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<徳川幕府の武士の式 (礼) 服>

素襖直垂 ・大紋(紋付き)狩衣 (絹)・布衣 (麻)
素 襖  直垂 ・大紋(紋付き) 狩衣 (絹)・布衣 (麻)

「小直衣」 は、将軍 (征夷大将軍) のみ着用可。
「狩衣」 は、四位以上の服。生地は絹 (紗) で文様柄有り。色は不定。インナーは白絹。
「直垂」 は、侍従以上の服。生地は絹 (精好織り)。色は紫 ・紅以外は不定。インナーは白絹。
「大紋」 は、旗下の内、五位の服。生地は麻。色は何でも。家紋を付ける。インナーは熨斗目 (のしめ)。
「布衣」 は、無位で将軍お目見え以上の服。生地は麻。色は不定。インナーは熨斗目。形は狩衣で紋無し。
「素襖」 は、平士 (並の侍) の服。色は不定。インナーは熨斗目。

* 精好 (せいごう) 織りは、絹織物で緻密、精巧で美麗な生地。
* 熨斗目は、生地は無地の練貫、袖の下部分と腰部分に格子縞や横縞を織り出した小袖。
* 素襖は侍烏帽子で、他は折烏帽子。  布衣は 「ほい」 と読みます。

<武家 (武士) の公服 (お仕事着)>

継上下(裃)上下(裃)
  継上下 (つぎかみしも)     上下と熨斗目小袖
上下 (裃)」(かみしも)

江戸時代劇 ・江戸城シーンで見られますが、
本来は、top も bottom も同色。
bottom は長袴。 topの前見頃は袴inに。

偉い方・・・生地は精好織り、文様など有り。
並の方・・・生地は麻で、bottom「半袴」。

最初は 「御目見え」 以下の上下役迄の公服。
最下位のお侍は
「羽織袴勤 (はおりはかまづとめ)」 とて
上下は着用不可であった感じです。
それが何れの御時より、なし崩し的にo.k.に。
更に、庶民の方々までも
婚礼葬式等に、麻上下の衣装になった様子。

継上下 (裃)

肩衣と半袴を継上下と称したとの事。
top と bottom は異素材 (違う生地)。
色は何色も、無地染め、冬は裏地を付けたとも。

麻上下と継上下について 「徳川実紀 付録」 (江戸時代後期に作製された書物) に

「(綱吉) 御代の始までは、上下は麻のみを用ひしときけり。(当時より精好綾文などに成りたるを) 今より再び
 古の風にかへし、裏付けし上下をも禁じ、麻のみを用ひしめば、華美を除くの一端ともなるべし。 中略
 諸大夫の人々も平日白小袖を着るに及ばず、縞また小紋の小袖、心のままに着すべし。又、
 継上下といふ事を始め、麻の肩衣に裏付けし袴など、心のままに着すべしと許されける。」  と有ります。

これは徳川吉宗の政策としての記述ですので、継上下はこの頃からの服 ・衣装と考えられます。

羽織

武士の羽織は当初、お出かけ (旅を含む)、野外スポーツ (鷹狩り) 用でしたが、
1804年文化頃より、いつでも・どこでも・だれでもの服になりました。 (平時常服に)

「青標紙 (あおびょうし)」 大野広城 (1788〜1841) 編  1840〜41年刊

「羽織は足利家の時、道服といふ物あり。此の一名を羽織と云ふ。帯をしめずしてはふり懸けて着する故の
 名なり。昔は常に着せず。旅行などに風を凌ぐ為なり。今は羽織といふ物、礼服の様になりぬ。」
「御紋付御羽織の事、 中略 役羽織とて、役服となれり。
 遠御成の節、御徒組頭 (おかちくみがしら) 茶縮緬単羽織。御徒は平生共 黒縮緬の単に、茶紐也。 中略
 御小人目付 (おこびとめつけ) 、御玄関番、中之口番、黒口の合せ羽織。
 又、オランダ人 登城之節、公方様には御麻上下の上に、御羽織をお召しに成られ御覧なり。」
☆ 何と、阿蘭陀 (おらんだ) の方が江戸城にお見えになっていました。

