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戦国時代 空白の衣装時空 京都 「戦国時代 空白の衣装時空」

<鎌倉(神奈川)から室町(京都)へ>

日本が鎌倉武家政権と小京都公家政権とに二分された鎌倉時代、
大部分の日本は鎌倉武家政権を中心とする武士をリーダーとする地方分権の世の中になった時代。
「ご恩と奉公」 と云う名の下に、経済的基盤であった 「土地」 の分配システム。
その礎となる農作業労働者などの皆さんは税金を納める所が違うだけで晴耕雨読の日々。
彼ら ・彼女らは政権違いによる別の新しい楽しみ方 (文化) をなさっておられたと思います?
但し如何せん、毎日の 「楽しみ」 は甘受されますが、
「面白文化」 を書物に書き残して下さる努力をなされませんでした?
そんな努力よりも、終日 (ひもすがら) 自然と戯れる喜びに溢れていたのかも知れません。
一方、鎌倉北条得宗政権側にとっては、経済的基盤を揺るがす大事件が起こります。
1019年の刀伊の方々 (後に清王朝を作った方) の九州上陸 (これは藤原道隆の息子さんの隆家が防ぎました。)
以降、久方ぶりの二度に渡る、元の方々の九州地区上陸事件が勃発。
九州地方地区を中枢として各地方より武士が参集して防衛に当たりました。
(お相撲さんの世界では既にインターナショナル?)
運良く武士軍団は防ぐ事ができて、さあ 「ご恩と奉公」 による 「土地」 分配の番。
しかし政権側は恩賞として分け与える土地が不足していました。
そんなこんだで、このシステムは瓦解する羽目に。
「頼る」 は、経済的基盤である土地所有者を安堵させてくれるリーダー捜し。
やがて武家政権内部分裂闘争の時を迎えます。
もう一方の小京都政権も二派に分かれて南 ・北のいがみ合い。
約100年以上ガタガタの世の中が続き一応、室町時代と云われる由縁の、
足利義満が京都市中京区 「室町」 に 「花の御所」 ができた頃くらいからが本来の室町時代になる訳です。
だから、この間は、「服」 どころではないでしょう? もう泣きを入れちゃいたいですがそこを何とか・・・・・。
尚、足利義満時代の詳細は、「足利義満はとてもラッキー1.2.3.」「足利義満を取り巻く女性達」 でご覧下さい

<荒廃したとは云え、さすが京都>

足利義満 (将軍在職 1368〜1394) (1358〜1408) により不安定ながら、
「所領安堵」 をようやく曲がりなりにも確立した感の有る室町幕府。
世情が落ち着けば 「お洒落の」 競い合い。(この時点が室町時代で一番華やかな時代。)
ご先祖は足利出身で ・鎌倉武士風 ・播磨、京都育ちの足利義満はいよいよ「記号消費」 「差異表示」 の
世界に目を向けます。 消費文化は落ちぶれたとは云え鎌倉より格段京都が勝ります。
室町時代中の比較的安定期は、彼と息子の義持 (将軍在職 1394〜1423) (1386〜1428) の時と
孫の義政 (将軍在職 1449〜1473) (1436〜1490) の約90年間 (終わりを1467年として)。
その間には、「くじ引き」 で選ばれた義政の父の義教 (将軍在職 1429〜1441) (1394〜1441) 等の
恐ーい期間 (くかたち (探湯)=ゆぎしょう (湯起請)の復活) 15年程が有りました。
熱湯に手を入れると云うのは、悪いことをしたら 「閻魔様に舌を抜かれる」 的お話し。
ただこれらは、地方京都地区での出来事。
それ以外の日本の各地方では、各々の地方のリーダー (守護大名) と農作業従事者には緩いながらも
「連帯感 ・一体感」 とが交錯していた感じ。
こんな状況下での室町時代の 「服」 は如何に。
義満は日本政府として、894年以降閉ざされたいた海外との通商を再開しました。(日明貿易 ・勘合貿易)
政府の立場でない海外取引は歴史順には、平泉の奥州藤原氏、
平清盛の福原、大輪田泊 (今の神戸港近辺) を拠点とする 「日宋貿易」 、
鎌倉期からの禅僧達の行き来、
海賊軍団の行き来 (相手からは和冦と。) 等々の
「私的」 な取引は有りましたが、この事により、公に異国からの文物を入手する方法論が確立され、
その中には当然、新技術で織られた織物 ・服 (衣装)・装飾品などが含まれていたと想像できます。
しかし厳しい躾をされたと思われる息子の義持が、
父嫌いになり? 又、弟、義嗣への内裏での元服イベントなどの父の偏愛などにより、
父の死後、日明貿易を一時取り止めてしまいます。
明の代表をお招きしておきながら 「京都に入るな」 はないでしょう。
回りを固めていた管領 ・侍所の所司や宿老達 (私貿易で利得をゲットしていた方々。) の進言などが
有っての事だと思われますがこれにはいささか何とも・・・・・。
偉大な父に対する子の葛藤は世の常、何とか、くじ引き将軍の義教 (義満の息子) の代に
回復してくれましたのでそれもまあ、目出度し ・愛でたしと云う事で。

