義満の父の足利義詮 (将軍在職 1358〜1367) (1330〜1367) のやや平穏さを取り戻した時位から、
武家の出で立ちは鎌倉以来の「直垂・直衣」 (将軍任官のイベント時はそれでも衣冠束帯)
将軍サポート大小大名は 「直垂」 が晴れ (イベント ・儀式) の正装となったとの事。 |
二条良基 (1320〜1388) 、「雲井の花」 に、1367年春の中殿歌御会御遊宴の日の描写では、
関白大臣は直衣、義詮将軍も又、直衣でしたが、居並ぶ武士は、 |
「丑の刻ばかりに将軍参ぜらる。其の行粧、万人目を驚かさずといふ事なし。 略 まづ帯刀十人、左右行列、
一番、左、佐々木渡辺二郎左衛門尉明秀 (地白の直垂、金銀の箔にて四目結を押す。紅の腰)
右、小串二郎右衛門尉詮行(地紫の直垂、白箔にて二雁を押す) 以下 略 。」 |
この様に鎌倉武士アースカラーから京都武士お洒落カラーに。更に金銀白箔の刺繍? (プリントかも) の豪華さ、
さすが京都でしょう? |
これが更に義満の時代には、後小松天皇 (在位 1382〜1412)(1377〜1433) を北山第 (邸)
(今の金閣寺でこの時は義満政庁場所) にお招きし、武家の権威を鼓舞する為のイベントの際、
「北山行幸記」、 (1408年の出来事。) |
「供奉の人々には、徳大寺左大将 (山吹の下重、浮文、山吹の枝 略)
西園寺大納言 (山吹の下重、堅文、椿 略)
洞院大納言 (薄桜、萌黄の下重、文桜扇 略)
花山院大納言 (三色の下重、薄色堅文織物、中倍紅、裏萌黄打ち、菱の文 略)
師中納言 (藤の下重、堅文、藤立湧、表蘇芳裏青 略) 略 。」 と有ります。 |
しかし、公家の方々も久方ぶりのビッグなイベントの為、着飾っておられますが、これが最後くらいで
その後は、彼らの経済的基盤が崩壊し、直衣・直垂さえ着用できず、
白衣姿 (びゃくえすがた) と云う白い小袖に指貫を簡略化した 「指子」 を穿き
ジャケットの 「道服」(広袖ロングカーディガン)を羽織るお姿に変貌されたとの事です。 |
*北山殿は1399年以降の義満の通称。それまでは、室町殿。
北山第 (邸) は、西園寺家の別荘を義満がプレゼントされ、豪華絢爛に改築した広大な邸宅。
京都以外にお住まいの方は皆さん、修学旅行で必ず訪れる所。
昨年、アメリカのブッシュ大統領もご覧になりました。 京大図書館 「北山行幸記」 の記述者は一条経嗣?。 |
上記の公家女房達の衣装と武家 (伊勢氏) の記述の 「簾中舊記」 の様に、
この室町時代当時の武家の女性 (ご婦人) 達の装いは、ビッグイベント (大儀式) では
「袿と袴」「かいどり」「腰巻」ファッションでしたが、
それ以外のイベント・日常では 「小袖」 を公服として 「袴」 を略したとの事です。
これに依り、「着物ファッション」 (現在でも垣間見ることが可能な着物) のスタートを迎える様になった感じです。 |
「女房衣裳次第 ・女房方故実」 (作者不詳) に、各季節の式日の小袖に関する事が記されています。 |
1月1日〜1月15日 朝は小袖、昼の御祝に、1日〜2日織物、3日薄絵、7日繍物、15日織物小袖。
3月1日〜3日 小袖、紋もの(紋とは模様のことをいふ)
4月1日小袖、綾紋の織物、牡丹めし候人は牡丹めし候、牡丹は20年(歳)までめし候
5月1日 朝、小袖何にても。昼、絵繍物の小袖、正絹裏
5月5日 朝、小袖何にても。昼は正絹の織物、正絹裏練貫。5月中は帷子(かたびら)めし候はず
6月1日 紺地 ・白にても赤にても帷子めして、正絹裏の腰巻めし候
7月1日 辻が花めし候
8月1日 練貫の正絹裏、染付の練裏、御紋私には心々秋の野を付け候。
上ざまは、ませに薄(すすき)ばかり御付け候。夕方は絵繍物の正絹裏、辻が花めし候
9月9日 染物の小袖。菊の紋を付けられ候
10月1日 朝、小袖何にても。昼は織物。紫を本にめし候 (本は本式の意味)
11月1日 小袖何にても。紅梅めし候人は、紅梅の類を本にめし候。
