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襲色目と重色目 襲色目と重色目

◆ 襲色目 (春夏秋冬)

春の襲色目 (旧暦 1月〜3月)表裏の重色目は 「襲色目と重色目」 で。

紅梅匂(曇花院殿)柳桜(曇花院殿)樺桜(曇花院殿)桜躑躅(曇花院殿)躑躅(曇花院殿)山吹匂(満佐須計)
紅梅にほひ柳桜樺桜桜躑躅躑躅山吹にほひ

夏の襲色目 (旧暦 4月〜6月)

藤襲(満佐須計)藤重(曇花院殿)花橘(満佐須計)卯花(満佐須計)牡丹(満佐須計)
梅襲梅重花橘卯花牡丹

秋の襲色目 (旧暦 7月〜9月)

若楓(満佐須計)薄(満佐須計)女郎花(満佐須計)竜胆(曇花院殿)菊重(曇花院殿)
若楓すすき女郎花竜胆菊重

冬の襲色目 (旧暦 10月〜12月)

楓紅葉(曇花院殿)黄櫨紅葉(曇花院)移菊(曇花院殿)紅薄様(曇花院殿)梅襲(満佐須計)梅重(曇花院殿)
楓紅葉黄櫨紅葉うつろひ菊紅うすやう梅襲梅重

四季通用の襲色目

松重(曇花院殿)紫村濃(曇花院殿)紅匂い(満佐須計)柳襲(満佐須計)蘇芳匂(満佐須計)
松重紫むらご紅にほひ柳襲蘇芳にほひ

「絵」 は、右袖口下部になっています。
曇花院殿は、「曇花院殿装束抄」  満佐須計は、「満佐須計装束抄」 です。

上記以外の襲色目  桜重 山吹 菖蒲 花橘 裏菊 紅もみじ 雪の下紅梅 紫うすやう は、
 「ZIPANGU 平安朝 十二単 絵 等」 でご確認下さい。

「満佐須計装束抄」 の著者は源雅亮  で平安時代後期の男性。
「曇花院殿装束抄」 の著者は聖秀尼宮で室町時代後期の女性。

満佐須計は―→五衣+単     曇花院殿は―→表着+五衣〜六衣+単    のコーディネーション。

豪華絢爛なみやび (雅) の絶頂期の藤原道長さんの時代 (とき) の十二単カラーコーディネートの世から源雅亮で約100年後、聖秀尼宮さんで約400年後に記された文献資料ですので、どの程度道長さんの時代 (とき) の色を反映しているのかは定かではありません。
色は世に連れ、世は色に連れ、日々刻々と変容します。変化しないのは人の心模様と感じる心音 (根)。
染め ・織りの技術の向上は、藤原道長さんの時代 (とき)よりも格段と進歩していたと思いますが源雅亮の時は
帝のお父さんが実権を掌握していた院政の時代(とき)でそろそろ武力(武士)が台頭し始める時代(とき)、
一方聖秀尼宮さんの時は各地方 ・地域の分権時代で戦国の世の中、道長さんの時代に比べて両時代ともに、
経済的 ・財政的基盤が極めて脆弱な時代でした。
その様な折りにも関わらず後世に文献を残して下さった事に感謝致します。
梅襲(重)藤襲(重)につきましては、両者のカラーコーディネイトは異なっていますが、桜襲(重)は同様でした。
私どものデザイナーは、なぜか女性の曇花院殿のコーディネーションに感じ入っています。
曇花院殿と約500年の時の流れが有っても女性同士、心が通う処が有るのやも知れません。 ???。
襲色目の文献資料として、曇花院殿より約50年前の一条兼良が 「女官飾抄」 で襲色目の説明書きをしているとの事ですが、私ども生憎こちらは不明です。確認できた場合は、お知らせします。

◆ 枕草子の衣装(服)に関する色々 清少納言の感じ方 三巻本 ・能因本より

<先ずは、各々に清少納言が語っている段>

「唐衣は赤色 赤色藤重 。夏は二藍 二藍 。秋は枯野 枯野重 。」
「女の表着は 薄色 薄色(薄紫) 。葡萄染 葡萄 。萌黄 萌黄 。桜 桜重 。紅梅 紅梅織色 。すべて、薄色の。」
「汗衫は 春は躑躅 躑躅重 。夏は青朽葉 青朽葉重 。朽葉 朽葉重 。 」
「織物は  むらさき 中紫 。白き白紅梅 紅梅織色   もよけれど、見ざめこよなし。」
「綾の紋は 葵。かたばみ。あられ地。」      「裳は 大海(おおうみ)。」

