八つ口)を開ける事により留袖と云う本来の云い方が不必要になりました。
現在の留袖は 「江戸褄模様」 の着物を 「留袖」 と称しています。(既婚女性の式服として用いられています。)

*江戸褄模様とは、柄模様が上前身頃と下前身頃の褄 (つま) の下部分のみに有るものです。

 振袖丈帯幅帯丈留袖丈
 江戸初期53〜57p  37〜38p
 1661〜1673年 (寛文) 7.5〜11.5p  
 1673〜1684年 (延宝 ・天和) 19〜23p  
 1688〜1704年 (元禄)94〜95p   
 1716〜1736年 (享保) 47.5p455p 
 1751〜1764年 (宝暦)110〜114p   
 1804〜1830年 (文化 ・文政)   56〜57p
 江戸末期94〜95p30〜34p  

(参考 服飾事典 同文書院)

風に揺れる振り袖洗い張りの振袖旅の振袖 ・小袖 春信見返り?春信の逆顔 ・足美人?
風に揺れる振袖洗い張りの振袖 ・小袖旅の振袖 ・小袖 春信見返り?春信の逆顔 ・足美人?

歌麿の見返り?
絽小袖 前結び帯 夏美人小袖 後ろ結び帯 美人歌麿の見返り?

☆ 春信と歌麿 (1753?〜1806) の見返り美人?は、本家 「菱川師宣の 見返り美人」 のお洒落真似???

<綱吉(元禄 ・宝永)⇒新井白石(正徳)⇒吉宗(享保 ・元文)⇒田沼意次(明和 ・安永 ・天明)>

ここで、ちょいと時代を遡ります。 過ぎ去った時間を取り戻せませんが・・・。

1685年 宮崎友禅斎が新しい染め (プリント) 方法を打ち出す。通称 「友禅染」
1686年 井原西鶴 (1642〜1693) 「好色五人女」を発表 竹本義太夫 (1651〜1714) が竹本座を立ち上げ
1688年 元禄時代がスタート 柳沢吉保 (1658〜1714) が側用人 大阪堂島に穀物売買所
1690年 8月オランダ商館の医者としてケンペル (独人) 来日
1695年 8月金銀貨幣を改鋳 勘定吟味役 荻原重秀 金融インフレ政策の実施
1698年 9月元禄江戸大火 (勅額火事)
1702年 12月赤穂四十七士が本所吉良邸に
1703年 11月関東大地震による江戸大火 近松門左衛門 (1653〜1724)「曽根崎心中」
1707年 11月富士山噴火、宝永山が出現
1709年 1月綱吉が死去、家宣 (1662〜1712) (在職 1709〜1712) へ
1710年 4月金銀貨幣を改鋳、インフレ政策の終了
1712年 11月家宣が死去、翌年、家継 (1709〜1716) (在職 1713〜1716) へ
1714年 3月江島 (1681〜1741)・生島スキャンダル事件発覚 金銀貨幣を改鋳 慶長金貨の金含有率に戻す
1716年 4月家継が死去、翌年、5月吉宗 (1684〜1751) (在職 1716〜1745) へ
1717年 1月江戸大火 2月大岡忠相 (1677〜1751) が江戸町奉行
1718年 江戸町火消し、いろは45組が立ち上がる
1720年 12月洋書の解禁
1727年 2月大阪堂島に米相場会所のスタート
1732年 享保の大飢饉
1745年 京都西陣機屋仲間ができる 吉宗、将軍職を家重 (1711〜1761) (在職 1745〜1760) へ
1760年 2月江戸連日火事が続く 家重、将軍職を家治 (1737〜1786) (在職 1760〜1786) へ
1763年 平賀源内「根南志具佐 (ねなしぐさ)」 「風流志道軒伝」 を発表
1765年 鈴木春信が 「大小絵暦交換会」 で多色刷り版画 浮世絵 「錦絵」 の誕生
伊藤若沖 (1716〜1800) が 「動植綵絵」 を相国寺にプレゼント
1767年 7月田沼意次 (1719〜1788) が側用人に 公共事業 ・諸経済改革で経済需要喚起策の緒