「我衣 (わがころも)」 加藤曳尾庵著 文化時代 (1804〜1817年) 頃

「羽織は絹の単を本とせり。下郎より始る物に非ず、又、礼服にてもなし。閑居の時着る物の上に羽織りて、
 客に対面する時は、取りて脇に置きたり。慶長 (1596年) の時より心安き人には、
 羽織のままにて対面したり。元来塵よけにて、衣類の汚ざるやうに、倹約にて心づきたるもの也。
 何時の頃よりか、下郎の上にも、礼服のやふに思ひて、後すすもの羽織を仕立て、
 或いは、袷 ・綿入にても着し、袴を着して公儀をも勤むる様になりたり。」

最初は、カジュアルアウターであった羽織がやがて平社員さんのお仕事着になり、
やがて、庶民 (農作業・商業従事者) の礼服になっていった感じです。
但し染色紋付は御法度で、縞 (ストライプ柄) のみだったとの事です。ストライプは格落ちだったみたいです。

<外圧により、武家 (武士) の公服 (お仕事着)が変化>

1853年、東インド艦隊、ペリー提督、浦賀に来 (きた) る。
いよいよ外圧の始まりです。
この時点でファッションが変わりました。

「続泰平 (太平) 年表」 竹舎主人編 に依りますと、

「大広間に出御、御立烏帽子 ・御小直衣をお召しになり、御上段へ、七重の御厚畳、錦にて包み、
 四方の角へ紅の大総付け飾り 以下略。」

上は、1857年、ハリス米特使との江戸城に於いての様子で
彼が椅子に座っていた為、これに対抗し厚い畳を7枚も重ねてその上に将軍、徳川家定の席を作ったとの事。
目線の位置は徳川家定の方が勝っていたみたいです。
日本国代表とて目一杯、威風堂々とお洒落してお会いになった家定さんとっても素敵です。
又、厚い畳は将軍のみならず、交渉役の外国方奉行の方も使用したそうです。(衣装は継上下の肩衣と半袴)
時は一変、風雲急を告げたものですから、動きづらい長袴などは不便と感じたのか、
1862年に、上下と熨斗目小袖の着用を禁じ、
羽織と襠 (まち) 高半袴を着用とのお触れ書ぎが発布される。(武江年表、斎藤月琴著)
これにより、官僚達 (奉行、役人) は継上下を止めて、「羽織袴」 の出で立ちになりました。

* 襠はタックで、襠高ですのでタックの深い物。

<桂離宮と 本阿弥光悦⇔俵屋宗達 と日光東照宮>

物事を間 (あわい) を端折って、分かりやすく?、単純化した、二元論。
中国古来からの発想法。この時代 (とき) は、朱子学が担当しました。
今は、このパソコン事態がその世界。  「0 or 1」、「YES or NO」。

みやび文化 (王朝文化) の掉尾を飾ったと云われている、「桂離宮」。(両方、江戸時代初期に完成。)
新興荒くれ軍団、祖父の一言で三代目襲名でき、感謝の、「日光東照宮」。

両者の感性の間 (あわい) をしっかり埋めた本阿弥光悦と俵屋宗達。

「四季草花下絵和歌巻の竹図」光悦書 ・宗達画畠山記念館 (荏原製作所)
「犬抱上図」俵屋宗達Freer Sackler Galleries フリーア美術館
「白楽茶碗 (銘 不二山)」本阿弥光悦承天閣美術館 2007年春増築open予定
「田家早春図」俵屋宗達醍醐寺
「風神雷神図屏風」俵屋宗達出光美術館 2006年 9/9より
「槇檜図屏風」俵屋宗達石川県立美術館
「舞楽図屏風」俵屋宗達醍醐寺
「源氏物語関屋澪標図屏風」俵屋宗達静嘉堂文庫美術館

* 荏原製作所の創業者は、能登国 守護大名 畠山氏の末裔です。

桂離宮と日光東照宮の間を取り持つ作品群。  「0 or 1」の間は、この様な感じになります。

無駄を省き、削ぎきった美しさ  本阿弥光悦⇔俵屋宗達  これでもかの装飾過多?の美しさ
   愛  (紫) 桂離宮          間 (あわい)        憎  (赤) 日光東照宮
伝統色の虹色環表
両極端って本当は 「裏腹」 「隣り合わせ」。間 (あわい) の分量が、とっても多いと思われませんか?