この日より、5月5日の朝まで紅梅の類めし候。
12月1日 何にてもめし候。紅梅の類めし候人は、紅梅の類めし候。
26日には、御所々々御歳末になり、昼の御祝は絵織物を本にめし候 |
*薄絵は、小袖 (冬) でも帷子 (夏) でも金銀箔で模様を刺繍した物。
*牡丹は、練貫の糸の織物で、裏地に紅色を付けた物。
*練貫 (ねりぬき) は、経 (たて) 糸が生糸で、緯 (よこ) 糸が精錬された練糸の織物。
*紅梅は、経糸を紫色、緯糸は紅系で織った織物。黒味の有る紅系の色の生地。 |
*辻が花は、「女房衣裳次第」 では 「つじが花の帷子の事、是は30(歳)ばかり迄もめし候。
又男子は14〜15(歳)までは着候。つじは花の帷子と申すは、
下染めを先ず紅にて薄く染めて、さて其の上を濃き紅にて色へたるを申し候。」 |
「貞丈雑記」 伊勢貞丈著(1717〜1784)では 「つつじが花を略して、つじが花と云ふ也。
躑躅の花は赤き物なる故に紅にて染めたるを云ふ也。総体を紅にて染めずして、
所々に紅を以て色どり染めたる也。」 |
2説有りますので? 只、色は紅で裏地のない正絹や麻の生地で作成した単衣 (帷子)。 |
☆ こんな感じで、武家のご婦人の方々は 「お洒落に」 に気を配り、ファッションを楽しんでおられました。 |
三条西実隆の「実隆公記」に依りますと出世街道まっしぐらの感の昇進ですが何せ平安のみやびな世と違います。
経済的基盤である山城国、畿内周辺の荘園や淀の魚市からの年貢は、一度、乱が起きれば不安定極まります。
故に、勢い、和歌 ・連歌の指導、添削、古典籍の書写などの副業に頼らざる得ません。
たまたま、彼はその才に恵まれていましたので何とか凌げたみたいですが、実情は火の車だった様です。 |
例えば、彼が40歳の時、相次いで父母の命日の法事を執り行いました。
法要費用を所領からの年貢の前納と 「借金」 で捻出しています。
借金は 「土倉 (どそう)」 でしていました、土倉は今のサラ金ローン会社の様な高利貸し屋さんです。
借金の質草 (担保物件) として、鞍や衣装をあてたとの事です。
その衣装はなんだったかと云いますと、法要が春夏の時期でしたので、
「冬用の直衣 (礼服)」 だったそうです。
実隆は、サラ金のC.M.の様に 「計画的にお借り」 になっていました。
彼の表現は 「秘計をめぐらす。」 となっています。 秘密の謀事なんて・・・? 非常に賢いです。 |
この事実は、彼のみではなく、この時代 (とき) の誰しもの生活実感だった感じです。
ある年の正月から二月にかけて、公卿 ・殿上人、三名が彼から 「袴」 を借りています。
その中のお一人には前関白、二条政嗣がいらしたとか。
実隆自身も足利義政の奥様、日野富子 (1440〜1496) さんの亡父 (日野重政) の法事に
礼服が間に合わず、参列できずに別の部屋で参加されていたとの事です。 |
ましてやおや、嘘か誠か、誠か嘘か、「内裏の土塀が崩れ落ちていて中が丸見えだった。」
これには些か疑問を呈しますが 、(実隆公記ではありません。)
後土御門天皇がご逝去なさっても費用が無く法要が即、営まれなかった。
後柏原天皇は、践祚1500年 即位式1521年
後奈良天皇は、践祚1526年 即位式1536年
帝のイベント (儀式) でさえこの有様ですから、推して知るべしです。 |
この塩梅ですので、京都を脱出せざるを得ない公家の方々がおられても不思議では有りません。
実隆は幼い頃より勉学に励み能書家でしたので、書写等の副業で、京都に踏み留まる事ができました。
彼は 「源氏物語」 全巻を3回書き写したそうです。
第一回目の書写終了は、20〜30代の時代に、これは 「頼まれ物」 ではなく本人用。
第二回目に書写した物は、能登国の守護大名、畠山義総 (1491〜1545) の依頼。
第三回目に書写した物は、70代後半、目の煩いにもめげず作成した作品。 これも畠山氏に。
50代初期の手元不如意の際に第一回目の書写をどちら様かに購入して頂いています。