菱川師宣の墨刷り印刷浮世絵の出現から、鈴木春信の多色刷り印刷浮世絵がデビューする迄に
93年要しています。その期間の長短は一概に論じることはできません。早くもあり、遅くもあり。
おおよそ、100年ですので、平均寿命50〜60歳として、もの心有りで約3世代の期間になります。
さっぱりした年表ですと、100年〜500年の期間を活字でいとも簡単にあっさりお示し下さいます。
上の23行でさえ、82年の時間の経過が有ります。
しかし、この様な年表の文字は、結果記入 (この年月にこんなのあったよ。) されているに過ぎません。
いつも 「事件は現場」 で起きています。 (そうですよねー、青島君)
そして、そこには、必ず人間模様が織りなす素敵な (結果、思惑通り側)・嫌な世界が関わっています。

この世に生を受け、もの心がつき始めた時点から、時の瞬時・瞬時の事件 ・出来事の積み重ねが、
その方にとっての 「歴史」=「過去を振り返った際に覚えている出来事」 になります。
「時の積み重ね」 が続いて限り、この世の中に存在している事になる訳です。。
ここでもう一度、青島君に登場して貰います。 「事件は現場」 なのです。
事件 ・出来事は、その時空間現場でしか 「わからない」 のです。
だから 「歴史」 はいつもそうかしらん? と思い倦ねてしまうのです。
「歴史」 には真実も事実もありません。
ただ、事件が有るだけです。 忘れ去られた・去りたい事件、ねじ曲げられた事件が山程ある筈です。
只、上記の江戸時代の空間を日々過ごされた方は、その時点での瞬時・瞬時で精一杯、空気を吸って・・・。

<宮崎友禅斎の手描き友禅染>

1683年 1月天和の禁令 (美服禁止令=奢多禁止令) により、
大部分の女性は花鳥風月等の刺繍文様の着物の着用が不可能になりました。
「美しさの追求」 を規制されれば、女性の皆さん、怒り心頭、「洒落臭い (しゃらくさい)」 ってなもんで、
「そんじゃらばこんなもんでどうだい」 ってな感じで、この世に登場したのが手描き友禅染。
宮崎友禅斎(1654?〜1738?)は扇に絵を描く扇絵師をやっておられました。
着物に柄を施す方法としては、1 刺繍文様 2 染め文様 3 織り柄文様 の3つしかありません。
当時、2の染め文様では微細 ・多彩色文様を出すのが不得手でした。 3の織り柄文様も同様です。
染め文様の花形は 「絞り染め」 (ろうけつ染め) と云う技法。
絞り染めは、染色する部分としない部分での 柄出し ですので、染色しない部分に余白が生じます。
その余白 (キャンバス) に友禅斎は 「絵」 を描いてしまったのです。
どちら様かの呉服屋さんが発案者だったやも知れません。(ここが歴史上に登場してきません。)
お洒落好きな女性達は、すぐに虜 (とりこ) に。 時間を置かず 「友禅雛型」 発刊で大ブレイク。

<江戸小紋>

手描き友禅染(京都 ・大阪地区)の紹介だけですと、片手落ちになり、江戸っ子が寂しがりますので、
「江戸小紋」 について。
江戸小紋は、当初、武士の上下 (裃) の柄に使用され、一つの文様面積がとても少ない柄の呼称でした。
更に、一色染めが特徴で、微細に彫った文紙 (型紙) を使用し、手捺染仕上げで渋い風合いになります。
これが「京友禅」に対する「江戸小紋」になります。後に、男性、女性を問わず着物柄として定着しました。
スタート時が、レディースとメンズの違いはありますが・・・。
このページは江戸時代ですので、何かと江戸っ子に肩を持たせたくって思わず大人げない事を。