<室町時代は、武家の豪華と公家の簡素 (メンズ)>

義満の父の足利義詮 (将軍在職 1358〜1367) (1330〜1367) のやや平穏さを取り戻した時位から、
武家の出で立ちは鎌倉以来の「直垂・直衣」 (将軍任官のイベント時はそれでも衣冠束帯)
将軍サポート大小大名は 「直垂」 が晴れ (イベント ・儀式) の正装となったとの事。

二条良基 (1320〜1388) 、「雲井の花」 に、1367年春の中殿歌御会御遊宴の日の描写では、
関白大臣は直衣、義詮将軍も又、直衣でしたが、居並ぶ武士は、

「丑の刻ばかりに将軍参ぜらる。其の行粧、万人目を驚かさずといふ事なし。 略  まづ帯刀十人、左右行列、
一番、左、佐々木渡辺二郎左衛門尉明秀 (地白の直垂、金銀の箔にて四目結を押す。紅の腰)
右、小串二郎右衛門尉詮行地紫の直垂、白箔にて二雁を押す) 以下 略 。」

この様に鎌倉武士アースカラーから京都武士お洒落カラーに。更に金銀白箔の刺繍? (プリントかも) の豪華さ、
さすが京都でしょう?

これが更に義満の時代には、後小松天皇 (在位 1382〜1412)(1377〜1433) を北山第 (邸)
(今の金閣寺でこの時は義満政庁場所) にお招きし、武家の権威を鼓舞する為のイベントの際、
「北山行幸記」、  (1408年の出来事。)

「供奉の人々には、徳大寺左大将 (山吹の下重、浮文、山吹の枝  略)
西園寺大納言 (山吹の下重、堅文、椿  略)
洞院大納言  (薄桜、萌黄の下重、文桜扇  略)
花山院大納言 (三色の下重、薄色堅文織物、中倍紅、裏萌黄打ち、菱の文  略)
師中納言    (藤の下重、堅文、藤立湧、表蘇芳裏青  略)  略 。」   と有ります。

しかし、公家の方々も久方ぶりのビッグなイベントの為、着飾っておられますが、これが最後くらいで
その後は、彼らの経済的基盤が崩壊し、直衣・直垂さえ着用できず、
白衣姿 (びゃくえすがた) と云う白い小袖に指貫を簡略化した 「指子」 を穿き
ジャケットの 「道服」(広袖ロングカーディガン)を羽織るお姿に変貌されたとの事です。

*北山殿は1399年以降の義満の通称。それまでは、室町殿。
  北山第 (邸) は、西園寺家の別荘を義満がプレゼントされ、豪華絢爛に改築した広大な邸宅。
  京都以外にお住まいの方は皆さん、修学旅行で必ず訪れる所。
  昨年、アメリカのブッシュ大統領もご覧になりました。 京大図書館 「北山行幸記」 の記述者は一条経嗣?。

直垂 直垂の長袴      道服姿
直 垂   直垂の長袴              道服姿

<さて、室町時代のレディースは。>

「北山行幸記」 の序に、(北山第からほど近い後小松天皇の母 (三条厳子) を訪ねるシーン。)

「御道の程も近ければ、腰興までもなく、筵道をしきて、四足門の石橋を下りさせおはしまして、南の御所に成る。
 略 女房たちも、ただ袴ばかりにて、御うしろに歩みつづかれたるも中々おもしろかりれるとぞ。」

この光景は、女房達は唐衣・裳を着用していないお姿。
又、鎌倉時代で紹介しました湯巻はこの頃には、女房のトップクラス(上臈)まで普段お召しになっていた感じです。
これで袴を省略したら 「小袖着物」 姿に近づきます。

