明治時代の衣装と感性 其の壱 Maccafushigi

明治維新(革命?)により、新政府が樹立し、富国強兵、殖産興業、追いつけ西洋文化と直走った明治時代の服と時空間

< 明治維新 >

1868年 1月 3日、
未だお正月の最中 (さなか) 鳥羽 ・伏見の戦い (内部闘争込み) を皮切りに日本国内は戦闘状態に。
時を置かず、新政府は、欧米列強の各国に 「王政復古」 の通達する。
3月 「五ヵ(箇)条の(御)誓文と五榜の掲示」 4月 江戸城、無血開城 7月 「江戸」 から 「東京 」に。
9月 「明治」 と改元 これより明治時代へ。
同月 奥羽列藩同盟の最後の砦、会津藩 ・鶴岡藩が白旗。10月 「江戸城」 から 「皇居」 に。
と目まぐるしい、激動の1年が明け暮れました。
ここで、五ヵ(箇)条の(御)誓文と五榜の掲示を見てみます。


 五ヵ(箇)条の(御)誓文

一 広く会議を興シ、万機 (ばんき)<よろずのまつりごと>公論に決すべし。
一 上下 (しょうか)<為政者と民>心を一にして、盛に経綸 (けいりん)<国を治め整える事>を行ふべし。
一 官武一途庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦 (う) まざらしめん<嫌にならない>事を要す。
一 旧来の陋習 (ろうしゅう)<悪い習慣>を破り、天地の公道に基くべし。
一 智識を世界に求め大に皇基<天皇が国家を治める事の礎 (いしずえ)>を振起すべし。

我国、未曾有 (みぞう) の変革を為んとし、朕<天皇>、躬(身)を以て衆に先んじ、
天地神明<天地の神々>に誓ひ、大に斯 (かく?) 国是<国の方針>を定め、万民保全の道を立んとす。
衆、亦 (また)、此 (この)旨、趣に基き協心努力せよ。

起草者は、由利公正 (1829〜1909) 越前福井藩士  福岡孝弟(たかちか) (1835〜1919) 土佐藩士ら。


 五榜の掲示

こちらは、高札 (掲示板) で庶民の皆様に対して、禁止事項のお知らせです。

一 一 人たるもの五倫 (ごりん) の道を正しくすべき事。
一 鰥寡 (かんか) 孤独、廃疾 (はいしつ) のものを憫 (あわれ) むべき事。
一 人を殺し、家を焼き、財を盗む等の悪業あるまじく事。
何事によらず、宜しからざる事に、大勢、申合候 (もうしあわせそうろう) を徒党と唱へ、
徒党して強いて願がひ事企だつるを強訴と言ひ、
或は、申合せ居町居村を立退き候を逃散 (ちょうさん) と申す。 堅く御法度<禁止>たり。
若 (もし) 右類の儀、これあらば早々其筋の役所へ申出べし。 御褒美下さるべく事。
三 一 切支丹宗門<キリスト教>の儀は、
是迄、御禁制<禁止>の通り、固く可相守事 (あいまもるべきこと)。
一 邪宗門<人心を惑わす変な宗教?>の儀は、固く禁止の事。

外国人への加害の禁止。<攘夷打ちは以ての外、南蛮人にはお優しく。>
郷村脱走 (浮浪) の禁止。<脱郷 ・村の年貢逃れは許さず、ヘンな叔父・伯母さん変身はだめ。>

*五倫は、[孟子縢文公上]  儒教で、人として守るべき五つの道。すなわち、
  1 君臣の義 2 父子の親 3 夫婦の別 4 長幼の序 5 朋友の信 をいう。(広辞苑)
*鰥寡孤独は、妻を失った男 ・夫を失った女 ・孤児 (みなしご)・子無し老人。寄る辺無き人。
*廃疾は、お体の塩梅が悪い方。律令制基準で、重い順から 篤疾 → 廃疾 → 残疾 との事。