* 汗衫(かざみ)は、汗取り用の麻の単の衣。
* 大海は、海 ・湖に因む、海辺 ・湖畔の景色である松 ・千鳥 ・波などの柄。 (海賦文)

<淑景舎春宮にまいり給ふほどの事などの段>

★中宮定子
「紅梅の固紋、浮紋の御衣どもに、紅のうちたる御衣、三重がうへに唯引き重ねて奉りたるに、『 紅梅には濃き衣こそをかしけれ。今は紅梅は着でもありぬべし。されど萌黄などのにくければ。紅にはあはぬなり 』との給はすれど、唯いとめでたく見えさせ給ふ。奉りたる御衣に、やがて御容のにほひ合せ給ふぞ、なほことよき人も、かくやおはしますらんとぞゆかしき。」

★高階貴子(定子 ・淑景舎の母)
「うへは白き御衣ども、紅のはりたる二つばかり、女房の裳なめり。」

★淑景舎(桐壺)(中宮定子の妹)
「紅梅どもあまた濃く薄くて、濃きあやの御衣、少しあかき蘇枋の織物の袿、萌黄の固紋のわかやかなる御衣奉りて、扇をつとさし隱し給へり。」

定子(紅梅 ・紅)定子(紅梅 ・紫)定子(桜 ・紅)貴子(白 ・紅)淑景舎(萌黄 ・紅梅)
定子(紅梅 ・紅)定子(紅梅 ・紫)定子(桜 ・紅)貴子(白 ・紅)妹(萌黄 ・紅梅)

清少納言さんが記した 「枕草子」 には、句点は有りません。
どちらかの時代(とき)に、どちら様かが句読点 ・一部漢字置き換えをなさり、写本を繰り返し、
今の世に伝わっている「枕草子」です。
故に清少納言さんの描写されてる「情景」と異なるかも知れませんが、
ここにあげた 「文章」 の句点をそのまま 「絵」 にしますと上記の様になります。
ここの段のお話は、(ご存じの方は飛ばして下さい。) 定子さんの妹の淑景舎さん(後の三条天皇の奥様のお一人)が定子さん(一条天皇の奥様のお一人)のお住まいになって居る所へ来られるシーン。
その際のfashion(お召しもの)です。
定子さんが少納言にfashionを語っています。
時は二月十日(旧暦)正月が終わり桜 (染井吉野ではなく山桜) の季節の三月との間です。
彼女は少納言に次の様に話しかけています。
『紅梅色のジャケットのインナーは濃い紫色が一番、素敵よねー。』  その組合せが 「定子(紅梅 ・紫)」 です。
『今時では、紅梅色のジャケットじゃなくそろそろ先取りの桜色の方がオシャレかしらー。』  定子(桜 ・紅)。
紅梅色と桜色の色味の違いが皆さんのブラウザーで確認できる事を願います。
桜色は紅梅色よりも赤みがかなり強いです。
この微妙な色合いの差(季節感をも含めた)のジャケット談義です。定子さんって素敵っ。やや舞絽倶調?。
『かと言って、萌黄色のジャケットもおしゃれなんだけど、ちょいと私の年でじゃねー?
それにいま付けているインナー (袿) の紅色には野暮ったいし。』
その萌黄色のジャケットをお若い妹さんがおめしになっています。
次に、日本国旗のシンボルカラー、平氏 ・源氏の各々のシンボルカラーの 「紅 ・白」。
さすが酸いも甘いもお判りなる 「アダルトな女性」 の貴子さん。
二配色のさっぱり ・オババ系と考えてはとっても浅はかです。
絵で表現していませんが、ジャケット(超ロングジャケット)には、お三人様ともに地柄が施されています。
ここからは想像の域ですが、貴子さんのジャケットの 「白」 には、同色で大人しか着れない柄が飛んでいたのではないかと考えています。
最後に、淑景舎さん。さすがの若さ。これでもかの多色使いの色取り取り。春、萌えいずる若葉の 「萌黄色」。
定子さんも思わず嫉妬???
今の世も 「若い」 の誉め言葉にお・よ・わ・い方々。 雅の世と、変わっていませんね?