<刺繍職人(縫箔師)から 絵師 菱川師宣へ>

本阿弥光悦⇔俵屋宗達は京都の方々ですが、    (京都編の続きは 「東福門院 ・雁金屋 ・尾形光琳」 で)
どっこい、お江戸日本橋にも町人 (商工業者) からアーティストが出現します。
そのお方は、浮世絵師の祖と云われている菱川師宣 (1631?〜1694年) です。
彼は、安房国 (今の千葉県安房郡鋸南町付近) で生まれています。
彼の父は小袖の刺繍職人 (縫箔師 ・縫物師) でしたので、師宣も幼い頃から見聞きしていた思われます。
彼は、たぶん1657年 1月 「振り袖火事」 と云われる明暦の大火でお江戸が焼け野原になった後に、
絵の勉強かたがた、一旗上げようと江戸の街に出かけてきたのではないかと?
この時代の江戸の人口は明らかでありません。
1669年(寛文9年)の時点で京都の人口が36万人程ですので、(武士を除く)
振り袖火事の前の江戸の人口はその1.2倍としても約43万人。
火事での死者は10万人以上と云われていますが、どの様な感じなのか想像しかねます。
幕府で統計が取れた1721年で江戸 50万人、大阪 38万人 1719年 京都34万人 。 (武士を除く)
この様な三都物語の感じですが、やはり、今一、感じが掴めません。
守りの堅い?江戸城でさえ炎上した訳ですから、とても悲惨な状態だったと思います。
被災にあわれた方々には心からお悔やみ申し上げますが、運良く生き残った方々にはビッグチャンス到来。
 1 既存文化崩壊による再構築の必要性。
 2 復興事業で富を手にした商人。
 3 一旗上げようとフレッシュ人材。      の3拍子が揃います。
時間の経過が 「せつなさ」 を忘れさせ、気分一新せざるを得ない新しき世の中がやってきます。
皆さんどの様なご努力をされたか知れませんが、1672年刊行の 「武家百人一首」 で
菱川師宣は、その絵読本の挿絵作成者、絵師 菱川吉兵衛としてデビューしている事が確認されています。

見返り美人はにかみ美人
菱川師宣の 見返り美人当初は? はにかみ美人

そして、菱川師宣のメジャーな一枚 「見返り美人」。

後にヨーロッパの絵描きさん達を唸らせた 「浮世絵」。その浮世絵の創始者と云われている菱川師宣。
万葉の頃より衣にプリント (摺り) していた技術が進化し、江戸時代初期には、海外からの情報により、
「和紙」 に印刷する技法を会得いたしました。 ここに、製版業が start する事に。
出版界にとっては革命的な事。 仮名草紙⇒絵草紙⇒印刷本 廉価の為、販売部数は当たれば大増刷。
印刷スピードの違いこそあれ今の世と構造は一緒。 その絵読本の販売増に大貢献したのが絵師 師宣。
文字だらけのパソコンDOS時代 ⇒ デジタル写真と添え書きのブログの違いの感じで、
どちらが勝 ? かは、火を見るよりも明らか。 ブログをやっておられる方は、皆さん絵読本作家です。

やがて、「絵」 そのものだけに需要が。浮世絵は庶民の世界でのホット(流行り)な話題絵。
故に、必ず 「ファッション」 とは切り離せません。 相互リンクみたいなものです。 当然今の世も。