☆ 「五ヵ(箇)条の(御)誓文」 と云う政治向きの事は置いておきます。
  五榜の掲示は、規制されるわたくし達に関わりますので、ちょいと展開したいと思います。
  「禁止」 されると云う事は、世の中、その時点まで、まかり通っていた事になります。
  「君臣の義」 「父子の親」 「夫婦の別」 「長幼の序」 「朋友の信」 と云われても、
  恥ずかしながら、今現在を取ってしても、明治維新時期と何ら変化を来していないのではないでしょうか?
  毎日の様に繰り広げられている事実は、テレビボタンスイッチでいとも簡単に確認可能です。
  人を殺 (あや) める、ご自分の家 ・人様の家 ・物には火を付ける、人様の大切な物を掠 (かす) め取る、
  これらは、日常茶飯事の出来事ではありませんか。
  確か 「NEWS」 は 「犬・猫が人をかじっても news になりませんが、逆バージョンですと NEWS に」 ・・・。
  さすがに、結社 ・団交の自由は法で認められてはいますが、
  為政者により、「個」 に分断されてしまい、「お隣は何する人ぞ。」 との今日この頃ではございませんか。
  又、五榜は明治新政府による新規の禁止事項ではなく、江戸幕府に於いて発令された事の蒸し返しです。
  更に語句を探れば、あおによし奈良時代に、既に織り込み済みなっていた現象にも思えます。
  悲しいかな、1300年間に渡っても、「守る事ができ得ない。」 事案なのでございます。
  但し、ちまちま 「筋」 を通しておられる方々がいらっしゃると 「信じて」 ここ迄に。
  八百万 (やおよろず) の神々の信奉者ですが、キリスト教徒に従いまして、
  「信じる者のみ、救われる」 との事になっているみたいですので・・・・・。???

<明治天皇、自ら洋装、軍服に>

織田信長が立ち襟シャツブラウスとマントを羽織、彼自信のみ洋装化しましたが、この明治時代への過渡期、
薩長土肥連合軍隊はより動き易い洋装である 「軍服」 を着用し、戦闘行為に及びました。
この事例が、現代感覚の 「服」 を最初に着た多数の日本人であったと考えます。
この頃の明治時代の写真により、
薩摩 西郷隆盛 (1827〜1877) ・長州 大村益次郎 (1824〜1869) ・土佐 板垣退助 (1837〜1919) らは
「スタンドカラーの軍服」 を着用していたことが伺われます。
又、敗者側である、箱館五稜郭で最後の最後まで闘った新撰組の土方歳三 (1835〜1869) の軍服姿も。
軍隊の組織は、戊申戦争終結 (1869/5月) 後に、軍務官 ⇒ 兵部省になり、
1872年2月を以て、「陸軍省」 と「海軍省」 が設置されました。 そう云えば、2007/1月 「防衛省」 に。
やがて、明治天皇 (在位 1867〜1912) (1852〜1912) も
民に範を示す為、古来からの儀式以外は衣冠 ・束帯を脱ぎ去り、軍服 (日常服) にお着替えなさいました。

★ ここで、1872年12月 3日 ⇒ 1873年 (M6) 1月 1日。 この時点で太陽太陰暦 ⇒ 太陽暦に移行します。
  明治時代の初期、M5年は、約一か月少ない勘定になる様に考えがちですが、時間は連続していますので、
  「お時間」 の損も徳も何も生じません。訪日外交官はこの明治5年にはクリスマスが無かった事になります。
  強いて上げれば、忘年会の時期が短く、慌ただしかったかも知れません?

 軍服のデザインの採用先

陸軍省フランス式 ⇒ ドイツ式デザイン1906年 (M39) 正装、礼装、軍装、略装の4タイプに
海軍省イギリス式デザイン1906年 (M39) 正服、礼服、通常礼服、軍服の4タイプに
今現在でも中 ・高校女学生の 「セーラー服」 (sailor 服) はイギリス海軍の制服模倣で、デザイン活用です。
それとも、貴女は 「デザイナーズブランド制服」 ?
その貴女が着ているプリーツスカートは多分チェック柄、その柄の原初も殆どイギリス紋様ですよ。
又、陸軍省の制服デザイン変更は、1870〜71年、普 (プロシア) 仏戦争で、仏軍が敗戦国になったから?