今の世と違いcopy機が有りませんので、専ら書き写ししか方法論がなかったのです。
又、彼は 「新撰菟玖波集」 を著した連歌師の (飯尾) 宗祇 (1421〜1502) とも親交があり、
自分の家で文化人達?を集め 「源氏物語」 「伊勢物語」 「古今和歌集」 等を語り合ったとの事。
右上の図は 「源氏香」 ですが、彼は後に香道の大家にされました。「かおり」 の道にも卓越してた感じです。 |
*後の時代に、大和絵と水墨画をフュージョンした 「長谷川等伯」 (1539〜1610) の
父、奥村氏は、、能登 ・七尾城、畠山義総の家臣でした。
故有って等伯は幼い頃、「染め物屋」 さんの長谷川家に養子に入りましたので、長谷川等伯 と。
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最近は、「WABI」 「SABI」 「MOE」 との事。
「いはばしる垂水の上の早蕨の 萌え出づる春になり・・・。」 (万葉集 ・施基皇子 (志貴皇子))
「萌ファッション」 が海外で人気赤丸急上昇と聞きました。 ちょいと嬉し?恥ずかし。
ここは、室町時代 (足利幕府) ですので、萌は少しどいといて貰います。
三条西実隆の生きた応仁 ・文明の乱の前後くらいの時期より 「わび ・さび ・幽玄」 の世界が人気急上昇?
或いは、既に、南北朝のいざこざの時期くらいに 「この感じ。」 が萌え出ていたのかも知れません。 |
私どもは、女性の服 ・衣装 ・服飾雑貨の企画 ・製造 ・販売を専門とする 「ZIPANGU」 ですので、
ここからの展開は、その事をお含み頂きまして、ご覧下さい。 |
「わび」 は 侘びしい。 気力を失い、淋しく心細い思いをしている状態。
「さび」 は 寂びしい。 活気が無くひっそりとして心細い情況。 |
侘び ・寂び とはその様なものなのです。
どの 「生活時空間」 にいても、経済的基盤が崩壊すれば、侘びしく、寂しいものです。
特に、その状態になる以前の生活レベルが高い?程ほど。
その様な方々は、この時代 (とき)、高級官僚 (公家)、公領 ・荘園管理受託者(荘主( しょうす))、等々でした。
* 荘主は殆ど、臨済宗のお坊さん(僧侶)が請け負っていました。
網野善彦氏に依りますと、フォッサマグナを境として、「東国」 「西国」 の文化形態が異なっていて、
更に 「海民」 の社会的重要性が有り、一概に、一色丹に、味噌○○一緒に、できませんが・・・。
因みに、この writer は、網野氏の範疇ですと 「東国」 出です。 |
ここで、「東山文化」 と云われる 「もの」 の色彩 ・形状等々を確認してみます。 |
銀閣寺 (慈照寺、観音殿) 1489年建立。 銀箔を貼った形跡は有りません。
龍安寺など枯山水の庭 (室町時代) 本物ではなく、石で海 ・河川等を模して表現しています。初見は鎌倉時代。
書院造り 茶の湯 (茶道) 立花 (華道) の ワンセット。
水墨画 (雪舟等楊 (1420〜1506) ら) 狩野派 (狩野正信 (1434〜1530) ) の渋い彩色。
猿楽 (能) 大和国猿楽、結崎座の観阿弥 ・世阿弥が足利義満に好まれ、金春 (こんぱる) 禅竹らが継承。 |
この時代の能衣装は確認できませんが、それを除けば、すべて、「地味目な色」 になります。
木、石、墨の自然色。艶やかな色は一切ありません。 色味が有るのは抹茶の淡い緑くらい。
茶の湯は、珠光 (1423〜1502) →十四屋宗悟 (?〜?) →武野紹鴎 (1502〜1555) ときて、
次の安土桃山時代に千利休 (1522〜1591) が作り上げたとの事になっています。 花は有っても一枝程度。 |
この時代 (とき) から80年〜100年前の 「北山文化」 と云われる時代と比べてみますと、
金閣寺 (鹿苑寺、舎利殿) 1398年建立 2階と3階部分の外内装共に金箔を施していました。
北山時代に新規に大規模な池泉回遊式の庭が作成されたかどうかは不明ですが、