<火事と喧嘩は江戸の華(花)>

1643年に大名火消しが設置され、江戸城及び幕府重要施設の火災の防御に当たりますが、
1657年の 「振り袖火事」 により、江戸城までも罹災、翌年、定火消しが設置 (旗本が担当) されるものの、
火事に継ぐ火事。消防車が来てくれてお水で消火する訳で無しの、類焼防ぎの家を壊す、破壊消防。
日本家屋は古来より 「儚い」 木造建築、一度火が出れば瞬く間に炭素に変身。
1695年の 「勅額火事」 は、ちょいと きな臭げ としても、1703年関東大地震による江戸大火、
1707年富士山噴火でコニーデ崩しの宝永山、歴史に記載されない、中火や小火 (ぼや)の数々。
これだけ続くと、平安の世でしたら陰陽師さんにお願いする位の方策で我慢の所、時は江戸時代、
江戸町奉行の大岡忠相が奉行就任の翌年、1718年に江戸町火消し、いろは45組を組織してくれました。
ただ具合が悪いのは、今の世と同じく (警視庁 ・警察の事件処理管轄地が固定されている)、
管轄地以外の消化活動が許されていませんでした。それと同じ地域町内会火消し組同士でも、
火事現場に最初に到着した組がヘゲモニーを取る約束事になっていた感じで、
ヘゲモニー (主導権) を取る競争からの喧嘩が絶えなかったと云われています。
火事の現場におられる方々は、「消火が終わったらどうぞゆっくり喧嘩でも」 って感じと思いますが・・・。
如何せん、そうは問屋が卸さないのが 「江戸っ子」? って云う所以 (ゆえん) だったのかしらん?

火事と喧嘩のお話しに、服は何処に繋がるのって思われる皆さん。心配ご無用です。
罹災された方々には失礼ですが、家屋が炭素になる訳ですから、当然、家財道具 ・お召し物も墨に。
罹災された方々は翌日から更なる、額に汗してのお仕事です。
一方、供給側の材木商 ・指物師(家具屋さん) ・呉服屋さん達の心は浮き浮き (表面は鉄仮面ですが) です。
又、江戸町火消しさん達の本職は、建設関係のお仕事に従事されている方が多かったと聴いていますので
いざ火事が発生の際は、類焼防ぎの為に、目一杯、つぶせや壊せの家屋壊 (こわ) しと思います?
これって今でも 「スクラップ and ビルド」 とかって云う横文字で横行しています。
資本主義の鉄則、「お金はぐるん・ぐるん回してなんぼ」 (乗数効果) って云う代物です。
この火事のお陰?で日本の山々の樹木は家となり、やがて山紫水明の山々は禿げ山に。
今は植林 せっせ ですので、100年〜200年後には美しい山々が戻っているのではないかと・・・・・。
この資本主義の絡繰りを見抜いていた方が、余り人気が宜しくない田沼意次さん。 彼は、又、あとで。

