1868年 1月 3日、
未だお正月の最中 (さなか) 鳥羽 ・伏見の戦い (内部闘争込み) を皮切りに日本国内は戦闘状態に。
時を置かず、新政府は、欧米列強の各国に 「王政復古」 の通達する。
3月 「五ヵ(箇)条の(御)誓文と五榜の掲示」 4月 江戸城、無血開城 7月 「江戸」 から 「東京 」に。
9月 「明治」 と改元 これより明治時代へ。
同月 奥羽列藩同盟の最後の砦、会津藩 ・鶴岡藩が白旗。10月 「江戸城」 から 「皇居」 に。
と目まぐるしい、激動の1年が明け暮れました。
ここで、五ヵ(箇)条の(御)誓文と五榜の掲示を見てみます。 |
五ヵ(箇)条の(御)誓文
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一 広く会議を興シ、万機 (ばんき)<よろずのまつりごと>公論に決すべし。
一 上下 (しょうか)<為政者と民>心を一にして、盛に経綸 (けいりん)<国を治め整える事>を行ふべし。
一 官武一途庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦 (う) まざらしめん<嫌にならない>事を要す。
一 旧来の陋習 (ろうしゅう)<悪い習慣>を破り、天地の公道に基くべし。
一 智識を世界に求め大に皇基<天皇が国家を治める事の礎 (いしずえ)>を振起すべし。 |
我国、未曾有 (みぞう) の変革を為んとし、朕<天皇>、躬(身)を以て衆に先んじ、
天地神明<天地の神々>に誓ひ、大に斯 (かく?) 国是<国の方針>を定め、万民保全の道を立んとす。
衆、亦 (また)、此 (この)旨、趣に基き協心努力せよ。 |
起草者は、由利公正 (1829〜1909) 越前福井藩士 福岡孝弟(たかちか) (1835〜1919) 土佐藩士ら。 |
五榜の掲示
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こちらは、高札 (掲示板) で庶民の皆様に対して、禁止事項のお知らせです。 |
一 一 人たるもの五倫 (ごりん) の道を正しくすべき事。
一 鰥寡 (かんか) 孤独、廃疾 (はいしつ) のものを憫 (あわれ) むべき事。
一 人を殺し、家を焼き、財を盗む等の悪業あるまじく事。
二何事によらず、宜しからざる事に、大勢、申合候 (もうしあわせそうろう) を徒党と唱へ、
徒党して強いて願がひ事企だつるを強訴と言ひ、
或は、申合せ居町居村を立退き候を逃散 (ちょうさん) と申す。 堅く御法度<禁止>たり。
若 (もし) 右類の儀、これあらば早々其筋の役所へ申出べし。 御褒美下さるべく事。
三 一 切支丹宗門<キリスト教>の儀は、
是迄、御禁制<禁止>の通り、固く可相守事 (あいまもるべきこと)。
一 邪宗門<人心を惑わす変な宗教?>の儀は、固く禁止の事。 |
四外国人への加害の禁止。<攘夷打ちは以ての外、南蛮人にはお優しく。>
五郷村脱走 (浮浪) の禁止。<脱郷 ・村の年貢逃れは許さず、ヘンな叔父・伯母さん変身はだめ。> |
*五倫は、[孟子縢文公上] 儒教で、人として守るべき五つの道。すなわち、
1 君臣の義 2 父子の親 3 夫婦の別 4 長幼の序 5 朋友の信 をいう。(広辞苑)
*鰥寡孤独は、妻を失った男 ・夫を失った女 ・孤児 (みなしご)・子無し老人。寄る辺無き人。
*廃疾は、お体の塩梅が悪い方。律令制基準で、重い順から 篤疾 → 廃疾 → 残疾 との事。 |
☆ 「五ヵ(箇)条の(御)誓文」 と云う政治向きの事は置いておきます。
五榜の掲示は、規制されるわたくし達に関わりますので、ちょいと展開したいと思います。
「禁止」 されると云う事は、世の中、その時点まで、まかり通っていた事になります。
「君臣の義」 「父子の親」 「夫婦の別」 「長幼の序」 「朋友の信」 と云われても、
恥ずかしながら、今現在を取ってしても、明治維新時期と何ら変化を来していないのではないでしょうか?
