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  続 江戸時代の女性衣装 江戸 ・女性 続々 江戸時代女性の衣装 続々 江戸 ・女性 日本の服の歴史 「日本の服の歴史」 目次

<徳川幕府の御殿女中 (女性) の本式服>

上臈の夏本式服 腰巻  上臈 ・中臈の本式服
上臈の夏本式服 腰巻上臈 ・中臈の本式服

先ず、ここで 「女性の髪型」 について確認しなければなりません。
日本におきましては古来より、女性の髪型は 「垂髪 (さげがみ)」 でした。

「近世女風俗考」 生川春明 1835年成立

「七十一番職人歌合の絵を見るに、商家産業の女も、皆下げ髪なるに、機織る女のみ、肩のわたりに
 髷 (わげ)に結へり。是によりて思ふに、下ざまの者は、下げ髪にては身持ちむづかしく、手業なすにも
 便りあしければ、仮に結ひ、又は布めくものにて包みしが、いつとなく頭の上にて結へる様になりしならむ。」

「事跡合考 (じせきごうこう)」 巻三 神君御放鷹の事の条 柏崎具元 江戸時代中期頃成立?

「神君 (徳川家康) ご隠居後、御放鷹として御泊りがけに御城 (江戸城) へ 中略 
 御自身は浅黄染め紬 (つむぎ)、小倉織りの木綿の御袷羽織、 中略 
 お供の女中 (女性) は花色染めの立波に汐桶など、裾にかけて白くしたるに、茜染めの木綿裏付けたるを、
 打掛 (うちかけ) に着て、浅葱 (あさぎ) 布の三尺手拭いを頂 (いただき)、顎 (あご) に巻き返し、
 余りを頂にからげて馬に乗りたるが、同じ体にて三人程づつ御供したり。」

超ロングヘアーでは、お仕事、お出かけに支障があり、髪をUpしたり結っていた事が分かります。

* 七十一番職人歌合は室町後期成立?の感じで、女性の職人さん(機織 ・帯売など)の絵が載っています。
* 紬は、屑繭などをつむぎ、撚りをかけた絹糸で織った平織りの織物。
* 小倉織りは、経糸を密にし、緯糸を太くして織った綿織物。。九州小倉地方が産地だった。
* 打掛に着るは、羽織る事。 打掛は、小袖上着で、和式結婚式でお召しになっているロングコート。

★ 下記の衣装の明細は、おおよそ江戸時代中期以降とお考え下さい。
   遊里の女性衣装の資料は多く残っているのですが、なぜかオフィシャル仕事着の資料が少ないのです。

中臈以上の本式服

* 上臈 ・中臈は、江戸幕府大奥の職名 (役職名) です。御殿女中(女性)の高級 ・中級役の方々。

▽ 1月〜3月まで 9月9日〜大晦日

打 掛白地 (表綸子、総刺繍金銀色糸鹿の子入り 裏紅羽二重)。  黒地 ・赤地 (同)。
桃色地 (総刺繍無し)。
間 着 赤地 (表綸子、金糸にて刺繍 裏紅羽二重)。      白地 (表同、銀糸にて刺繍 裏同)。
黄地 (表鬱金綸子、以下同)。白地 (表白大紋綸子刺繍無し)。
下 着 白地 (表裏とも白羽二重)。
胴 着 白地 (表裏とも白羽二重)。
肌 着 白地 (表裏とも白羽二重)。
付 帯 黒地 (綸子、金糸にて総刺繍)。

▽ 4月1日〜5月5日まで

袷上着白地 (表白綸子、金銀色糸にて刺繍 裏紅羽二重)。  黒地 (同前)。
袷下着 白地 (表裏とも白羽二重)。

▽ 5月5日〜9月8日まで

本 辻白地 (表晒し麻、金銀色糸総刺繍、下重ね晒し)。
黒地 (表同、袖口紅羽二重、下重ね袖口白羽二重)。
提 帯 唐綾、錦。
腰 巻 黒地練貫 (金銀色糸にて総刺繍 裏紅練貫)。      以前は6月、7月は裏正絹 (すずし)。