*江戸時代、記録に残されている江戸市中の火災件数は1600件。
  その内、大火と云われるのは86件。  1年に約6回、火事が発生していた事になります。

<鈴木春信の錦絵誕生と大小絵暦(えごよみ)>

1684年に渋川春海は、天文方(今の気象庁)として、日本人による最初の 「暦」 (貞享歴) を制作しました。
季節の変化を眼辺り (まなこあたり) に感じられ、風光明媚な春夏秋冬を織りなすこの日本。
農漁業従事者にとっては生活の基盤となり、為政者にとっては儀式と税金徴収段取りを決める大事な暦。
渋川春海の貞享歴の前は、
690年 元嘉暦 ・儀鳳暦 (中国暦法の輸入)→五紀暦→大衍(だいえん)暦→822年 宣明歴 (唐より)
→957年 符天暦 (宣明歴と符天暦は併用) と取り入れていました。以後基本的に宣明歴 を元に暦を作成。
この時代は未だ、太陽太陰暦 (旧暦) で1年間を換算していました関係上、(平均月周期=29.53日)
大の月(30日)と小の月(29日)を組合せて作成。(厳密には新月から新月までが一ヶ月と。)
これで行くと一年間に約11日不足します(平均太陽周期=365.242日)ので約17ヶ月に一回 閏月 を。
自然の摂理はとっても微妙ですので、天文方 (てんもんかた) の方は、
翌年の暦の大小月の割り振りを、電卓無しの手計算で計算してはじき出していました。
と云う事は、この計算が終了する迄は、
翌年の1月が29日で終わるのか30日なのか日本の皆さんは、分からない状態になっていました。
故に、暦はとても大切な物でした。
昔は政府関係者のみ必要とする暦でしたが、この江戸時代では庶民の皆さん達にも必要物に。
それで、文字羅列暦ではなく、誰にも分かり易い 「絵と詞」 で作成された絵暦が一般化する事に。
(月単位なのか24節気単位の暦か不明ですが、今のカレンダーの感じではないとの事です。)
この頃、狂歌もブームになっていて、狂歌も織り込んだお洒落な 「絵暦」 を制作する事になり、
たぶん、この企画は平賀源内 (讃岐 ・高松藩出身) と考えていますが、
絵 (イラスト) 担当の鈴木春信が何と豪華な多色刷り版画絵を考案しました。
ここで、浮世絵に錦絵が誕生する事になります。 この絵暦は目を見張るばかりの大好評を得る事に。
お年始の挨拶の 「ご進物」 用としても利用されたと云う話です。   (参考 暦と日本人 内田正男)

*西洋では、1582年信長さんが死去された年に、ローマ教会のグレゴリウス13世が、
  ユリウス暦 (シーザ=カイザル制作)(太陽暦) を止め、グレゴリオ暦 (ユリウス暦修正太陽暦) を採用。
  カトリックのイタリア、フランス、スペイン、オランダ等の国々で即実施、
  プロテスタントのイギリスは約200年後、ギリシャ正教のギリシャ、ロシアは約300年後実施。
  そして日本は、1872年にユリウス暦を、1900年にグレゴリオ暦を採用し、今に至っています。
  もう一つ、太陽太陰暦の一年のスタート (元旦) は立春 (今の2月4日) の日でした。
  今現在も名残が有ります。夏も近づく八十八夜 (種まきの目安日)、台風が来る二百十日は立春日基準。

絵暦
左図が絵暦の1枚
見立夕顔 (みたてゆうがお)
1766年版 絵暦 鈴木春信 絵
ホノルル美術館蔵

この絵は暦の一部だったのですが、
版元が絵暦だった判を買い取り、
暦の部分を削除し販売したそうです。

見立夕顔と云うタイトルは、
「源氏物語 夕顔」 の段を
出典とした見立絵との事。
女性の扇子には恋文 (ラブレター)
男性の羽織左袖の飛柄は源氏香図

恋文   源氏香 夕顔図 源氏香 夕顔
  恋文        「夕顔」

☆江戸時代の方々も、こよなく 「源氏物語」 を愛でておられた事が、ほのぼのと伝わってきませんでしょうか?

<鈴木春信は庶民女性(笠森お仙)をお江戸中の人気者に>

春信は錦絵の創始者のみでなく、庶民女性を描く事により、
「笠森お仙」 (1751〜1827)(庶民女性) さんをお江戸八百八町中、大の人気者にしてしまいました。
お仙さんは、江戸谷中 (台東区谷中) の笠森稲荷門前の水茶屋 鍵屋でウェートレスをしていました。
今なら、差詰め秋葉の萌え系お店のかわゆい白エプロン姿のお嬢さん?
とは云うものの、一度もお邪魔した事が有りませんので子細は不明です。
彼女以外にも、「明和の三美人」 として、
同じく浅草二十軒茶屋の水茶屋 蔦屋の 「蔦屋およし」 さん
浅草寺奥山の楊枝(ようじ)屋 柳屋の 「柳屋お藤さん」 が人気に。 浅草寺奥山はお寺に向かって左側地区。
笠森お仙さんのお茶出し姿は、「東京国立博物館 笠森お仙」 でご覧下さい。 ちょいとキュート?
春信は、プロのモデルさんではなく、消費者を既にここでメディアに登場させています。
それとも、彼が個人的に彼女のファンだったやも知れません???