そこでご覧下さい 「見返り美人」。 これは肉筆画 (手書き絵の事。ニクヒツは如何にも響きが悪い?)
紅地に金、赤、青、白糸でお花柄などの刺繍を施し、お袖スリット有りの振り袖。
白羽二重のインナーウェアー。
常磐色地に金、緑糸で刺繍された幅広の帯。
お髪 (ぐし) は髻 (もとどり) と途中を白羽二重で結わえ、シンプルなべっ甲製の櫛と笄 (こうがい)。

私ども ZIPANGU は、振り向きポーズが構図的に無理があると考えています。
菱川師宣は、当初恥ずかしがり屋のお嬢さん姿態をそのままスケッチしていた所、
今ひとつ、面白みに欠けたので、お洒落好きな師宣は、思わず 「エィーッ」 と後ろ向きに???。
それとも、一方の雄の 「shunga」 技法のアクロバティック構図なのかしらん?
菱川師宣さん 「ソーット」 お教え頂けませんでしょうか。 それとも 「自分でお考え。」 かも。

☆ 師宣の晩年の作品と云われています見返り美人。彼のお住まいは人形町だったそうです。
   そして版元 (出版業者) は大伝馬町でご商売とか。 ZIPANGU のオフィスはこの空間エリアです。

★ お断り。この頁の画像は 「衣装 ・服」 を皆様に紹介する為、画像加工しています。
   故に、決して 「絵」 としてご覧にならないで下さい。
  「絵の余白」 を無視していますので、「絵」 に成っていません。菱川師宣さんには大変失礼しています。

<江戸時代の浮世絵冊子本は CanCam と同じくファッション雑誌>

この江戸時代でも、殿方の娯楽は言わずもがな。では女性の皆さんはと云うと、
「観桜会」 や 「紅葉狩り」 等のピクニックを除けば、bP は、「歌舞伎」 の鑑賞。

1603〜1629年 京の都で出雲の阿国、男装風で歌って踊るショーを演じる。 後年に徳川家康らも観劇。
1629〜1652年 女歌舞伎が禁止され、若衆歌舞伎が人気を博す。ヤングボーイの女装ショー。
1652〜1673年 大好評だった若衆歌舞伎も禁止される。
今の宝塚を感じるショーアップ、女性は若衆追っかけに走り、余りの人気に幕府は禁止令。
1673年江戸で市川団十郎、荒事 (アクションもの) 歌舞伎スタート。
1678年大阪で坂田藤十郎、和事 (ラブストーリーもの) 歌舞伎スタート。

美少年アクターに対する、女性の 「胸キューン」 は世の常?
この時代 (とき) のファッションを担う 「呉服屋」 さんは、彼女らをほっときません。
菱川師宣は呉服屋さんの註文により、ファッション雑誌の絵を描きます。

「小袖のすがたみ」(1682年) 「当世早流雛形 (とうせいはやりひながた)」 (1684年) 等の
ファッションカタログ雑誌 (雛形本)。
「恋のみなかみ」 「恋の楽 (たのしみ)」(1683年) 等の綺麗、美味しい、痩せる、3点セットの Fashion 誌。

*痩せるは この当時、ファッションではありません。人気女性体型は 「ぽっちゃり美人」でした。

江戸のファッション雑誌
粋なディスプレイ
上図の4点は 「小袖のすがたみ」 1682年刊

左図も同上。屏風に小袖を掛ける粋なディスプレイ
        ゲルハルト・ブルヴェラー・コレクション

両図ともに 「小袖雛形本」 (ファッション冊子)
イラストレーターは菱川師宣です。
小袖柄デザインは、背面右肩から左裾に流れるライン
具象柄は大柄で大胆。 上図の右図はたぶん若衆。
若衆(美少年)は、当時女性 ・男性を問わず大人気。

そんなこんだで、菱川師宣は江戸時代最初の超売れっ子イラストレーターに。
ただ、未だこの時点では、山水画と同じくモノトーンで墨摺り絵。
多色カラー誌が出現するのは、1765年、鈴木春信の錦絵まで待たなければなりませんでした。