<明治時代の宮中 (宮城) = 皇居での衣装変革>

・大礼服 ・大儀服の新定

「掛けまくも畏き明治天皇御代の始は、時恰(あたか)も王政復古の大号令を渙発(かんぱつ)せられ、
百事神武天皇のご創業に則り、旧弊を一新すべしとの御旨意にて、御即位の大典にも、
上古以来の唐風<唐文化を時間を経て日本文化風に変化させた感じ>の流例を改め給ひぬ。」
(重修 装束図解服制通史 関根正直著)

1868年 (M1) 8月23日 太政官よりの発布
この度、御即位の大礼その式、古礼に基づき大旌(旗)始め製作を改める。 中略 
中古より用いていた礼服を止め被り候事。
袞冕 (こんべん)、冕冠 (べんかん)、御玉珮 (おんぎょくおび) 等を廃止し、
天皇は、黄櫨染の御袍 (うえのきぬ) と立纓 (えい) の御冠。 (宮内庁ホーム頁)
親王以下公卿は、本位の色袍の束帯 (四位以上は黒色の束帯、五位は緋色の束帯)。
旧大名諸侯の従四位 ・少将 ・侍従格以上も同じく束帯。
それ以下、諸大夫 ・旧武家陪臣は、烏帽子 ・狩衣、或いは、直垂

この事により、明治時代に奈良朝時代以降の礼服制は変革され、束帯の制服を以て 「礼服」 になりました。

1872年 (M5) 11月12日 太政官よりの発布 第339号
今般、勅奏判官員、及び、非役有位大礼服、及び、上下一般通常の礼服は、
別冊の服章図式の通り相定め被る。 (残念ながら、この服のサンプル画は見た事がありません。)
従前の衣冠を以て祭服と為し直垂 ・狩衣 ・上下 (裃) 等は総て廃止出で被り候事。

☆ 尚、「束帯」 と 「衣冠」 の違いは、「束帯と衣冠」 をご確認下さい。

この時点で、大礼服 ・通常礼服は 「洋装」 になりました。
多分、モーニングコート (燕尾服) (宮内庁ホーム頁) であろうと思いますが・・・。

しかしながら、天皇の 「即位の礼、及び、大嘗祭の式」 につきましては、
1909年 (M42) 登極令、並びに同付式の発布
「御即位、当日、賢所大前の儀」 のお召し物は、「帛 (無染色の絹布) の御袍」。
「紫宸殿の儀」 では、「黄櫨染の御袍」。と定められました。
尚、黄櫨染 (こうろぜん) の色は 「位階と服色」 でご確認下さい。
又、即位の礼で、帛の御袍は嵯峨天皇 (786〜842) が最初、黄櫨染の御袍は明治天皇が原初との事です。
そして、天皇以外の回りの皆様は、束帯 ・衣冠の着用でしたので、これらを 「儀服」 と称したそうです。

☆ 古来より流れ続ける伝統文化を温存し、新規を取り入れる絶妙のバランス感覚には、畏れ入ります。

<明治時代の官僚 = お役人の通常礼服と通常服>

一方、官僚 = お役人達のファッションはどの時点で変貌を遂げたかと云いますと、
1886年 (M19) 9月 太政官よりの発布
官吏、通常礼服着用の場合は、黒、もしくは、紺色の上着を以て換用するを得べし。
但し、判任以下は各庁長官の見込みにより羽織袴を以て代用するも苦しからざる候事。

通常礼服は基本的にモーニングコート (燕尾服) になりますが、高等官は代用として (フロックコート) 可。
又、判任官以下はモーニングコート (燕尾服) の代用として羽織袴が可。       こんな感じ風です。

*モーニングコート (morning coat) とは、前身頃がシングル、1釦で膝丈位の上衣です。
  同生地のベスト (vest) 着用の事。通常、縞 (ストライプ) のトラウザーズ (trousers) とセットで着用します。
*フロックコート (frock coat) とは、前身頃がダブル、2〜3釦 (実際見えるのは4〜6個の釦)、
  膝丈位の上衣です。、モーニングと同じく、縞 (ストライプ) のズボン(仏 jupon) とセットで着用します。
*高等官と判任官とは、官僚 = 国家公務員 ヒエラルキー(独 Hierarchie) の階層名です。
  偉いさん順は、高等官 (親任官 → 勅任官 → 奏任官) → 判任官 となっていたそうです。