<瀬川路考(菊之丞) 歌舞伎役者(女形)が路考茶を流行させる>

菊之丞
江戸庶民 ・大奥女性らの楽しみは、「歌舞伎」「相撲」「遊び処」。
歌舞伎役者、市川団十郎の素敵さもさることながら、
女性 ・男性を問わず、人気だったのが
優男 (やさおとこ) の女装姿の女形 (おやま)。
この時代は、何と云っても 瀬川路考(菊之丞)(1741〜1773)。
彼女 (彼) の舞台衣装の着物カラーが、
特に、時の世の女性に大人気。 彼は二世 瀬川路考 (菊之丞)。

路考茶 「路考茶」 左図は 瀬川路考 鈴木春信 制作

彼の演技も凄かった感じですが、やっぱり彼の 「美貌」。
「美しいもの」 には、誰しも魅了されるのは火を見るよりも明らか。
後の版木師の息子さんで戯作者の式亭三馬(1776〜1822)が
「四世路考素顔」 で彼を絶賛しています。
「瀬川帽子は今に盛んなり 略 路考茶はいよいよ当世に行はる。」

流行色として路考茶の人気が、ながーく続いていた事実を確認できます。坂東玉三郎さんもビックリ?
又、お洒落で、素敵で、遊び人の平賀源内 (1728〜1779) も路考を本で取上げ讃えています。(根南志具佐)
お江戸庶民は綺麗な色 (紫 ・紅色) の着用を規制されていましたので、
勢い、お咎めがない、「茶系」・「鼠 (グレー) 系」・「藍 (紺) 系」 の色に走りに走りました。
これが通称 「四十八茶百鼠」 と云われる江戸時代庶民カラーです。 又、染物屋さんを 「紺屋」 と。
この伝統は、今でもサラリーマンのお父さん方が引きずっています。定番?スーツカラーです。
なんとか 「ちょい悪親父」 に変身して下さらないかと願っているのですが、なかなか、伝統の重みは・・・。

<お江戸庶民の縞柄の着物>

男性小袖の縞柄 男性の小袖と帯が縞 小袖縞 小袖細縞
1男性小袖・女性帯が縞 (春信) 2男性の小袖と帯が縞 (春信) 3小袖縞 (歌麿) 4小袖細縞 (歌麿)

1 は、初春 梅が咲いています。2 は、晩夏 萩が咲いています。3は、お花見。4 は、朝風景です。
左2枚が鈴木春信で、1 1768年頃 2 1770年刊  右2枚が喜多川歌麿で、3 1794年頃 4 1805年。
この時代には、木綿の生産が増加して庶民も着用する事が比較的簡単になり木綿素材着物が大ブーム。
その一翼を担ったのが 「縞」 柄。

縞は、ストライプとチェック (格子) の両方をまとめて云う詞です。 生地として縞の日本導入は、

 1 室町後期時代にお隣の明 (中国) から伝わった絹名物裂 (きれ) の間道縞
 2 オランダ東インド会社経由のインド綿(マドラスチェック )の伝来

2の南の島々から渡来したので、島に糸偏関係の言葉、 「縞 (しま)」 にしちゃったとの事です。
上の2つに影響され、縞 (ストライプとチェック ) はこの頃庶民に流行、これ以後も続く事になりました。
既に、縞はこの時代以前に武士礼服の上下 (裃) の柄として登場しています。 (メンズ柄としてです。)

縞名の中には、「業平格子」   バイヤスチェック
「やたら縞」    アットランダムの細 ・太 縦ストライプ
「よろけ縞」直線ではなく、うねった線の連続ストライプ
「まん(万)縞」ストライプの存在が確認できない程の細かい縞
等々、シャレがきつくて、思わず吹き出しちゃいませんか?