<はつき=腰巻 かいどり と云う不思議な単品>

腰巻き
上臈の方々までも湯巻姿がノーマルになると、下臈女官、更に下働きお手伝いさん達は、
「はつき」 と云う衣を 「袿」 (インナーウェアー) に代えて着用されたとの事です。
「近代女房装束抄」 小杉榲邨著 (1834〜1910) に依りますと、「はつき」は、
「冬は表紅梅、裏白ねり。此上に袴をはく。夏は之を腰巻といふ。表白すずし縫箔金銀、
 いろいろ模様をつけ、小袖の上に打ちかけて、肩をぬぎて、腰にまかる。」
と説明しています。又、
「簾中舊記 (れんちゅうきゅうき)」 奈良女子大学所蔵
伊勢貞陸著 (1463〜1521)(伊勢 貞親の孫 貞親は将軍義政の政所執事) に依りますと
はつき=腰巻の夏以外の春 ・秋 ・冬バージョンは、「かいどり」 との事。
この単品が室町時代の新アイテムとなります。
左の絵が はつき=腰巻 かいどり になるのですが、この単品はよく理解できません。
お洒落アイテム用なのか、実用アイテムなのか? 金銀箔刺繍を施していますので、
たぶんお洒落 ・装飾用、着こなしと思うのですが・・・。

*すずしは、正絹で、精錬前の生地。  ねりは、練りで、正絹を精錬加工した後の生地。

<武家女性の公服 レディ−スウェアー=ご婦人服>

上記の公家女房達の衣装と武家 (伊勢氏) の記述の 「簾中舊記」 の様に、
この室町時代当時の武家の女性 (ご婦人) 達の装いは、ビッグイベント (大儀式) では
「袿と袴」「かいどり」「腰巻」ファッションでしたが、
それ以外のイベント・日常では 「小袖」 を公服として 「袴」 を略したとの事です。
これに依り、「着物ファッション」 (現在でも垣間見ることが可能な着物) のスタートを迎える様になった感じです。

「女房衣裳次第 ・女房方故実」 (作者不詳) に、各季節の式日の小袖に関する事が記されています。

 1月1日〜1月15日 朝は小袖、昼の御祝に、1日〜2日織物、3日薄絵、7日繍物、15日織物小袖。
 3月1日〜3日    小袖、紋もの(紋とは模様のことをいふ)
 4月1日小袖、綾紋の織物、牡丹めし候人は牡丹めし候、牡丹は20年(歳)までめし候
 5月1日        朝、小袖何にても。昼、絵繍物の小袖、正絹裏
 5月5日        朝、小袖何にても。昼は正絹の織物、正絹裏練貫。5月中は帷子(かたびら)めし候はず
 6月1日        紺地 ・白にても赤にても帷子めして、正絹裏の腰巻めし候
 7月1日        辻が花めし候
 8月1日        練貫の正絹裏、染付の練裏、御紋私には心々秋の野を付け候。
              上ざまは、ませに薄(すすき)ばかり御付け候。夕方は絵繍物の正絹裏、辻が花めし候
 9月9日        染物の小袖。菊の紋を付けられ候
10月1日        朝、小袖何にても。昼は織物。紫を本にめし候 (本は本式の意味)
11月1日        小袖何にても。紅梅めし候人は、紅梅の類を本にめし候。
              この日より、5月5日の朝まで紅梅の類めし候。
12月1日        何にてもめし候。紅梅の類めし候人は、紅梅の類めし候。
              26日には、御所々々御歳末になり、昼の御祝は絵織物を本にめし候

*薄絵は、小袖 (冬) でも帷子 (夏) でも金銀箔で模様を刺繍した物。
*牡丹は、練貫の糸の織物で、裏地に紅色を付けた物。
*練貫 (ねりぬき) は、経 (たて) 糸が生糸で、緯 (よこ) 糸が精錬された練糸の織物。
*紅梅は、経糸を紫色、緯糸は紅系で織った織物。黒味の有る紅系の色の生地。

*辻が花は、「女房衣裳次第」 では 「つじが花の帷子の事、是は30(歳)ばかり迄もめし候。
又男子は14〜15(歳)までは着候。つじは花の帷子と申すは、
下染めを先ず紅にて薄く染めて、さて其の上を濃き紅にて色へたるを申し候。」

「貞丈雑記」 伊勢貞丈著(1717〜1784)では 「つつじが花を略して、つじが花と云ふ也。
躑躅の花は赤き物なる故に紅にて染めたるを云ふ也。総体を紅にて染めずして、
所々に紅を以て色どり染めたる也。」