* 綸子 (りんず) は紋織物、経 ・緯糸共に生糸を用い、製織後に精練した、滑らかで光沢とがある染生地。
* 刺繍は総縫い模様の略にしています。
* 間着 (あいぎ) は打掛の下の小袖。
* 付帯 (つけおび) 提帯 (さげおび)
* 練貫 (ねりぬき) は、経 (たて) 糸が生糸で、緯 (よこ) 糸が精錬された練糸の織物。

お側女中 (女性) の本式服

▽ 春 ・秋冬用

介 取白地 (表縮緬、金銀色糸にて鹿の子入り 裏紅羽二重)。  黒地 ・赤地 (同)。
桃色地 (総刺繍無し)。
間 着 赤地 (表緋縮緬、金糸にて総刺繍 裏紅羽二重)。      白地 (表同、銀糸にて刺繍 裏同)。
黄地 (表鬱金紋縮緬、以下同)。白地 (表白大紋縮緬刺繍無し)。
下 着 胴着、袷肌着。
付 帯 表緋繻子 但し、お側お次は黄繻子、金銀色糸刺繍。

▽ 夏用

袷上着白地 (表白縮緬、金銀色糸にて刺繍 裏白羽二重)。黒地 (同前)。
袷下着 白地 (表裏とも白羽二重)。
茶屋辻 表晒し麻、総刺繍、下重ね晒し、表袖口紅羽二重、下重ね袖口白羽二重。
付 帯 錦。
半肌子 晒し麻。  半襟とも。

* 介取 (かいどり) はお側 ・お次女中 (女性) のアウターの云い方。形は打掛と同じ。
* 縮緬 (ちりめん) は経糸に撚りのない生糸、緯糸に強撚糊つけの生糸を用いて平織に製織した後に、
   ソーダを混ぜた石鹸液で数時間煮沸する事により緯の撚が戻ろうとして布面に細かく皺をたたせたもの。
* 繻子 (しゅす) は紋織物、経 ・緯糸共に生糸を用い、製織後に精練した、滑らかで光沢とがある染生地。

お次女中 (女性) 以下の本式服

▽ 春夏秋冬用

介 取半模様綿入り表縮緬、金銀色糸刺繍。
間 着 白地 (白縮緬、銀糸にて定紋五ヶ)。     赤地 (表緋縮緬、金糸にて定紋五ヶ)。
下 着 白地 (表裏とも白羽二重)。
胴 着 白地 (表裏とも白羽二重)。
肌 着 白地 (表裏とも白羽二重)。
付 帯 表黒繻子 裏黄繻子腹合せ。
 袷  半模様 (綿入れに同)。
帷 子 半模様 (表晒し麻、下重ね晒し)。
半肌子 晒し麻。  半襟とも。
提 帯 表繻子 裏紅絹。

* 腹合せ帯は表と裏とをちがった生地で縫い合せた帯。
* 綿入れは裏をつけ中に綿 (真綿) を入れた衣服。
* 帷子 (かたびら)は単衣の着物。

御三の間お乳などの本式服

▽ 春夏秋冬用

綿 入裾紋  表縮緬 裏紅秩父 定紋3所にて染め模様 下重ね白秩父。
 袷  裾紋  綿入と同。
帷 子 裾紋  晒し麻、下重ね晒し、染め模様。
幅紗帯 琥珀、縮緬腹合せ。

* 秩父は秩父絹で秩父地方産の絹織物。衣服の裏地に多く用いられた。
* 幅紗 (ふくさ) 帯は縮緬類の柔らかい絹布で作った帯。袱紗帯とも。
* 琥珀は琥珀織で平織、経糸を密に緯糸をやや太くして低い緯畝のある絹織物。絹タフタの事。

<徳川幕府の御殿女中 (女性) の略式服と平服>

略式服 半模様  お側女中 上臈 ・中臈の平服
略式服 半模様     お側女中        上臈 ・中臈の平服

上臈 ・中臈の略式服

 綿 入半模様 (表縮緬 金銀色糸刺繍)
 間 着白地、又は、赤地 (表縮緬 裏紅羽二重)
  袷 半模様 (表縮緬、金銀色糸刺繍)
 帷 子半模様 (表縮 その他同。)
お側女中 (女性) の略式服
 