女性の礼服 ・通常礼服 ・通常服>

それでは、女性の方々の衣装 (服 )は、この明治時代、一体どの様に推移をしたのでしょうか。
男性官僚は1872年 (M6) 11月12日を以て、礼服は「洋装」 になりました。女性の皆さんは遅れます。
1880年 (M13) 12月 公達により
来たる、十四年 (1881年) 以後勅任官の夫 (婦) 人、新年朝拝、仰ぎ出で被るに付き服飾別紙の通り。

礼服 ・通常礼服
 褂 (うちかけ)(地は織物、色は黒のみ、地文様は勝手。16歳未満は長袖。)
 切袴(地は精好塩P、或いは、生絹、色は緋。16歳未満は濃きを用いる。)
 小袖(地は綾か羽二重、色は白。16歳未満は長袖。)
 髻 (もとどり)(垂髪 (ときさげ) 、白紙で中程を結う。16歳未満は紅薄様を用いる)
 扇( 中啓。 )
 履( 勝手。 )

 *塩Pは不明、産地か? 精好 (せいごう) は袴用の精緻な生地。
 *中啓は畳んでも半ば開いているように作った扇。

通常服 1884年 (M17) 発布
 褂 (うちかけ)(地は襦珍純子の類、夏は、紗。)
 切袴(地は適宜、色は緋。16歳未満は濃きを用いる。)
 小袖(地は羽二重、色は白、夏は晒布。)
 髻 (もとどり)(垂髪 (ときさげ) 、白紙で中程を結う。16歳未満は紅薄様を用いる)
 扇(ぼんぼり (中浮き扇)。)
 履( 適宜。 )

 *塩Pは不明、産地か? 精好 (せいごう) は袴用の精緻な生地。
 *中啓はたたんでも半分開いているように作った扇。
 *勝手は 「お勝手にして。」 っとの事、ご自由に。
 *襦珍純子は繻子織り文様並びに刺繍文様の着物。
 *適宜は 「適当に。」 でも、「色くらいは合わせてね。」 ってとこ。

未だ、この時点では、「お着物」 です。官僚の奥様方が着物ですので、宮中女官 (女性官僚) も着物です。
そして、時が下り、
1886年 (M19) 6月以後 漸く、宮中女官 (女性官僚) は、「洋装」 になりました。

<鹿鳴館 女性の夜会服 (イブニングドレス)

日本政府は、明治時代に入り、不平等条約の撤廃、及び、西洋文化に追いつけ政策として、
外交官社交場 (女性含む) を企図します。長州 井上馨 (1835〜1915) 外務卿を中心として拵えたのが、
「鹿鳴館」。 1883年 (M16) 7月落成、その落成記念パーティーが、1883年 (M16) 11月28日
ホストの男性は、ディナー‐コート (dinner coat)。
ホステスの女性は、イブニングドレス (evening dress) と着物。
と云う事で、
女性の 「洋装」 デビューは 「夜」 からスタートした事に。 はやり、「夢は夜開く」 かしらん?