<関白殿、二月十日のほどに法興院の積善寺といふ御堂にての段>

★中宮定子
「前略 まだ御裳、唐の御衣奉りながらおはしますぞいみじき。くれないの御衣どもよろしからむやは。中に唐綾の柳の御衣、葡萄 (えび) 染の五重がさねの織物に赤色の唐の御衣、地摺の唐の薄物に、象眼重ねたる御裳など奉りて、ものの色などは、さらになべてのに似るべきやうもなし 『我をばいかが見る。』 と仰せらる。」

★清少納言
「前略 赤色に桜の五重の衣を御覧じて、 『法服の一つ足らざりつるを、にはかにまどひしつるに、これをこそかり申すべかりけれ。さらずは、もしまた、さやうの物をとり占められたるか。』 とのたまはするに、大納言殿、すこししぞきてい給へるが、聞き給ひて、 『清僧都のにやあらむ。』 とのたまふ。」

★女院(東三条院詮子)女房
「前略 次に女房の十、桜の唐衣、薄色の裳、濃き衣、香染、薄色の上着ども、いみじうなまめかし。日はいとうららかなれど、空はみどりにかすみわたれるほどに、女房の装束のにほひあひて、いみじき織物、色々の唐衣などよりも、なまめかしうをかしきことかぎりなし。」

定子(唐赤色 ・紅)清少納言(赤色・桜)女院女房(桜 ・紫)
定子(唐赤色 ・葡萄)清少納言(赤色・桜)女院女房(桜 ・紫)

この段は、淑景舎春宮にまいり給ふほどの事などの段の前年のお話になります。
淑景舎春宮の段のは995年の出来事。この年の4月に藤原道隆 (関白殿) がお亡くなりになりました。
法興院は、藤原兼家。道隆、詮子、道長の父で既に990年に他界されていて、
この段は、彼の法事にお身内の方々が集まるシーンです。
藤原兼家の命日は、写本により二月十日、二十日、二十一日など有ります。
ここでは一応、一番最初の二月十日にしておきましたが、
女院 (東三条院詮子) 女房達が 「桜色」 のショートジャケット (唐衣) を着用している所から、
お日柄的には二月二十日、二十一日ではないかと思っています。
ここの絵は、バックスタイルにしています。故にお袖は左袖となります。
右隅下の出っ張りは 「裳」 を表しています。
その裳の2配色は、上部は 「表着」 の色になり、下部は裳の色になります。
このシーンでは皆さん (たぶん、女院の詮子以外は) 唐衣を羽織っています。
唐衣は単品絵の様に前丈より後ろ丈が短い、裾イレギュラーショートジャケットです。
この段の衣装でも確認できます様に、後の通称、「十二単」 女房装束が12枚(単品)でなかった事が判ります。
因みに、中宮定子は、
ショートジャケット(唐衣)1点・ガウン8点(表着、袿、単)・裳1点・紅袴1点・小袖肌着1点の12枚です。
清少納言の衣装は、11枚にしかなりません。
十二単は通称で、更に単品アイテムが十二点でなかった事は、「十二単 資料」 にて確認下さい。
清少納言さんのアダルト (大人っぽくって) でセクシー (素 敵) なコーディネートもなかなかのものでしょう。
彼女の赤色のショートジャケット(唐衣)は、藤原棟世さんからの贈り物 (田辺聖子さん) と云うお話も有りますよ。

★ 各々の方々の人間模様は、「平安時代のキャリアウーマン(女房)」 で確認下さい。 ★

☆ ベースカラーは 「日本の色(伝統色)見本」 でご覧下さい ☆

◆ 襲色目の謎 ?