龍安寺及び隣接する池泉回遊式の庭 (鏡容池) は、藤原氏、閑院流、徳大寺実能 (1096〜1157) の別荘を
時の管領、細川勝元 (1430〜1473) が頂いたものですので、新規に造作された庭は石庭になります。
茶は、臨済宗 (禅宗) の開祖、栄西 (1141〜1215) が留学先の南宋より 「薬として抹茶」 を持ち帰り、今へ。 |
彼の書いた 「喫茶養生記」 には、
「茶は養生の仙薬なり。延齢の妙術なり。 中略 五蔵の中(うち)心蔵を主とせんか。
心蔵を建立するの方は、茶を喫する、是れ妙術なり。 中略 時に建保二年 (1214年) 甲戌春正月日」 と。
抹茶も初期は漢方薬、これは染料も最初は漢方薬と同じです。 染料の件は 「漢方薬と染料はお友達」 を。 |
遣唐使持ち帰りの茶栽培は失敗しましたが、今回のお茶は栽培に成功します。 宇治茶など。
やがて、各地で栽培され、室町初期の義満の時代では、お茶の 「銘柄当て大会 (闘茶)」 として、更に、茶器も
大金を積んで明より輸入して (唐物) ビッグなイベントを催し、守護大名の皆さん達が遊んでいらしたそうです。
利き酒大会の感じなのかしらん? 利き茶の後には、当然、お酒も振る舞ったとの事です。
その様な茶の big−event (唐物数寄) を咎めたのが珠光と云う方になっています。 後の侘び茶に。 |
わび ・さび ・幽玄の文化 (発想 ・考え方) が日本人の感性をより研ぎすまさせました。 |
「幽玄」 を広辞苑で引いてみますと、
1 奥深く微妙で、容易に計り知ることのできない事。味わいの深い事。情趣に富む事。
2 上品で優しい事。優雅な事。 (文学論 ・能楽論を除く。)
と説明されています。 |
まんよう時代の「大らかな大胆さ」。
みやびな世の「大自然の中での優雅さ」。
わび ・さびの世の 「限りなき繊細さ」。 |
余計なもの?を除き、限りなく小さくした空間に於いても、その中に全宇宙を表現しようとする心。
この心音 (根) は、今の私達にも継承されています。
マイクロ ・ミクロの世界の半導体、医療。 日本人の 「神の手」 の繊細技術。
私ども、服の世界でも貫徹されています。
洋服の歴史が長い西洋の方々 (特にパリ ・ミラノの皆さん) はビックリされます。 |
「どうして、見えない所に、そんな繊細な事をするの!」 と |
例えば、ジャケット。表地と裏地の間の処理方法です。
パリ ・ミラノの皆さんから見れば、裏地側もそんなに気にされません。相手の目線に殆ど侵入しませんので。
ジャケットを脱いだ際に 「ちらり」 と観える位ですから。
そんなイメージですので、表地と裏地の間にはお気を使う訳がありません。
表地と裏地の間の世界は、
しっとりとしたカーブを出す為の布切れ込み、シャープなライン保持の為の芯地等々の空間が広がっています。
彼の地の皆さんは、その世界はお構いなしです。(但し、基本的な処理は施されています。)
これを確認する事は、ちょいと困難を来すかもしれませんが、チャンスが生じましたら、裏地を解いてご覧下さい。
の様な感じで、日本のお針子さん達 (縫製工場) は、微細な箇所まで神経を使ってお仕事なさっています。
合理 ・功利主義の世界とは全く異なる世の中です。 |
翻って考えますと、この室町の後期時代、、
密 (私) 貿易の堺 ・博多商人、土倉 (金融業者)、問丸 (流通 ・倉庫業者) 等、一部の資本蓄積者を除けば、
終日、農・漁業に従事している方々は、わび ・さび ・幽玄の感性は自ずとお持ちになっていたのかも知れません。
今の世でも、ほんの一部の方々を除けば、欧米の方から揶揄される、規格化された小さな箱の空間に、
全宇宙を表現し、日々過ごしていますので、素敵な感性はより研ぎすまされているのかも・・・。 |
やがて、時が流れ、地方分権から中央集権の時を迎えると、
「大胆 ・優雅 ・繊細」 を 「コラボ ・フュージョン ・融和」 する絵師が登場 します。 |