このパーティーに敢 (あ) えて、「お着物」 で出席された女性の 「気迫」 と 「心意気」 には頭が下がります。

*ディナー‐コートはイギリス (的) 表現です。アメリカ (的) ではタキシード (tuxedo) になります。
  但し、タキシードは19世紀末、ニューヨーク、オレンジ、タキシード公園近くのクラブ (club ・倶楽部) 会員
  さんの制服から命名されたものです。彼らの出で立ち (ファッション) は、色は黒、
  ジャケットの襟はショールカラー (又は、ピークドカラー(剣襟)) ウエストポイントまで拝絹で覆い、
  胸ポケットは箱ポケ、腰ポケは雨蓋無し玉縁、ベストは同素材ドレスベスト、ズボン(仏 jupon) も同素材で
  外側には左右シルクサテンの側章 (一本線)、タイは黒蝶結び、シャツは白で胸ピンタックドレスシャツ、
  靴下は絹100%の黒色、靴は黒のエナメル、帽子はオペラハット等々、細かいディテールが夥しいです。
  果たして、井上馨 ・長州 伊藤博文 (1841〜1909) らは、ここまで迫ったのでしょうか???
  (タキシードディテールの表現は専門的になりますので、ここでは無視なさって下さい。その内纏めて・・・。)
  現在のタキシードはベスト着用を止め、
  代わりにカマーバンド (cummerbund) にしています。 確かそうですよね、夜の黒服のお兄さん。

<背広 (フロックコートの普段着風) の登場>

今現在も、大概、お父さん達のお仕事場での制服 (戦闘服) は、「背広」 というジャケットです。
この明治時代に導入された背広の語源は、諸々あります。

 1 モーニング・フロックコートよりも後身頃の背巾が大きくゆたっりしていた。
 2 生地の使用分量が前身頃より後身頃(背中側)の方が多く見える。(実際は前身頃が多くなります。)
 3 背広を在日外交官がシビルコート (civil coat = 市民服) と称して着ていた。
 4 イギリス、ロンドンの著名な紳士服専門店街 (Savile Row) を拝借した。

何れにせよ、膝丈フロックコートのおしり部分より下をカットし、動き易く、現代風ですと、スポーティーにした
ジャケットです。外見、前身頃生地分量が少なく見えたと云う事ですので、シングル仕立てだったと思います。
この 「背広」 は、来日していた外交官が着用してラウンジスーツ (lounge suit = 普段着) と思われます。
賊軍にされてしまった旧幕府軍が1869年箱館戦争 (M2) に敗れ、内戦に決着がついた、
翌1870年 (M3) 頃から日本の男性も着用し始めた事になっています。
背広の素材はウール (毛 = 羅紗 (らしゃ)) です。
江戸時代、平賀源内が毛織物にトライしましたが、ぽしゃっています。
故に、この時点では、イギリスからの輸入生地をどちら様かが、見よう見真似で拵えたと思います。
或いは、政府高官用として、イギリス外交官がSavile Rowから背広を取り寄せてくれたかも知れません。
1871年 (M4) 11月 「岩倉使節団」 の面々が洋行し、アメリカでの記念撮影に背広を見る事ができます。
在ニューヨーク日本国総領事館のサイト、「1871〜73 岩倉遣米使節団」 を確認下さい。 左の方から、

木戸孝允(1833〜1877)長州藩士出身ダブル剣襟棒タイ(レジメン)silk hat革靴
山口尚芳(1839〜1894)肥前佐賀藩士出身シングルきざみ襟喋ネクタイsilk hat革靴
岩倉具視(1825〜1883)朝廷官僚出身羽織 ・袴  silk hat革靴
伊藤博文(1841〜1909)長州下級武士 百姓出シングルきざみ襟喋ネクタイ手帳?革靴
大久保利通(1830〜1878)薩摩藩士出身ダブル剣襟棒タイ(柄?)silk hat革靴

なぜか、岩倉具視と大久保利通は、カメラ目線を取らず、あっち向いてほい?
伊藤博文の 「黒革の手帳?」 は、「何でも吸収するぞ」 との意気込みが現れていませんかしらん。
表意記号的には、ダブル ・剣襟がシングル ・きざみ襟より勝 (まさ) っています。 その上を行く羽織 ・袴。
もう一つ、左右の端を決める、木戸孝允と大久保利通、何やら藩閥内部反目の呈?
それとも、西洋文化的、シンメトリー (対称) ・パースペクティブ (遠近法) 構図を既に修得済み???

この明治時代初期画期的な、岩倉使節団に参加した勇気ある 「女性アメリカ留学生達」

吉益亮子

(1857〜?)

