麻上下と継上下について 「徳川実紀 付録」 (江戸時代後期に作製された書物) に |
「(綱吉) 御代の始までは、上下は麻のみを用ひしときけり。(当時より精好綾文などに成りたるを) 今より再び
古の風にかへし、裏付けし上下をも禁じ、麻のみを用ひしめば、華美を除くの一端ともなるべし。 中略
諸大夫の人々も平日白小袖を着るに及ばず、縞また小紋の小袖、心のままに着すべし。又、
継上下といふ事を始め、麻の肩衣に裏付けし袴など、心のままに着すべしと許されける。」 と有ります。 |
これは徳川吉宗の政策としての記述ですので、継上下はこの頃からの服 ・衣装と考えられます。 |
「羽織」 |
武士の羽織は当初、お出かけ (旅を含む)、野外スポーツ (鷹狩り) 用でしたが、
1804年文化頃より、いつでも・どこでも・だれでもの服になりました。 (平時常服に) |
「青標紙 (あおびょうし)」 大野広城 (1788〜1841) 編 1840〜41年刊 |
「羽織は足利家の時、道服といふ物あり。此の一名を羽織と云ふ。帯をしめずしてはふり懸けて着する故の
名なり。昔は常に着せず。旅行などに風を凌ぐ為なり。今は羽織といふ物、礼服の様になりぬ。」
「御紋付御羽織の事、 中略 役羽織とて、役服となれり。
遠御成の節、御徒組頭 (おかちくみがしら) 茶縮緬単羽織。御徒は平生共 黒縮緬の単に、茶紐也。 中略
御小人目付 (おこびとめつけ) 、御玄関番、中之口番、黒口の合せ羽織。
又、オランダ人 登城之節、公方様には御麻上下の上に、御羽織をお召しに成られ御覧なり。」
☆ 何と、阿蘭陀 (おらんだ) の方が江戸城にお見えになっていました。 |
「我衣 (わがころも)」 加藤曳尾庵著 文化時代 (1804〜1817年) 頃 |
「羽織は絹の単を本とせり。下郎より始る物に非ず、又、礼服にてもなし。閑居の時着る物の上に羽織りて、
客に対面する時は、取りて脇に置きたり。慶長 (1596年) の時より心安き人には、
羽織のままにて対面したり。元来塵よけにて、衣類の汚ざるやうに、倹約にて心づきたるもの也。
何時の頃よりか、下郎の上にも、礼服のやふに思ひて、後すすもの羽織を仕立て、
或いは、袷 ・綿入にても着し、袴を着して公儀をも勤むる様になりたり。」 |
最初は、カジュアルアウターであった羽織がやがて平社員さんのお仕事着になり、
やがて、庶民 (農作業・商業従事者) の礼服になっていった感じです。
但し染色紋付は御法度で、縞 (ストライプ柄) のみだったとの事です。ストライプは格落ちだったみたいです。 |
そして、菱川師宣のメジャーな一枚 「見返り美人」。 |
後にヨーロッパの絵描きさん達を唸らせた 「浮世絵」。その浮世絵の創始者と云われている菱川師宣。
万葉の頃より衣にプリント (摺り) していた技術が進化し、江戸時代初期には、海外からの情報により、
「和紙」 に印刷する技法を会得いたしました。 ここに、製版業が start する事に。
出版界にとっては革命的な事。 仮名草紙⇒絵草紙⇒印刷本 廉価の為、販売部数は当たれば大増刷。
印刷スピードの違いこそあれ今の世と構造は一緒。 その絵読本の販売増に大貢献したのが絵師 師宣。
文字だらけのパソコンDOS時代 ⇒ デジタル写真と添え書きのブログの違いの感じで、
どちらが勝 ? かは、火を見るよりも明らか。 ブログをやっておられる方は、皆さん絵読本作家です。 |
やがて、「絵」 そのものだけに需要が。浮世絵は庶民の世界でのホット(流行り)な話題絵。
故に、必ず 「ファッション」 とは切り離せません。 相互リンクみたいなものです。 当然今の世も。 |
そこでご覧下さい 「見返り美人」。 これは肉筆画 (手書き絵の事。ニクヒツは如何にも響きが悪い?)
紅地に金、赤、青、白糸でお花柄などの刺繍を施し、お袖スリット有りの振り袖。
白羽二重のインナーウェアー。
常磐色地に金、緑糸で刺繍された幅広の帯。
お髪 (ぐし) は髻 (もとどり) と途中を白羽二重で結わえ、シンプルなべっ甲製の櫛と笄 (こうがい)。 |
私ども ZIPANGU は、振り向きポーズが構図的に無理があると考えています。
菱川師宣は、当初恥ずかしがり屋のお嬢さん姿態をそのままスケッチしていた所、
今ひとつ、面白みに欠けたので、お洒落好きな師宣は、思わず 「エィーッ」 と後ろ向きに???。
それとも、一方の雄の 「shunga」 技法のアクロバティック構図なのかしらん?
菱川師宣さん 「ソーット」 お教え頂けませんでしょうか。 それとも 「自分でお考え。」 かも。 |
☆ 師宣の晩年の作品と云われています見返り美人。彼のお住まいは人形町だったそうです。
そして版元 (出版業者) は大伝馬町でご商売とか。 ZIPANGU のオフィスはこの空間エリアです。 |