<田沼意次の経済政策のお陰でお江戸庶民は元気に>

田沼意次は悪い奴、松平定信は良い奴と云う単純二元論は今や歴史の先生方により覆されつつあります。
それらの議論は、偉い方々にお譲りしますとして、
少なくとも、意次が政権担当とした約20年間、緊縮財政政策 ・デフレ政策を取らずしても、
幕府の財政は長期間、プライマリーバランスも取れ、安定状態に有った事は事実です。
又、1783年7月の浅間山大噴火による 「天明の大飢饉」 の際、
田沼意次は、被害が無かった・少なかった各諸藩に窮乏の東北の各藩にお米を供給販売する様にと。
松平定信は、大阪で、自藩の白河藩分のお米の買い占めをおやりになっていました。
幕府直轄地の農作業従事者の方々は、美味しいお酒を飲めなかった?かも知れませんが、
お江戸庶民 (商人 ・職人さん達) の皆さんにとっては、この世の春を満喫なさったと思います。
「こっちとらー江戸っ子よー」 ってな具合に?
こんな感じですので、お江戸の庶民はお洒落に精をお出しになりました。
テキスタイル (生地 ・織物) の世界は 「木綿」 が大ブームに。
浮世絵の世界は鳥居清長(1752〜1815)・喜多川歌麿(1753?〜1806)・鳥文斎栄之(1756〜1829)らが活躍。

1770年 日本各国 (諸国) 日照り干ばつ
1771年 伊勢お陰参りの流行  国内旅行ブーム
1772年 1月田沼意次が老中に
2月目黒行人坂の火事
平賀源内、羅紗 (毛織物) を製造販売 (長崎で羅紗を見て、羊を育て織物にする、「国倫織」)
1774年 前野良沢(1723〜1803)(中津藩医の子)、杉田玄白(1733〜1817)(小浜藩医の子)の解体新書
解体新書の挿し絵担当は、小田野直武 (1749〜1780)(秋田藩、角館の藩士)
1777年 5月農業従事者に江戸への出稼ぎを制限する
1778年 本居宣長(1730〜1801)(伊勢松阪に在住)、「古事記伝」上巻刊
7月ロシア船北海道(蝦夷地)に来たる。松前藩に通商を要請。
1782年 幕府、印旛沼干拓に着手する 天明の大飢饉〜1787年
2月大黒屋光太夫(1751〜1828)(伊勢に在住)カムチャッカで漂流
7月浅間山大噴火
1783年 工藤平助(1734〜1800)(紀伊に出身 仙台藩医工藤丈庵の養子に)、「赤蝦夷風説考」
1783年 12月大阪の町人に御用金を課す
1786年 8月家治が死去、翌年、家斉 (1773〜1841) (在職 1787〜1837) が将軍に
家治の死去により田沼意次らが失脚
1787年 7月松平定信(1758〜1829)老中筆頭に 寛政の改革 8月即、倹約令
1788年 1月京都が大火事に
1789年 3月家具・衣服などの奢侈禁止令
9月棄捐令で旗本等の借金を反故に
1790年 11月庶民に江戸から故郷に帰る事を奨励する
1791年 1月江戸市中 (江戸八百八町中) において、銭湯での男女混浴を禁止する
3月蔦屋重三郎(1750〜1797)(江戸浅草出身)・山東京伝(1761〜1816)(深川出身)が処罰される
1795年 11月江戸女性、結髪を禁止される
1794年 1月桜田火事  東洲斎写楽(?〜?)(八丁堀在住)1795年にかけて約140点の役者似顔絵作成
1796年 2月イギリス人室蘭に来たる
1799年 7月高田屋嘉兵衛(1769〜1827)(淡路に在住)、択捉(えとろふ)航路を開く
1804年 絵草子の出版 ・販売が制限される 喜多川歌麿が処罰される

<寛政の三美人 喜多川歌麿と幕府の攻防>

なにわや お茶碗 かんざし
1 おきたさん2 な・にわ・や・おき・た 3 桐柄 お茶碗4 桐柄 付き簪 (かんざし)