 綿 入裾模様 (表縮緬 金銀色糸刺繍)
  袷 裾模様 (表縮緬、金銀色糸刺繍)
 帷 子裾模様 (表縮 その他同。)

☆ お次女中 (女性) 以下は本式服のみで、略式服は無し。

上臈以上の平服

    春秋冬
 朝番   縞 重付 替り裏 帯付
 昼番   介取 (紋付) 間着 下重ね 付帯
 夕番   介取 (紋付) 間着 下重ね 付帯
 

    夏
 朝番   縞 重付 替り裏 帯付
 昼番   帷子 (紋付) 重付 提帯
 夕番   小紋 重付 提帯

中臈以下、お側、お次女中 (女性) 迄の平服

 朝番  縞 替り裏 帯付     昼番  紋付 重付 帯付     夕番  小紋 重替り裏 帯付

お次女中 (女性) 以下の平服

 朝夕番  縞 替り裏     出番  紋付 重付

<初めて、ファッションが庶民へ。>

これまで奈良朝からここの江戸時代の女性衣装の頁で紹介してきました衣装 ・服は、
帝、貴族、政権担当武士の方々の女性 ・男性の皆さんがお召しになっていたものです。
所謂、日本の政治を担って来られた皆さんの服でした。
この江戸時代なる前にも、堺 ・博多商人の方々の中には、お洒落で素敵な女性 ・男性がおられたと思います。
しかし、それらをお示し下さる文献を残して下さっていませんので、知る由もありません。
家康が日本全土を掌握し、秀忠、家光の3代で基盤が整い初め、平和な世(戦が無い)が続きますと、

ここに初めて一般庶民 (年貢 ・運上金 ・付け届け等のお支払い側) がファッションの世界に登場します。
但し、庶民と云っても 「新興お金持ちの庶民です。」 今風でしたら 「六本木ヒルズ族の方々。」

「我衣 (わがころも)」 加藤曳尾庵著 文化時代 (1804〜1817年) 頃に記されたものですが、

「寛永十六年 (1639年) までは、武家は格別、町人百姓ともに、衣服はなはだ麁相 (そそう) なり。
 女も町人百姓の妻なれば之に順い、正保〜慶安 (1643〜1651年) 頃まで、年々に軽き貧家の妻 ・娘、
 武家へ奉公に出る。次第々々に立身し、上つがたの御服をも拝領して、我が家に帰り、嫁するも右の拝領物
 を着し、物見遊山祝儀にも一つ二つある物を着したり。故に世上の女子目を奢らせ、有徳家の妻子等は、
 手前金にて拝領物の如くこしらへ着し、古の麁相を忘れたり。然れども数多くはなし。
 良き所なれども下女は夏冬とも木綿の晴着なり。 中略 寛文年中 (1661〜1679年) より、
 男女の衣服そろそろ奢る。 中略 寛文年中に至っては、
 総鹿の子の小袖着す。
 地は白で綸子、或いは、紺 ・緋 ・紫の 結鹿の子を総地にせり。
 小舟町一丁目 石川六兵衛 妻、甚だ奢りたり。
 此の女 常に紗綾 ・縮緬 ・綸子の類を着し、
 晴れがましき所へは、緞子(どんす)(純子と記述)・綸子 ・金入等を着す。
 常憲院殿 (徳川綱吉) 上野へ始めて御成りの時、彼の 六兵衛 妻 御成を拝すに、黒門前に桟敷をかけさせ、
 幕をうたせ、左右に切禿両人、緋縮緬の大振り袖を着せ、真ん中に座す。
 御通行の時、御簾を巻かせて拝す。 中略 其の時の上意に、
 『是は何れの大名の奥方ぞや、あまり結構なり、あれ尋ねよ。』 との厳命にて、
 即ち町人の妻なる由 申し上る。
 是よりして 中略         石川夫婦 遠島を仰せつけ被る。」