襲色目には、不可思議な点が有ります。 ここで満佐須計装束抄と曇花院殿装束抄を比較してみます。
満佐須計の紅薄様  「紅匂ひて三、白き二。白き単」
曇花院殿の紅薄様  図 (絵) で表記 一紅 (上着) 二同 三同 四薄紅梅 五白 六同 (五衣) 七同 (単衣)
と記されています。両者の色目の表記違い・色名は、ここでは無視します。
満佐須計は五衣と単の色のコーディネション。曇花院殿はそれらプラス表着を含めた配色説明。
満佐須計は表着色の説明が有りません。更にそれらの上に着用する細長・小袿・唐衣の色も。

次に、両者ともに袿の説明色に於いて重色目(袷仕立て2枚の混色)の色目を殆ど使用していません。
両者は 「紅梅」 と 「山吹」 以外は、一切記載されていません。 (私どもの手元資料に限る。)
(紅梅は 「紅梅匂」 ? なら 「重色目」 になります。又、紅梅は、織物名としても有ります。)
満佐須計の藤襲  「表は薄紫を匂ひにして三領、白を二領、裏は緑。紫の濃淡にして。白または紅の正絹の単」 と説明しています。表地・白を二領の裏地・紫の濃淡と云う表現は 「白躑躅の匂ひ」 で済むと思うのですが。
因みに上記の枕草子・関白殿二月十日のほどにの段では清少納言の衣装が 「赤色に桜の五重の衣を御覧じて」 と 「桜」 と重色目で記してあります。

★ 襲色目の謎に対する、ZIPANGUの解釈

源雅亮

源雅亮さんは、生没年不詳です。数少ない情報ですが、近衛天皇(1139年〜1155年)(在位1142年〜1155年)の奥様のファッションアドバイザーをおやりになっていた感じなのです。
近衛天皇の奥様(多子さん)は、徳大寺公能さんのお嬢さんで養父は藤原頼長さん。
多子さんは1140年?生まれで、11歳で皇后になられました。
近衛天皇は数え4歳で帝になられ、僅か17歳でお亡くなりになっていますので、多子さんとは実質5年間の生活。
角川書店 「日本史辞典」 での 「満佐須計装束抄」 は、
「仮名文で記した装束に関する抜き書き。源雅亮著。1169年以降の成立。藤原頼長 (藤原忠実の子)・徳大寺実能(公能の父)に仕え、装束・調度の室礼の実務を担当。」 と有ります。
政治向き的な話は得手ではありませんので詳しい状況は良く解りませんが、
藤原忠実・忠通の親子の不仲、鳥羽・後白河上皇が院政をしていたと云われる時代、やがて、
白河天皇のご子息とも云われている平清盛?、その後の源頼朝らの武家政権に変容してゆく揺れ動いた時代。
その際に、我関せず悠々自適?に書物をしたためられました。
その源雅亮さんは、少なくても 多子さんのお側近くにおられた事になります。
「日本史辞典」 では1169年以降の成立としていますので、
それを前提に考えると平清盛が太政大臣で 「平氏であらずんば・・・。」 の時。
所謂、fashionなんて云ってられない時期?。
そんなこんだで、平氏政権の女性にお教えする 「指南書」 だったと云うのは如何ですか?
故に、重色目で表現せず、平易に分かりやすく日常の色目でのhow-to本なんて?
ほんの少しの意地悪は 「五衣」 のみの色しか伝授しなかった事?
ジャケット (表着・細長・小袿・唐衣) のカラーコーディネートは彼女らに委ねた次第?
由緒正しい女性?は思わずニンマリ? ってな具合です。
多子さんとは、懇意で1169年以降がフリーの 「源雅亮?」 さん。
この条件にピタッリ合う実在の男性が存在します。
そのお方は、「源雅通」 (1118年〜1175年)さんです。
1141年、皇后宮権亮 1147年蔵人頭、1150年参議、侍従、1154年から村上源氏長者、
1169年右馬寮御監督を以て役職をすべてリタイヤー。
後の1196年、源頼朝の死を契機に九条兼実さんを関白の座から退いてもらい、
養女の藤原在子さんを後鳥羽天皇の奥様にした 「源通親」 さんは、彼の息子です。
そんなこんなで、源雅亮さんは、「源雅通」 ではないかと私どもは考えています。
しかしながら残念な事に、後白河院さんがお好きだった 「今様」 の1174年の歌合戦に
何と 「雅亮」 と云う方が出場している文献が有るみたいなのです。
その日記は、吉田経房の 「吉記」 との事。、
ただそれには 「源」 の表記が無いそうなので、未だ真相は藪の中という事に相成ります。
何れにせよ、「満佐須計装束抄」 のライターは 、素敵でお洒落な遊び人の金さんに・・・・・・・。
「襲色目」 のノウハウにはとても感謝しています。