松平定信が政権を担当した途端に、庶民の皆さんに対して、「贅沢をするな、倹約をせい。」 とのお達し。
その代わりに、配下の役人さん達には、「今までの負債を無しにしてあげる。」 のですもの。
お役人さん達は 「超ラッキー」、債権者さん達は 「泣き寝入り?・織り込み済み?」、庶民は 「お口あんぐり」。
庶民の皆さんには、堪 (たま) らない施策???  これが、「世の常」 なのかも知れません。
ファッション雑誌業界でお仕事されていた喜多川歌麿達にもお達しが出ます。1993年(寛政5年)
「女性肖像画を描く際には、本人名を記載してはだめ。(但し、「遊郭」 でお仕事されている女性を除く)」
上図は 「寛政の三美人」 のお一人の、「難波 (なにわや) 屋おきた」 さん 。 (庶民の代表女性です。)
「高名美人六家撰 難波屋おきた」 1795年頃 喜多川歌麿  東京国立博物館蔵
おきたさんは、浅草寺内の水茶屋でお仕事していたお嬢さん。鈴木春信と笠森お仙さんの感じのリメイク?
歌麿は、この作品で幕府に、軽ーい洒落で、叛旗を翻しました。
2 の 二把の菜っぱ、矢、沖に浮かぶ舟、田んぼ で 「な・にわ・や・おき・た」 さん。
更にシャレが分からない方向けに、お茶碗の「桐の葉側」、更に更にかんざしには 「五三の桐」 文様。
水茶屋、難波屋さんの看板 (ブランド) 柄は桐の文様だったそうです。
寛政の三美人の残りのお二人は、
お煎餅屋さんのお嬢さんの高島おひささん と 新吉原芸者さんの富本豊雛さん。
お二人の絵は、東京国立博物館でご覧頂けますので、お時間があれば覗いて下さい。
高島おひささん 富本豊雛さん。
歌麿は、運悪く1804年に御用になり、牢屋に3日、手鎖50日の刑に。
彼の、「狂歌」 仲間でのペンネーム(筆名)は 「筆 綾 丸 (ふでの あやまる)」 でした。

*水茶屋はお寺等にデート、参拝の際のお休み処。 お茶をもてなして下さいますので (喫) 茶店の感じ。

<ファッションリーダーの吉原女性>

喜多川歌麿がお江戸の人気浮世絵師になった理由の一つは、版元の蔦屋重三郎とのコンビ(1781年から)。
蔦屋重三郎は 「ちゃきちゃき」 のお江戸 浅草 吉原 育ち。「吉原細見」 (吉原のお店のガイドブック)
の企画販売が大当たりして、一躍、ビッグな出版プロデューサーに。
彼は1791年に御用になり、財産を半分没収され、お店の間口も半分にされたそうです。
歌麿と重三郎はコラボでバンバンヒット作を世に送り出します。
その大半のモチーフは教養と美しさを兼ね備えた 「吉原女性」 達でした。
彼女らは、女性ファッションリーダーの一翼、と云うよりも、大部分を担っていたと考えています。
吉原女性が身につける、着物・小物。それらを纏う着こなし・所作。世の女性は彼女らをお手本にしたのだと。
歌麿は無事に刑が開け、更なるお仕事に精を出そうとしますが、翌々年の1806年にお亡くなりになります。
そして、その年に作成された作品。


彼は、この作品に13人もの吉原女性を登場させています。
贅を尽くしたお召し物、装飾品、小物。それらをよりショーアップさせる背景空間。
常日頃の組織命令系統により
「黒の者と物でも白」 と敢えて云わざるえない、
「己を偽る浮き世の世界」 に漂い続ける殿方達を、
ほんの、ひとときの、刹那でも 「ファンタジーな世界」 に誘 (いざな) って下さる吉原女性と吉原空間。
「虚」 の世界で有るからこその演出、デコレート。
江戸城詰めのキャリア女性の大軍団の衣装代よりも彼女らの衣装代は勝るとも劣らなかったのでは?
尚、この絵のタイトルは 「扇屋張見世」、実物は 「たばこと塩の博物館」 に有ります。お時間が有れば・・・。


★ お断り。この頁の画像は 「衣装 ・服」 を皆様に紹介する為、画像加工しています。
   故に、決して 「絵」 としてご覧にならないで下さい。
  「絵の余白」 を無視していますので、「絵」 に成っていません。絵師さん達には大変失礼しています。


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