* 麁相は侘びしく、質素な事。
* 有徳は得がある方ではなく、お金持ちの方です。
* 結 (ゆい) 鹿の子は紋綸子の絞り文様生地。
* 紗綾 (さや) は平織りの上に更に綾織りを施した光沢がある絹織物。
* 緞子は繻子織りで文様を織りだした絹織物。
* 切禿 (きりかむろ) は髪を切り下げて結んでいない、おかっぱ頭の子供。

庶民もやっとファッションの世界に登場できたのに、いきなり遠い島送りとは。
今時でしたら、「それじゃー、サーフィンしょう。」 何て遊べますが、この江戸時代はそうは問屋が・・・。

<慶長小袖、寛文小袖、奢侈禁止令>

少し、時代を遡ります。
1596〜1615年の慶長年間、秀吉の死から徳川政権移行時期。
安土 ・桃山時代、豪華絢爛と対局の侘び茶質素の名残時代。
アウター (表着 ・ロングジャケット、コート) になった 「小袖」 がファッションを引っ張ります。
そのデザインが 「慶長小袖」 と称されています。フォルム (形) が一定ですので、
デザイン差異は、生地 (布) の善し悪しと柄 (刺繍 ・プリント ・染め技術) の善し悪しです。
善し悪しは、あくまでも好みの問題がありますが、この時代は、その分量は未だ僅かです。
百聞は一見ですので 「京都工芸染匠協同組合」 様の文様の解説の頁に絵が有りますのでご覧下さい。
この時点では、未だ庶民の女性には届いていません。(一部、京都町衆らを除く。)

☆ 慶長小袖、お客様リストと思われる方。
   淀殿(君) (秀吉夫人)、 千姫 (豊臣秀頼夫人)、お江与 (徳川秀忠夫人)、春日局?。
   茶屋四郎次郎 ・角倉了以 ・後藤庄三郎 ・今井宗薫 ・末吉勘兵衛 ・角屋七郎次郎らの奥様、お嬢さん。

1615〜1624年、元和、秀忠 (1579〜1632) (在職 1605〜1623) 時代。
1620年 徳川和子 (まさこ 後の東福門院)、後水尾天皇 (在位 1611〜1629)(1596〜1680) に嫁ぐ。
1624年 寛永、家光 (1604〜1651) (在職 1623〜1651) 時代へ。
1627年 紫衣事件。 紫色のbPはずっと続いています。紫色のbPは 「高貴(あて)なる紫色」 を確認下さい。
1629年 明正天皇即位 (在位 1629〜1643)(1623〜1696)
1636年 キラビヤカな日光東照宮完成。
1642年 2月寛永飢饉のピーク。
      徳川幕府は、庶民の皆さんを規制します。ご自分達よりも素敵な衣装を付ける事を? (1628年にも。)
1643年 紫と紅梅染めの衣装の着用を禁じる。 紫根の 「本紫色」、紅花の 「紅梅色」。

1651年 4月家光が死去、家綱 (1641〜1680) (在職 1651〜1680) へ。
1657年 1月 「振り袖火事」 と云われる明暦の大火。

大江戸八百八町は焼け野原、死者は十万人を越えたとか?
今の人形町に有った旧吉原も浅草へ移動。現在 ZIPANGU は旧吉原大門通りに面した処がオフィスです。
お役人、町民、庶民の生活基盤が一瞬でなくなってしまいましたので、あらゆる生活物資の需要です。
京、大阪、難を免れた江戸の商人さん達は、おおわらはの稼ぎ時。
御用商人だった、奈良屋茂左衛門らは、濡れ手に粟。
彼らの、奥様、お嬢さん達が、勢いファッション業界に躍り出ました。
1661〜1673年の寛文年間、この時期の流行が 「寛文小袖」 です。「京都工芸染匠協同組合」 で。

1666年 7月小袖デザイン柄サンプル帳の頒布。「新撰御ひいなかた」 と云う雛形本。
      サンプルは200柄。その内、ヤングが180柄、ミセスが20柄だったとの事。 やはり ヤング?