2説有りますので? 只、色は紅で裏地のない正絹や麻の生地で作成した単衣 (帷子)。

☆ こんな感じで、武家のご婦人の方々は 「お洒落に」 に気を配り、ファッションを楽しんでおられました。

<応仁 ・文明の乱後の衣装事情>

道服、後の羽織
道服、後の羽織
限りある経済的基盤 (農地) の相続問題がこじれ、1467〜1477年の間、
京の都は、上を下への大騒ぎ (応仁 ・文明の乱)。
辺り一面焼け野原になったと云う事ですが、見てませんので程度は不明。
五摂家の中には、都を離れ、丹波の国に待避したり (二条家)、
遠く四国の土佐の国に住み着いたり (一条家) する様な方々も。
庄園からの上がりもままならず、
日常の生活はそれ以前よりも困窮を極めた事は否めない事実です。

その際に役立ったのが左の 「道服」、後の羽織と云われたアイテムです。
ジャケットが少々よれよれでも、上に羽織るだけで隠せました?

その様な切ない状況にも関わらず、後世に服の文献を残して下さった
方々には、感謝いたします。 そのお二人とは、

<室町時代の文化人、一条兼良と三条西実隆>

一条兼良(1402〜1481) 人生の後半が戦乱の世。
三条西実隆 (1455〜1537) 6歳で当主になり乱世を過ごされました。

一条兼良は、足利義満の時代活躍された二条良基の息子さんです。
彼はとてもメジャーですのでここでは触れません。

三条西実隆は、閑院流の祖、藤原公季の五代後に三条家、西園寺家、徳大寺家と別れ、
その三条家の曽孫が正親町 (おおぎまち) 三条家を興し、その六代後に三条西家が誕生しその末裔です。
素晴らしい血の流れだと思いませんか。 因みにこの家系は明治時代まで継続します。
お二人とも 「服の資料」 のみでなく、多大なこの時代 (とき) の心模様 ・文化の文献を残して下さっています。
特に、三条西実隆は、この乱れた世にも関わらず83歳 (数え) まで生き続けました。
彼の奥様は、勧修寺教秀のお嬢さん。
彼女の姉さんは、後土御門天皇 (在位 1464〜1500)(1442〜1500) の奥様、勧修寺房子さん。
彼女の妹さんは、後柏原天皇   (在位 1500〜1526)(1464〜1526) の奥様、勧修寺藤子さんで、後の
後奈良天皇   (在位 1526〜1557)(1496〜1557) の母親です。
ここで、三条西実隆の日記を紐解いてみます。「実隆公記」
彼の経歴は、21歳で蔵人頭、23歳で参議、26歳で権中納言、35歳で権大納言、52歳で内大臣。
又、彼の長女、保子さんは時の関白九条尚経の奥様になり後の関白九条稙通 (たねみち) の母です。
足利政権の細川高国 (1484〜1531) とも馬があったみたいです。
武家社会 ・公家社会 ・天皇家、それぞれに如才なく振る舞い政治の世界には基本的に参加せず、
文化人として、時代(とき)を過ごされた感じです。

<応仁の乱後のお金 ・社会事情>源氏香

三条西実隆の「実隆公記」に依りますと出世街道まっしぐらの感の昇進ですが何せ平安のみやびな世と違います。
経済的基盤である山城国、畿内周辺の荘園や淀の魚市からの年貢は、一度、乱が起きれば不安定極まります。
故に、勢い、和歌 ・連歌の指導、添削、古典籍の書写などの副業に頼らざる得ません。
たまたま、彼はその才に恵まれていましたので何とか凌げたみたいですが、実情は火の車だった様です。

例えば、彼が40歳の時、相次いで父母の命日の法事を執り行いました。
法要費用を所領からの年貢の前納と 「借金」 で捻出しています。
借金は 「土倉 (どそう)」 でしていました、土倉は今のサラ金ローン会社の様な高利貸し屋さんです。
借金の質草 (担保物件) として、鞍や衣装をあてたとの事です。
その衣装はなんだったかと云いますと、法要が春夏の時期でしたので、
「冬用の直衣 (礼服)」 だったそうです。
実隆は、サラ金のC.M.の様に 「計画的にお借り」 になっていました。
彼の表現は 「秘計をめぐらす。」 となっています。 秘密の謀事なんて・・・? 非常に賢いです。

この事実は、彼のみではなく、この時代 (とき) の誰しもの生活実感だった感じです。
ある年の正月から二月にかけて、公卿 ・殿上人、三名が彼から 「袴」 を借りています。
その中のお一人には前関白、二条政嗣がいらしたとか。
実隆自身も足利義政の奥様、日野富子 (1440〜1496) さんの亡父 (日野重政) の法事に
礼服が間に合わず、参列できずに別の部屋で参加されていたとの事です。