渡航時 満14歳

帰国1872年

父は幕臣 吉益正雄

1885年以前没
上田悌子(1857?〜?)渡航時 満14歳帰国1872年父は幕臣 上田敏(o)医師 桂川甫純と婚
山川捨松(1860〜1919)渡航時 満11歳帰国1882年父は会津藩士 山川尚江陸軍 大山巌と結婚
永井繁子(1863〜1928)渡航時 満 8歳帰国1881年兄は幕臣 益田孝 永井久太郎養女海軍 瓜生外吉と婚
津田梅子(1864〜1929)渡航時 満 6歳帰国1882年父は幕臣 津田仙シングル

彼女ら5人がアメリカ留学生になれたのは、北海道開拓使次官、黒田清隆 (1840〜1900) 薩摩藩士
後の第二代内閣総理大臣が、1871年の欧米視察の際に彼の地の女性の振るまいに感じ入り、日本女性にも
「教育」 を施す必要に駆られたからでした。それも、未だ「汚い世間」に染まってない女性をエントリー。
更に、興味深いのは、彼女らの父親は、幕府側として、幕末外交対策の仕事に携わった方々です。
「鬼の様な蛮人」と教えられていたその国に、薩長の子女をお出しにならなかったその理由は?
彼女らは日本を11月15日に発ち約一ヶ月の船旅を終えサンフランシスコに無事到着。アメリカの地を踏みます。
船旅中に吉益亮子さんに男性使節団、長野桂次郎 (立石斧次郎) (1843〜1917) がイジワルする事件など
ありましたが・・・。立石斧次郎は1860年、江戸幕府遣米使節団として渡米し、米で超人気者になった方です。
彼女らの内、お姉さんに当たる、吉益亮子と上田悌子さんは、女性として多感な時期、日本女性の感性が
アメリカ文化と順応しなかったのか、体調を崩され、翌1872年に帰国の途につかれました。
残された、うら若き女性陣は若さの順応性で乗り切り、10〜11年のお勉強の日々。

永井繁子さんは、1875年 (M8) から留学中の瓜生外吉 (1840〜1900) 加賀藩-大聖寺藩士 と恋いに陥り、
結婚の為、1年早く日本に帰ります。
彼女の兄が益田孝 (1848〜1938) 、1876年 (M9) 設立された旧三井物産の創業者です。

山川捨松さんは、幼い頃、会津戦争(1868年)で官軍の砲弾が打ち込まれている
鶴ヶ城に籠城していました。危うく一命を取り留め、やがて、アメリカ留学女性の一人となります。
彼女は1882年 (満22歳) に帰国します。待っていたのは一足先に帰国の瓜生繁子さん。
早速、旧友空間を温め合う、パーティーです。そんな折り、彼女の姿態に夢中になったのが、
幕府軍に大砲の弾を撃ち続け官軍の勝利に多大に貢献した大山巌 (1842〜1916) 薩摩藩士(後、陸軍大臣)
大山巌はゾッコンで周囲の反対、白い目に屈せず、彼女にプッシュ・プッシュの押しの一手。(大山はバツイチ)
×1と記しましたが、大山は離婚ではなく、先妻 (沢子) が病気で死去。吉井友実 薩摩藩士のお嬢さん。
やがて、押しに押された捨松さんは、あにはからんや、大山捨松さん1884年 (M17) になってしまうのです。
そして、彼女のアメリカ仕込みファッション、パーティー作法は、
1883年オープン、鹿鳴館のホステスのモデル、兼、持て成しの第一人者になり、「鹿鳴館の貴婦人」 に。
鹿鳴館でのファッションは、当時、欧米で最先端を走っていた、「バッスルスタイル」 のドレスでした。
山川 (大山) 捨松さんのバッスルスタイル。
さすが、お似合いになっています。(世辞抜きに) 因みに、若き日の捨松と女性の大山捨松さん。

津田梅子さんは、帰国後、この頃の日本は未だ彼女のキャリアを生かす職場不足、一番アメリカナイズされた
彼女は、一時、伊藤博文の世話で英語の先生になるも、又、お世話頂く縁談も断り、1889年 (M22) 再渡米。
1892年 (M25)帰国後は日本女性に教育をする事に燃え、現在の津田塾大学を設立するに至ります。
又、彼女の父、津田仙 (1837〜1908) は、農学社を作り、現在の青山学院大学の設立に寄与しています。
津田仙はとても素敵なお父さんです。僅か満7歳に満たない愛しの梅子さんを涙してアメリカ留学させました。