1673年 8月三井越後屋、「現金掛け値無し」 で日本橋店 open。(現在の三越さんの場所ではありません。)
1673年 市川団十郎 (1660〜1704) が荒事歌舞伎でデビュー。
1678年 東福門院死去

1680年 5月家綱が死去、綱吉 (1646〜1709) (在職 1680〜1709) へ。 この年、関東 ・五畿内は大飢饉
1682年 「好色一代男」 井原西鶴。  12月八百屋お七火事
1683年 1月天和の禁令 (美服禁止令=奢多禁止令)。
1684年 10月渋川春海 (1639〜1715) (天文方) として、貞享歴を作成、翌年実施。

天和の禁令 (美服禁止令)
「金紗縫 ・総鹿の子、今後、女性はこの衣類の着用を禁じる。製出 (製造) ・売買 も禁じる。
 小袖表一反 (端) の値は二百匁 (200目) 以上の売買を禁じる。」

石川六兵衛ご夫妻の遠島事件は、この奢侈禁止令の前の出来事 (1681年) になります。
美服禁止令が出されましたが、2〜3年後には、禁止令以前より豪華な衣装を皆さん着用されていたそうです。
禁止令と庶民の飽くなき追求するお洒落合戦は、この後もずーっと続きます。

1663年 ハイソ ( high−society ) の方々へ美服禁止令が発せられています。
  女院御所 (東福門院)、姫君方 (東福門院のお嬢さん) は、小袖(表着=アウター) 白銀500目まで。
  御台様 (徳川将軍の奥様) は、小袖(表着=アウター) 白銀400目まで。
  御本丸女中 (江戸城お勤め女性) は、小袖(表着=アウター) 白銀300目まで。
  このお達しは、あくまでも女性への禁令ではなく呉服商への禁止令と云う形を取っています。 姑息?

*貨幣は信用で成り立つ交換価値媒体物。
  又、生活基盤の違いにより単純にこの江戸時代のドレス (小袖) のお値段を類推できませんが、
  1609年制定の公定相場が、金1両=銀50匁=銭4貫文(4,000文)になっています。(1700年には改定)
  庶民のドレス (小袖) のお値段の上限が200目 (匁) で東福門院さんらの上限が500目 (匁) 。
  ドレス (小袖) 一着、金換算で4両と10両の違い。 たった2.5倍の違いしかありません。
  今の世は、カード綿のポロシャツ 980円 シーアイランド綿で 98000円 何と100倍の違い ???。
  目を白黒し、ビックリする様な 「差異」 でも無いと思うのですが ?????。

<東福門院 (徳川和子) と雁金屋>

又、少し、時代を遡ります。上記はお江戸の展開でしたが、ここでは京都編。
1620年に徳川和子 (後の東福門院) (1607〜1678) さんが、後水尾天皇の奥様になります。
彼女は2代将軍秀忠 (在職 1605〜1623)(1579〜1632) と浅井長政、お市の三女、お江与さんのお嬢さん。
江戸時代を作った家康の公武融合策の役割を担い、彼女は、新興都市江戸から京の都で生活する事に。

雁金屋は、尾形道柏が染物屋さんをやっておられ、道柏の奥様は、本阿弥光悦のお姉さんと云われています。
1615年に本阿弥光悦が家康から鷹ヶ峯の土地 (洛北、左大文字より北) を頂いており、
道柏もそちらに引っ越しされた様です。染物屋さんから、やがて、製造直販売業に転身し、呉服商雁金屋に。
道柏の息子さんが宗柏で、彼の時代に徳川和子さんがお客様になられました。皇室 (東福門院) 御用達。
彼女が大のお得意様になったお陰で、雁金屋は一躍、京都のと云うより日本のbPブティックに。
宗柏の後を継いだのが、宗謙 (1621〜1687) 、彼が尾形光琳 ・乾山の父親です。
徳川和子 (東福門院) さんが、公家女性の衣装、十二単の世界に小袖を導入しました。

*尾形光琳の息子さんは、父がアーチストでしたので、彼にはその職業が好みでなかったか?
  小西家の養子になります。彼が雁金屋の註文伝票 (大福帳) 等を小西家へ持参したらしく、それらが
  「小西家資料」 として現存しています。その中には、尾形道柏の時代には既に雁金屋と云うshopで、
  道柏は浅井長政と縁 (ゆかり) があり、お客様には、
  長政とお市さんのお嬢さん、淀君、お(於)初、お(於)江与さん。その関係で、
  豊臣秀吉 (秀頼)、京極高次、徳川家康 (秀忠)がお得意様。 その事で、高級呉服商雁金屋に。
  何と言っても一番のお客様は淀君と徳川秀忠の奥様のお(於)江与さん。
  お(於)江与さんのお薦めでお嬢さんの和子さんも大お得意様になる事に。