ましてやおや、嘘か誠か、誠か嘘か、「内裏の土塀が崩れ落ちていて中が丸見えだった。」
これには些か疑問を呈しますが 、(実隆公記ではありません。)
後土御門天皇がご逝去なさっても費用が無く法要が即、営まれなかった。
後柏原天皇は、践祚1500年 即位式1521年
後奈良天皇は、践祚1526年 即位式1536年
帝のイベント (儀式) でさえこの有様ですから、推して知るべしです。

この塩梅ですので、京都を脱出せざるを得ない公家の方々がおられても不思議では有りません。
実隆は幼い頃より勉学に励み能書家でしたので、書写等の副業で、京都に踏み留まる事ができました。
彼は 「源氏物語」 全巻を3回書き写したそうです。
第一回目の書写終了は、20〜30代の時代に、これは 「頼まれ物」 ではなく本人用。
第二回目に書写した物は、能登国の守護大名、畠山義総 (1491〜1545) の依頼。
第三回目に書写した物は、70代後半、目の煩いにもめげず作成した作品。 これも畠山氏に。
50代初期の手元不如意の際に第一回目の書写をどちら様かに購入して頂いています。
今の世と違いcopy機が有りませんので、専ら書き写ししか方法論がなかったのです。
又、彼は 「新撰菟玖波集」 を著した連歌師の (飯尾) 宗祇 (1421〜1502) とも親交があり、
自分の家で文化人達?を集め 「源氏物語」 「伊勢物語」 「古今和歌集」 等を語り合ったとの事。
右上の図は 「源氏香」 ですが、彼は後に香道の大家にされました。「かおり」 の道にも卓越してた感じです。

*後の時代に、大和絵と水墨画をフュージョンした 「長谷川等伯」 (1539〜1610) の
  父、奥村氏は、、能登 ・七尾城、畠山義総の家臣でした。
  故有って等伯は幼い頃、「染め物屋」 さんの長谷川家に養子に入りましたので、長谷川等伯 と。

<侘び (わび)・寂び (さび)・幽玄>               花入

最近は、「WABI」 「SABI」 「MOE」 との事。
「いはばしる垂水の上の早蕨の 萌え出づる春になり・・・。」 (万葉集 ・施基皇子 (志貴皇子))
「萌ファッション」 が海外で人気赤丸急上昇と聞きました。 ちょいと嬉し?恥ずかし。
ここは、室町時代 (足利幕府) ですので、萌は少しどいといて貰います。
三条西実隆の生きた応仁 ・文明の乱の前後くらいの時期より 「わび ・さび ・幽玄」 の世界が人気急上昇?
或いは、既に、南北朝のいざこざの時期くらいに 「この感じ。」 が萌え出ていたのかも知れません。

私どもは、女性の服 ・衣装 ・服飾雑貨の企画 ・製造 ・販売を専門とする 「ZIPANGU」 ですので、
ここからの展開は、その事をお含み頂きまして、ご覧下さい。

「わび」 は 侘びしい。  気力を失い、淋しく心細い思いをしている状態。
「さび」 は 寂びしい。  活気が無くひっそりとして心細い情況。

侘び ・寂び とはその様なものなのです。
どの 「生活時空間」 にいても、経済的基盤が崩壊すれば、侘びしく、寂しいものです。
特に、その状態になる以前の生活レベルが高い?程ほど。
その様な方々は、この時代 (とき)、高級官僚 (公家)、公領 ・荘園管理受託者(荘主( しょうす))、等々でした。
* 荘主は殆ど、臨済宗のお坊さん(僧侶)が請け負っていました。
網野善彦氏に依りますと、フォッサマグナを境として、「東国」 「西国」 の文化形態が異なっていて、
更に 「海民」 の社会的重要性が有り、一概に、一色丹に、味噌○○一緒に、できませんが・・・。
因みに、この writer は、網野氏の範疇ですと 「東国」 出です。

ここで、「東山文化」 と云われる 「もの」 の色彩 ・形状等々を確認してみます。

銀閣寺 (慈照寺、観音殿) 1489年建立。 銀箔を貼った形跡は有りません。
龍安寺など枯山水の庭 (室町時代)  本物ではなく、石で海 ・河川等を模して表現しています。初見は鎌倉時代。
書院造り  茶の湯 (茶道)  立花 (華道) の ワンセット。
水墨画 (雪舟等楊 (1420〜1506) ら)  狩野派 (狩野正信 (1434〜1530) ) の渋い彩色。
猿楽 (能) 大和国猿楽、結崎座の観阿弥 ・世阿弥が足利義満に好まれ、金春 (こんぱる) 禅竹らが継承。