曇花院殿 聖秀尼宮

聖秀尼宮さんの父は、後奈良天皇 (在位 1526〜1557)(1496〜1557) 母は、広橋国子さんです。
母の国子さんは藤原真夏 (藤原冬嗣の兄) を祖とする日野家流の分家の方になります。
後奈良天皇の七番目のお嬢さんとして、聖秀尼宮さんはお生まれになりました。
この時代は 「室町時代の衣装」 の 「応仁の乱後のお金 ・社会事情」 に詳しく記しましたが、
悲惨な世の時代 (とき) でした。京の都から室町将軍 ・管領は逃げ出すは、ころころ変わるは、治安が悪化。
やや力が有り財力を持ち合わせていたのは、
堺港を押さえる細川氏軍団、博多港を押さえる大内氏軍団、今川氏軍団、後北条氏軍団などの通称 戦国大名。
後奈良天皇の即位の礼のイベントは、
践祚(天皇就任)10年後にやっと細川氏を除く戦国大名らからイベント費用を調達して執り行った感じです。
今谷明氏に依りますと、
即位の礼の費用の大半は大内義隆への大宰大弐の官位授与に対するお礼金で賄ったとの事。
又、山科言継 (ときつぐ) の 「言継卿記」 では、織田信秀 (信長の父) も献金した模様です。
その様な経済基盤でしたので、お嬢さんの聖秀尼宮さんもそれなりの生活環境だったと思われます。
聖秀尼宮さんと記していますが、私どもの参考にさせて頂いた京都大学付属図書館蔵、
平松文庫では 「曇花院宮餝抄」 聖秀女王著 別名 「曇花院殿装束抄」と記載されています。
文末に、天文八年 (1539年) 霜月一日ですので、この時点で、彼女は尼さんになっておられません。
彼女は1552〜1553年頃に、曇花院に入院? (決してご病気ではありません) されています。
正確さを敢えて無視して、女王より何処か耳障りがよい聖秀尼宮さんに私どもは勝手にしています。
只、残念の事に、彼女の生没年が不明なのです。
従いまして、推測するしかないのですが、第七皇女を頼り、
後奈良天皇の少なくても、30歳時のお嬢さんとして1526年生まれとしたいのです。
勝手な希望は、彼女と三条西実隆 (1537年没) とが接近遭遇してくれていれば、いや会っていると・・・。
私ども ZIPANGU は、
彼女が日本で一番最初の 「女性服飾デザイナー」 ではないかと考えていますので・・・。
もし、彼女が1526年誕生と仮定した場合、父の即位の礼の際には11歳。
その華やかなイベントを多感な時期に眼辺りにご覧になり、脳裏に焼き付けられた。
名目は別として、即位の礼の総合プロデューサーは三条西実隆でディレクターは山科言継ら。
この時代を背負ったアーティスト達。
三条西実隆は山科言継 (1507〜1579) の父、山科言綱 (1486〜1530) の烏帽子親であり、
三条西実隆の息子、三条西公条 (きみえだ) (1487〜1553) は山科言継の烏帽子親をやってくれています。
最高のショーをご覧になられた聖秀尼宮さんは、その素晴らしかった感動を
彼女の14歳、1539年に「曇花院宮餝抄」として書き留められたと私ども ZIPANGU は考えています。
本来ならハイティーンから20歳位が妥当? になるのかも知れませんが、20歳に設定しますと
お兄様である正親町天皇 (在位 1557〜1586)(1517〜1593) にお誕生日が近づき過ぎますので。
なにせ第七皇女ですから? でもお母さん方が違いますのでいいのかなとも・・・。
彼女は書き留めるに当たって、実隆や言継に当然色んな情報を頂いたと思います。
「みやびの世」 での完成された衣装 (十二単) の美しさ、それを簡単明瞭に記された
「満佐須計装束抄」 それを書き写したと云われている
鎌倉後期時代の鷹司冬平による 「後照念院殿装束抄」
足利義満時代の高倉永行による写本。
足利義政時代の一条兼良による 「女官飾抄」 (生憎、この資料は当方不明。オリジナルやも) 等々、
しっかりご覧になり、その有識故実を踏まえ、新しく彼女の感性を注ぎ込み、
オリジナルティー溢れる 「曇花院殿装束抄」 を書き残して下さった聖秀尼宮さん、

こころから有難うございます。
 

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