*小西家資料には、三巻の 「雁金屋衣装図案帳」 が確認されていて、1661年、1663年版(一巻年代不明)の
デザイン画 (500柄程) が有るそうです。 (大阪市立美術館蔵)

和子さんのお財布は徳川幕府ですから 「お金」 の心配は全く不必要です。
(但し、雁金屋は茶屋四郎次郎 ・後藤庄三郎らと違い政治的には幕府との繋がりは薄かった感じです。)
他人の財布を詮索するのは何ですが、和子さんのサラリーは10万石。因みに皇室領 (御領) は1万石。
中大名と極小大名位の差。後、徳川綱吉と東山天皇の時代 (とき) に皇室領は3万石になっています。
後水尾上皇の指示で造営された 「修学院離宮」 の造作費用も和子さんがかなり負担されたとの事。

小袖の生地についてですが、秀吉が天下を統一する前まで、極上品は「明(中国)からの輸入物」でした。
秀吉の統治時代に明の織り職人さんから錦 ・金襴 ・繻子 ・縮緬などの高度な技術を伝授され、
和泉国、堺で、織物業が盛んになっていました。西陣地区がメジャーになるのは1680年以降になります。
従いまして、二代目茶屋四郎次郎らのインポーター(輸入業者)の生地に対抗して、

日本ファッション業界 と 国内織物産業発展に寄与されたのは、
浅井長政とお市さんとの間にお生まれになった3人のお嬢さん及び徳川和子 (東福門院) さんだった事に。

<尾形光琳 ・中村内蔵助 ・二条綱平と東山衣装競べ(比べ)>燕子花

尾形光琳 (1658〜1716) 秋草文様小袖 (冬木小袖) 光琳模様として大流行 遊び人の金さん素敵です。
中村内蔵助 (1669〜1730) 京都の銀座年寄 (銀貨鋳造所) の官僚 肖像画 (光琳作)(文化遺産オンライン)
二条綱平 (1672〜1732) 関白職(1722〜1726) 母は賀子内親王(後水尾天皇と和子さんとのお嬢さん)

尾形光琳は次男坊で、弟は5歳下で、陶芸などで有名な尾形乾山 (1663〜1743) です。
雁金屋は超一流ブティックになっていましたので、両親は、光琳らに小さい頃から素養を磨かせました。
この時代 (とき) は、書道、絵画、能楽、茶道などを修めるのが習わしみたいです。(算盤は?)
要は 「おぼっちゃま」 育ちです。光琳は親に反逆せず、素直? に勉学に勤しんだ感じです。
故に、知り合いも、その筋の方々になる訳です。
雁金屋にとっては大のお得意さんの東福門院。彼女のお嬢さん、賀子内親王 (1632〜1696) が
摂関家の九条兼晴 (1641〜1677) に嫁いでいました関係からか、光琳はそちらにちょくちょく出入りの感じです。
落ちぶれたとは云え摂関家ですから、その空間での継承された文化の匂いを読み取れたかも知れません。
(この頃の摂関家の所得は旗本なみの3000〜9000石位でした。帝が10000石ですから・・・。)
そのような素敵な時空間で過ごしていた光琳ですが、1678年に東福門院さんがお亡くなりになります。
雁金屋にとっては一大事。物作りの方に比重をおいたお店だったらしく売上の殆どを彼女に依存していた感じ。
宗謙は商売経営感覚よりも文化職人さん感覚がお強かったみたいです。
それでも今迄の資本蓄積が有りますので、父の宗謙は 「大名貸し」 等により生計を維持します。