この時代の能衣装は確認できませんが、それを除けば、すべて、「地味目な色」 になります。
木、石、墨の自然色。艶やかな色は一切ありません。 色味が有るのは抹茶の淡い緑くらい。
茶の湯は、珠光 (1423〜1502) →十四屋宗悟 (?〜?) →武野紹鴎 (1502〜1555) ときて、
次の安土桃山時代に千利休 (1522〜1591) が作り上げたとの事になっています。 花は有っても一枝程度。

この時代 (とき) から80年〜100年前の 「北山文化」 と云われる時代と比べてみますと、
金閣寺 (鹿苑寺、舎利殿) 1398年建立 2階と3階部分の外内装共に金箔を施していました。
北山時代に新規に大規模な池泉回遊式の庭が作成されたかどうかは不明ですが、
龍安寺及び隣接する池泉回遊式の庭 (鏡容池) は、藤原氏、閑院流、徳大寺実能 (1096〜1157) の別荘を
時の管領、細川勝元 (1430〜1473) が頂いたものですので、新規に造作された庭は石庭になります。
茶は、臨済宗 (禅宗) の開祖、栄西 (1141〜1215) が留学先の南宋より 「薬として抹茶」 を持ち帰り、今へ。

彼の書いた 「喫茶養生記」 には、
「茶は養生の仙薬なり。延齢の妙術なり。 中略 五蔵の中(うち)心蔵を主とせんか。
 心蔵を建立するの方は、茶を喫する、是れ妙術なり。 中略 時に建保二年 (1214年) 甲戌春正月日」 と。
抹茶も初期は漢方薬、これは染料も最初は漢方薬と同じです。 染料の件は 「漢方薬と染料はお友達」 を。

遣唐使持ち帰りの茶栽培は失敗しましたが、今回のお茶は栽培に成功します。 宇治茶など。
やがて、各地で栽培され、室町初期の義満の時代では、お茶の 「銘柄当て大会 (闘茶)」 として、更に、茶器も
大金を積んで明より輸入して (唐物) ビッグなイベントを催し、守護大名の皆さん達が遊んでいらしたそうです。
利き酒大会の感じなのかしらん? 利き茶の後には、当然、お酒も振る舞ったとの事です。
その様な茶の big−event (唐物数寄) を咎めたのが珠光と云う方になっています。 後の侘び茶に。

銀色でない銀閣、枯山水、侘び茶、水墨画が東山文化の代表になっています。
この色 ・形状は 「誰がご覧になっても」、
みやびな平安な世の色 ・形状、或いは、金閣に比して、侘びしく・寂しく感じませんか?
この様な状況 ・情況を迎えざるを得なかったのは、
戦乱の世が長く続き、経済的基盤がどの時空間においても破綻を来したからです。

この様な情況を、この時代 (とき) の方々は、
めげている方が多い中、「逆定理」 をお出しになったのです。
「毎日、お鮨を食べていると、偶にはお茶漬けが食べたい。」 論理です。
「あるがままの姿。」 を 「在るが儘に。」 に感じ、
その 「有るが間々」 に心でしか感じられない 「美しさ」 を見い出す気持ち。  奥深ーーーい 「心模様」。
この心境が 「幽玄」 の世界です?
この時代 (とき) の、現状を踏まえ、前を見据えた、日本人の素敵な感性には、とても詞がありません。

   「痩せ我慢」 まで、さえも、 「美の世界」 へ。

これらの世界は、往々にして、「禅」 思想と結びつけて語られます。
但し、私ども 「禅」 思想と云う代物は分かりません。寺で座禅を組んで肩をパシリと叩かれる事くらいしか?
難しい教義を以てして、その様な感じになったのでしたら、それに越した事はありません。
奥深いこと故、オッカムの剃刀で単純に経済学的見地で考えるのは浅はかかも知れません。
但し、一つだけ「禅」 思想、及び、後の朱子学に苦言を呈します。