毎日の様に繰り広げられている事実は、テレビボタンスイッチでいとも簡単に確認可能です。
人を殺 (あや) める、ご自分の家 ・人様の家 ・物には火を付ける、人様の大切な物を掠 (かす) め取る、
これらは、日常茶飯事の出来事ではありませんか。
確か 「NEWS」 は 「犬・猫が人をかじっても news になりませんが、逆バージョンですと NEWS に」 ・・・。
さすがに、結社 ・団交の自由は法で認められてはいますが、
為政者により、「個」 に分断されてしまい、「お隣は何する人ぞ。」 との今日この頃ではございませんか。
又、五榜は明治新政府による新規の禁止事項ではなく、江戸幕府に於いて発令された事の蒸し返しです。
更に語句を探れば、あおによし奈良時代に、既に織り込み済みなっていた現象にも思えます。
悲しいかな、1300年間に渡っても、「守る事ができ得ない。」 事案なのでございます。
但し、ちまちま 「筋」 を通しておられる方々がいらっしゃると 「信じて」 ここ迄に。
八百万 (やおよろず) の神々の信奉者ですが、キリスト教徒に従いまして、
「信じる者のみ、救われる」 との事になっているみたいですので・・・・・。???
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<明治時代の宮中 (宮城) = 皇居での衣装変革> |
・大礼服 ・大儀服の新定 |
「掛けまくも畏き明治天皇御代の始は、時恰(あたか)も王政復古の大号令を渙発(かんぱつ)せられ、
百事神武天皇のご創業に則り、旧弊を一新すべしとの御旨意にて、御即位の大典にも、
上古以来の唐風<唐文化を時間を経て日本文化風に変化させた感じ>の流例を改め給ひぬ。」
(重修 装束図解服制通史 関根正直著) |
1868年 (M1) 8月23日 太政官よりの発布
この度、御即位の大礼その式、古礼に基づき大旌(旗)始め製作を改める。 中略
中古より用いていた礼服を止め被り候事。 |
袞冕 (こんべん)、冕冠 (べんかん)、御玉珮 (おんぎょくおび) 等を廃止し、
天皇は、黄櫨染の御袍 (うえのきぬ) と立纓 (えい) の御冠。 (宮内庁ホーム頁)
親王以下公卿は、本位の色袍の束帯 (四位以上は黒色の束帯、五位は緋色の束帯)。
旧大名諸侯の従四位 ・少将 ・侍従格以上も同じく束帯。
それ以下、諸大夫 ・旧武家陪臣は、烏帽子 ・狩衣、或いは、直垂。 |
この事により、明治時代に奈良朝時代以降の礼服制は変革され、束帯の制服を以て 「礼服」 になりました。 |
1872年 (M5) 11月12日 太政官よりの発布 第339号
今般、勅奏判官員、及び、非役有位大礼服、及び、上下一般通常の礼服は、
別冊の服章図式の通り相定め被る。 (残念ながら、この服のサンプル画は見た事がありません。)
従前の衣冠を以て祭服と為し直垂 ・狩衣 ・上下 (裃) 等は総て廃止出で被り候事。 |
☆ 尚、「束帯」 と 「衣冠」 の違いは、「束帯と衣冠」 をご確認下さい。 |
この時点で、大礼服 ・通常礼服は 「洋装」 になりました。
多分、モーニングコート (燕尾服) (宮内庁ホーム頁) であろうと思いますが・・・。 |
しかしながら、天皇の 「即位の礼、及び、大嘗祭の式」 につきましては、
1909年 (M42) 登極令、並びに同付式の発布
「御即位、当日、賢所大前の儀」 のお召し物は、「帛 (無染色の絹布) の御袍」。
「紫宸殿の儀」 では、「黄櫨染の御袍」。と定められました。
尚、黄櫨染 (こうろぜん) の色は 「位階と服色」 でご確認下さい。
又、即位の礼で、帛の御袍は嵯峨天皇 (786〜842) が最初、黄櫨染の御袍は明治天皇が原初との事です。
そして、天皇以外の回りの皆様は、束帯 ・衣冠の着用でしたので、これらを 「儀服」 と称したそうです。 |
☆ 古来より流れ続ける伝統文化を温存し、新規を取り入れる絶妙のバランス感覚には、畏れ入ります。
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