*大名貸しとは、この江戸時代、各々の藩の蔵米を担保にお金を貸す事。金融業。

初期はなんとか回っていたのですが、やがて 「貸し倒れ (回収不能)」 になる羽目に。
雁金屋の経営はとても悪化します。やがて、1687年に宗謙は他界します。
この時、光琳30歳。雁金屋は長男が継ぎ、残された皆さんはそれぞれ父の遺産を相続します。
雁金屋としての商売は少々具合が悪くても長年に渡る経営蓄積の不動産が多く有りましたので、
皆さんそれ程困る状態には陥りませんでした。
光琳はどちらかと云うと根が明るく楽天家、或いは、ボンボンの遊蕩家だったみたいで遺産を消費します。
消費のみですと時間が経過すればやがて無くなるのは世の常。彼は、未だかって経験した事のない状況に。
やがて、絵を描く事により何とかする事に。ここで役に立ったのが遊び友達、九条兼晴の息子の二条綱平。
九条兼晴の父は鷹司教平 (1609〜1668) で母は梅宮 ・文智女王 (1619〜1697) さん。
彼女の父は後水尾天皇で母は四辻与津子さん。徳川和子さん入内の前にできたお子さんです。
梅宮 ・文智女王さんの件で、徳川秀忠はえらく立腹し、一時は後水尾天皇と和子さんとの婚儀は破談寸前に。
しかし、この様な状況にも関わらず、
東福門院さんがお亡くなりになるのを見取られたのが梅宮 ・文智女王さん。
女性の心は何かとムズイ? お二人は、とても仲が良かったそうです。 昨日の敵、今日の友???
それはさて置き、肩書き社会の、この日本、絵を志した光琳は二条綱平らの尽力で 「法橋」 を頂きます。
父が九条で彼が二条なのは次男坊で、お子さんのいなかった二条光平 (1624〜1682) の養子になったから。

*法橋とは、元々は僧位で法印→法眼→法橋の順で第三番目の位です。
        中世 ・近世になり僧侶に準じて仏師 ・絵師 ・連歌師などに与えられた位称号です。

才能と肩書きが備われば鬼に金棒。落款 (ブランド) は 「法橋光琳」 に(1701年)。
とは云うものの根っからの遊び人の光琳、生活はとっても苦しかった様です?
そんな折り、中村内蔵助と接近遭遇。彼は、1699年京都銀座年寄になります。
1695年のインフレ政策、
勘定吟味役荻原重秀の発案で金銀貨幣の改鋳を行い、金座 ・銀座のお役人は莫大な利益を得ました。
ご多分に漏れず、中村内蔵助もその恩恵を。羽振りが良ければ遊びは付きもの。
どちらかの空間で光琳と中村内蔵助は鉢合わせ。馬が合い、中村内蔵助は光琳のスポンサーに。
光琳が内蔵助の肖像画を描いた年は1704年と云われています。
この年に江戸に赴任になった内蔵助を頼り、光琳も江戸に。 (両者単身赴任?)
たぶん内蔵助の斡旋で姫路藩主酒井家、津軽家等の大名及び豪商三井家、冬木家(深川木場の材木商)らに
知己を得、彼らの要望により絵などを制作していたと思われます。
その際に冬木家から依頼されたのが 「冬木小袖 (秋草文様小袖)」 になります。(東京国立博物館蔵)

東山衣装競べ (比べ)

ここで、いよいよファッションショーのお話しです。

「翁草」  神沢貞幹(杜口) (1710〜1795) (京都町奉行与力) 1772〜1791年成立  (概略口語、現代風で)