それは、「女性」 に対する見方です。
なぜに、日本の太古から平安の世まで脈々と続いた「女性」と「男性」の同志としてのお友達繋がりを
断ち切ってお仕舞いになったのでしょうか?
なぜに、無くてはならない 「月のもの」 を穢れと見なし、女性を卑しめたのでしょうか?
公家社会に於ける 「妻問い婚」 から 「嫁取り婚」 への変容は、
院政に因があるかもと私ども ZIPANGU は考えています。 その件は 「続 平安キャリア」 を確認下さい。
東国武家社会の婚姻形態がどの様であったかは知り得ませんが、
不動産 (土地) に兵役が付与していた関係から、どの時期で女性の不動産相続が終了したのか不明ですが、
東国武家社会に於いては、やや早くから、嫁取り婚が常態だったのかも知れません。
とは云うものの、動産はしっかり女性の方々が管理されていたと考えています。
その証左は、この東山文化の大代表の銀閣を造作した足利義政は製作費捻出に苦労しましたが、
奥様の日野富子さんは、大変なお金持ちで、息子の義尚を将軍にせんが為に、湯水の様にお金を注ぎました。
湯水の如くお金を消費できる財源は、
通行料金 (関銭)や銀行 ・証券会社からの政治資金 (土倉、借上 ・米相場師からの付け届け) 等々でした。
彼女の財力で幕府が動いていたと云っても過言でありません。
しかし、銀閣造営に対して、彼女はお財布の紐は解かなかったとの事です。
お子さんができるとかまってもらえないお父さんと、どことなく・・・。
こんなに汗をかかれた女性がおられたにも関わらず、
女性の皆さん達を卑しむ世に持って行った殿方、ちょいと穢 (けが) らわしい発想じゃござんせんか?

<侘び (わび)・寂び (さび)・幽玄 と 禅>

尚、わび ・さび ・幽玄と密接にリンクしている 「禅」 につきましては、
「舞 絽 倶 日本文化と服 ・小物 」 で語っていますので、そちらをご覧下さい。
、茶の湯、枯山水は、
「わび(侘び)・さび(寂び)と禅」「禅宗 禅 ZEN の触り」「禅宗 ZEN 栄西 の触り 1」
「禅宗 ZEN 栄西 の触り 2」「禅宗 ZEN 道元 の触り」「道元と北条時頼」
「佐野源左衛門常世と北条時頼」「道元と時頼と蘭溪道隆」「鎌倉新仏教の時系列」
「再び、栄西 ・道元、新仏教」「臨済宗伸び、曹洞宗それ程」 

<室町時代の生け花、茶の湯、枯山水>

こちらも、「舞 絽 倶 日本文化と服 ・小物 」 で語っていますので、お手数をかけますがご覧下さい。

生け花 ⇒ 「生け花 池坊」  茶の湯 ⇒ 「茶の湯 千利休」  枯山水 ⇒ 「枯山水 日本庭園」」

室町時代の わび ・さび ・幽玄 とは ⇒ 「禅 わび さび 幽玄 と 服」

<わび ・さび ・幽玄と服>

わび ・さび ・幽玄の文化 (発想 ・考え方) が日本人の感性をより研ぎすまさせました。

「幽玄」 を広辞苑で引いてみますと、
 1 奥深く微妙で、容易に計り知ることのできない事。味わいの深い事。情趣に富む事。
 2 上品で優しい事。優雅な事。  (文学論 ・能楽論を除く。)
と説明されています。
まんよう時代の「大らかな大胆さ」。
みやびな世の「大自然の中での優雅さ」。
わび ・さびの世の  「限りなき繊細さ」。

余計なもの?を除き、限りなく小さくした空間に於いても、その中に全宇宙を表現しようとする心。
この心音 (根) は、今の私達にも継承されています。
マイクロ ・ミクロの世界の半導体、医療。 日本人の 「神の手」 の繊細技術。
私ども、服の世界でも貫徹されています。
洋服の歴史が長い西洋の方々 (特にパリ ・ミラノの皆さん) はビックリされます。

「どうして、見えない所に、そんな繊細な事をするの!」

例えば、ジャケット。表地と裏地の間の処理方法です。
パリ ・ミラノの皆さんから見れば、裏地側もそんなに気にされません。相手の目線に殆ど侵入しませんので。
ジャケットを脱いだ際に 「ちらり」 と観える位ですから。
そんなイメージですので、表地と裏地の間にはお気を使う訳がありません。
表地と裏地の間の世界は、
しっとりとしたカーブを出す為の布切れ込み、シャープなライン保持の為の芯地等々の空間が広がっています。
彼の地の皆さんは、その世界はお構いなしです。(但し、基本的な処理は施されています。)
これを確認する事は、ちょいと困難を来すかもしれませんが、チャンスが生じましたら、裏地を解いてご覧下さい。
の様な感じで、日本のお針子さん達 (縫製工場) は、微細な箇所まで神経を使ってお仕事なさっています。
合理 ・功利主義の世界とは全く異なる世の中です。