明治時代の衣装と感性 其の壱 の続きは、「明治時代の衣装と感性 其の弐」 へ。
おつなぎ処

☆ 日本の服の歴史
・奈良時代の服
・平安時代の服
・続 平安時代の服
・鎌倉時代の服
・室町時代の服
・戦国時代模様
・続 戦国時代模様
・安土 ・桃山時代服
・江戸時代女性服 1
・江戸時代女性服 2
・江戸時代女性服 3
・江戸時代男性服
明治時代の服 2
明治ファッション3
・服の文献資料
・平安キャリア女性
 清少納言
 紫式部
・平安キャリア 2
 藤原親子
 藤原光子
・待賢門院の心
 白河法皇
 鳥羽天皇
 美福門院
・お美代の方の心
 徳川家斉
 中野播磨守清茂
 日啓と日尚
・やまと言葉綴り
 

慈 汎 倶

★ ZIPANGU
和ごころ香るお品を
 紹介しています。
・ポケティッシュ入れ
・トートバッグ
・ショルダーバッグ
・絹 タンクトップ
・絹 キャミソール
・絹 ビスチェ
・絹 ワンピース
・レーストップス
・絹と絹製品の事。
 絹にまつわる
  事柄について
   記しています。
 

日本色の色々

・日本色の見本
日本伝統色の色々
 をご覧頂けます。
・重色目の見本色
2枚布の織りなす色
・襲色目の見本色
5枚以上織りなす色
・日本の色の誕生
日本の色誕生物語
  スタートページ。
太古から神代?
  時代の出来事。
・白・黒・赤・青で
     全色カバー
・虹色は3色 ?
・時・女心の移ろい
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      夕日の赤
・高貴(あて)なる
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・海外の紫色事情
・虹配色への悪戯
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  特にお薦めです。
・縁(ゆか)りの色
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     お祝いの赤
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・私と
   あなたとかなた
・卑弥呼の贈り物
    茜・藍染の絹
・漢方薬と染料は
        お友達
・草木染め
     色の優しさ 1
・草木染め 2
・緑黄色野菜
       の緑色
・樹 ・木の葉
       の緑色
・弥生三月桜色
・悪戦苦闘の
       草木染め
・色出し簡単
       草木染め
・藍染めの瓶覗
  (かめのぞき) 色
・瓶覗のお友達
       一斤染
・一斤染と紅色
     の違い過ぎ
・無限の自然色 1
・無限の自然色 2
・植物名が色名
・男性の皆様方
     へのお願い
 男の方は是非
    ご覧下さい。
・癒される色々
・美しい色々々
・素敵な色々々
・草木染めの
        日本色
・赤系の色
 緋・赤 茜 蘇比
       紅 蘇芳
・橙 ・黄系の色
 黄丹 刈安 黄檗
     支子 櫨 桑
・緑・青・紫系の色
 緑 縹 紺 藍色
    紫 滅紫 葡萄
・褐色 ・墨系の色
 黄橡 胡桃 柴染
      橡染 榛染
ここまでが、
太古〜奈良朝の色
・衣服令 延喜式の
      位階服色
・禁色(きんじき)
  聴色
  (ゆるしのいろ)
・平安朝で創造
      された色
 紅梅 萌黄 二藍
      香染 青鈍
・太古から
   奈良朝の顔料
 鉛丹 白緑 緑青
      群青 臙脂
・平安後期から
  鎌倉時代の新色
 柿衣 褐色 猩々緋
      鳥子 煤竹
・綺麗な色は
   みやびの世に
 紅梅 薄紅梅
      桃色 桜襲
・江戸時代
    の流行色
      四十八茶
・江戸時代
    の流行色
        百鼠
・江戸時代
    の流行色
       青・紫色

 

心の綾 (あや)

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お薦めは、
・みやびな出逢い
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一輪挿し椿

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