「内蔵助が羽振りの良い時、画師の光琳は内蔵助邸にちょくちょく遊びにお邪魔していました。
 ある時、内蔵助が
 『近々、東山でご婦人方の会合があり、私の妻も出席する予定なんじゃが、皆さん着飾って来る感じで、
 何とか内のカミさんを目立たせたいと思っておるので、良きアドバイスなんぞないかしらん。』
 と光琳に尋ねました。光琳は暫し考え、内蔵助に伝授します。
 やがてパーティ当日、皆さん、東山へお供(侍女)共々数多くの衣装をお持ちになり、お車で駆けつけます。
 それはそれは、皆さん色取り取りのゴージャスなカラーフォーマル (綾羅錦繍) をお召しになりお集まりです。
 大概の方々は到着され、お席にそれぞれおつきになっていますが、内蔵助夫人は未だお見えでありません。
 『内蔵助さんの奥様はどうなさったのかしら。』 と皆さん、訝っている時に、しずしずとお目見え。
 さて、彼女のファッションは、最高級素材で黒のシンプルなドレス、襟元からは真っ白い絹のインナーウェアー。
  (黒羽二重の両面に、下には雲の如くなる白無垢を、幾重も重ね着し。)
  (元来羽二重と云う物、和國の絹の最上にて、貴人高位の御召此の上なし。)
 回りの皆さんは思ってもいなかった出で立ちですので、思わずお口あんぐり。
 やがて、お時間が過ぎ、恒例のお衣装替え。ファッションショーです。
 皆さん、更に豪華絢爛なカラードレスにお着替えです。
 一方、内蔵助の奥さんはと云うと、お着替えになるのですが、同デザインの白のインナーに黒のドレス。
 ただ皆さんと違う点は、お供の女性のドレスが、お集まりになっている奥様方よりも素敵なドレス。
 皆さんのお付きの女性は、それなりの衣装、侍女風ドレス。
 何度もの衣装替えに於いても、内蔵助の奥さんはそのスタイルを崩しませんでした。
 これが、光琳のファッションステイリストとしてのアドバイスだったのです。
 衣装比べ (競べ) の結果は、火を見るよりも明らか。このスタイルには皆さん歯が立ちませんでした。
 内蔵助の奥さんは、皆様方に圧倒的な差をお付けになりました。
 やがて、この噂が、京都中に広がり、光琳は絶賛される事に。」      ( )内は、原文です。

この東山衣装競べ (比べ)の期日は確定できていません。
光琳のお江戸暮らしは5年程と云う事ですので、1709年〜1716年の間。
又、徳川綱吉 (在職 1680〜1709)(1646〜1709) の後を受けて徳川家宣 (在職 1709〜1712)(1662〜1712) 、
   徳川家継 (在職 1713〜1716)(1709〜1716) となった時代 (とき)。
側用人 間部 詮房 (1666〜1720) 、朱子学者 新井白石 (1657〜1725) らの正徳の治政の7年間。
彼らの政治により、1712年に勘定奉行 荻原重秀が罷免されていますので、やがて、中村内蔵助も。
従いまして、1704年以前は考えにくく、東山衣装競べは、1709〜1712年の間の出来事と考えています。
又、東山のパーティ会場は、慈円山安養寺の塔頭 (たっちゅう) の六庵の一つ重阿弥との事。
現在の京都円山公園の中にあったそうです。
更に重阿弥は、1702年赤穂浪士が吉良上野介邸討入事件の密談 「円山会議」 をした会場だったとの事。

何か秘密倶楽部風スポットと云う感がありますが、それはさておき、
尾形光琳のアートディレクターぶりはお見 (美) 事とお思いになりませんか?
カラーフォーマル同士なら、素材、柄、色、等の戦い。
それを見越し、読み切った光琳は、
襟元、裾から白のインナーを覗ける黒のシンプルなドレスを内蔵助の奥様に着せ、
彼女を取り巻くお付きのスタッフには、他の奥様方のカラーフォーマルドレス以上のものを着せ、
有彩色の大きなキャンバスに、無彩色の中央配置構図と云う 「絵」。
やはり、尾形光琳は日本を代表するアーティストのお一人です。
俵屋宗達の風神雷神図屏風を意識して制作されたと云う著名な光琳の 「紅白梅図屏風」、
この時代の制作で、弘前藩津軽家が所蔵されていたそうですが、今は、熱海の某美術館にあるとの事です。

雁金屋と東福門院さんとの情報は、小西家資料に依る所が大なのですが、
これは、光琳の息子さんのお陰です。彼は中村内蔵助の口利きで、京都銀座平座役の小西氏の養子に。
そしてちょいと不可解なのですが、後に、光琳の息子さんに何と内蔵助のお嬢さんが嫁ぐのです。
ここの真相は、遊び人の金さん達、尾形光琳 ・中村内蔵助 ・二条綱平にお聞きしてみないと・・・・・。

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