翻って考えますと、この室町の後期時代、、
密 (私) 貿易の堺 ・博多商人、土倉 (金融業者)、問丸 (流通 ・倉庫業者) 等、一部の資本蓄積者を除けば、
終日、農・漁業に従事している方々は、わび ・さび ・幽玄の感性は自ずとお持ちになっていたのかも知れません。
今の世でも、ほんの一部の方々を除けば、欧米の方から揶揄される、規格化された小さな箱の空間に、
全宇宙を表現し、日々過ごしていますので、素敵な感性はより研ぎすまされているのかも・・・。

やがて、時が流れ、地方分権から中央集権の時を迎えると、
「大胆 ・優雅 ・繊細」 を 「コラボ ・フュージョン ・融和」 する絵師が登場 します。

<綿 ・木綿の生地が出現>

平安時代初期、8世紀の終わり頃に、マレーシア・インドシナ半島の方々が、
なぜか三河国に漂着し、その際、熱帯 ・亜熱帯産の木綿の木の 「種」 を携帯していて、それを育てようと
トライした所、気候・風土条件などがマッチせず綿素材を生み出すことができなかった様です。
故に、長期間、服の素材は 「絹」 と 「麻」 と 「紙」 でした。
この時代の海外貿易により木綿を輸入していた感じですが、
インポートものは何時の世も 「お高い」 訳ですので庶民の皆さん迄は行き渡りません。
しかしどの様な経緯で可能になったのか不明ですが、
三河国で木綿の木が栽培可能になり、綿素材が国内で供給される事になりました。
それでも、庶民の方々が日常に着用可能になったのは室町時代後期から安土 ・桃山時代くらいだったそうです。
今でも、綿の産地は 「浜松」 ですのでこの時より変化していません。
絹と違い綿は、植物繊維ですので化学染料の無い時代では 「きれいな」 色には染められませんでした。
だから勢い 「土」 色に近いアースカラーと 「藍染め」 が綿のファッションカラーになります。
これにより、服の素材が一つ増える事になりました。
室町時代から綿の産地でもう一つ有名な所は 「備後」 の国、今の兵庫県西脇市です。
国産デニム ・ジーンズは殆どこの地区で生産されています。

<番外編 華の室町時代、足利義満の奮闘>

室町時代で一際華やかであり、平和であった足利義満時代、彼の権力への飽き無き追求につきましては、
「舞 絽 倶 日本文化と服 ・小物 」 で語っていますので、そちらをご覧下さい。

足利義満と後円融天皇は同年で従兄弟・・・・・・→  「足利義満 一時の華やかさ」
義満の幼年時代・・・・・・→  「足利義満はとてもラッキー」
足利幕府は、広義門院のお陰で 「ほっ」・・・・・・→  「足利義満はラッキーx2」
足利義満と後円融天皇とのバトル・・・・・・→  「足利義満 v.s.後円融天皇」
義満のバックを守るお三方・・・・・・→  「足利義満はラッキーx3」
後円融天皇を支える皆さん達・・・・・・→  「アンチ足利義満軍団は?」
三条公忠は右往左往・・・・・・→  「足利義満による大イジメ」
大人げない後円融天皇・・・・・・→  「後円融上皇による反撃」
後円融上皇、窮地に陥る・・・・・・→  「足利義満の更なる攻撃」
もてに、もてた、足利義満・・・・・・→  「足利義満を取り巻く女性達」
とってもおちゃめな足利義満・・・・・・→  「応仁・文明の乱⇒侘び・寂び」

<番外編 禅寺、鎌倉 ・京都五山と旧仏教系、門跡寺院>

こちらもお手数ですが、クリックでご確認をお願いします。

「鎌倉五山の順列」「京都五山の順列」「鎌倉 ・京都五山の年代順」
「禅寺以外の旧仏教寺院」「禅寺以外の門跡寺院」「そうだ京都、木枯らし寺院?」


  室町時代の衣装の続きは、又、後日にいたします。 お楽しみに・・・。


 戦国時代の衣装の歴史は全く不明です。この時代の文化の中心、京都につきましては 

「戦国時代、空白の衣装時空、京都」 でご覧下さい。
 

★   リ ン ク 先   ★
平安朝 十二単等 絵 ZIPANGU  春夏秋冬の十二単の彩色画をご覧頂けます。
奈良朝 吉祥天女 絵 ZIPANGU  吉祥天女像に彩色し、蘇らせました絵をご覧頂けます。
舞絽倶 日本文化と服 ・小物 「舞倶」日本文化と服について語る ZIPANGU のブログです。

     


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