菱川師宣から鈴木春信 (1725?〜1770) の間の 「小袖雛形本」 は 「続 江戸時代の女性衣装」 で。

<江戸時代 人気(もてた)男性の容貌変化>

武力を後ろ盾にした世の中が、徳川綱吉、元禄時代(1688〜1704年)を以て終わりを告げます。
吉良上野介 (徳川政権シンパシー派) と浅野内匠頭 (帝の権威存在認識派) との諍 (いさか) いに発する
1702年12月、赤穂浪士の吉良邸襲撃事件。
江戸市中での久方ぶりのドンパチにはお江戸市民も興味津々。以後、刃を構えた争い事は、暫しのお休み。

人気 (もてた) 男性像も変化を来します。 (注意 心的現象の心の問題は除きます。)
元禄以前・・・口髭 (ひげ) 有り。 もみあげが長い。
元禄以前・・・口髭 (ひげ) 無し。 もみあげをカットしてさっぱり目に。
外面は、質実剛健、荒くれ、強がり風 から 優美繊細、きりり、なよなよ風に変貌する事に。

<人気(もてた)男性のファッション 井原西鶴お薦め (江戸時代前期)>

井原西鶴 (1642〜1693年) (大阪在住) 俳諧師で浮世草子 (絵入り小説) の創始者。
淡島寒月 (1859〜1926年) (江戸馬喰町出身) により、西鶴は日本文学界に登場。
西鶴の 「色道大鏡 (しきどうおおかがみ)」 での、遊び処 (遊郭) に出かける出で立ちとして、

▽ 額は広く。(頭の天辺まで剃りをいれる。) 鬢 (びん)は自然に。後れ毛は無用。
   髪は油 (整髪料) で一日三回の手入れ。就寝時は髪が乱れない様、布を巻いて寝る。
   眉は尻上がりにカット或いは抜く。髭は徹底的に抜く。歯は白。爪は直線カット。

▽ 羽織
    紋無し黒地 裾丈と襟幅は流行で 羽織の紐は細く。
▽ 小袖 (着物)
    表地は色指定無し、しかし、裏地は必ず、茶と黒のみ。
▽ 肌着 (インナーウェアー)
    白無垢 (無地)、黄無垢、浅葱無垢、紫無垢。 白と紫色は襟が必要。
▽ 下帯 (アンダーウェアー) 通称、褌。
    白が極上で、next は緋色。
▽ 履き物 (シューズ)
    草履が良く、next は雪駄 (せった)。 雪駄は草履の裏に獣の皮や金物をつけた履き物。
▽ 編み笠 (帽子)
    新品よりもやや使い古し気味のもの。

*井原西鶴の浮世草子のデビュー作、「好色一代男」(1682年刊) の挿絵について、
  原本は西鶴が描いてますが、大当たりして、江戸での重版に際し、菱川師宣が担当とも云われています。

<人気(もてた)男性のファッション 山東京伝お薦め (江戸時代中期)>

山東京伝 (1761〜1816年) (江戸深川出身) 絵師としては北尾政演 江戸読本の創始者。
京伝の 「通言総籬 (つうげんそうまがき)」 (1788年刊)での、登場人物、艶次郎の出で立ち (服装) として、

▽ 羽織
    黒無地の八丈 丈は長く前垂れ気味 羽織の紐は平紐。
▽ 小袖 (着物)
    憲房染色で染め抜き小紋文様。
▽ 肌着 (インナーウェアー)
    黄八丈と薄藍裾回し付きの縞小袖 (着物) を3枚と紺縮緬に螺旋絞りを施した襦袢。
▽ 帯 (ベルト)
    渋めの緑青色の地に小さな柄が飛んでいるもの。
▽ 頭巾
    頭に被らず、ストール (襟巻き) として使用。
▽ 髪型
    本多髷 (まげ)。髷 がとても細い髪型
▽ 床屋 (理髪店) で髪カットして2日後が頭に馴染んで宜しいとの事。

*八丈は、八丈島 (現在、東京都管轄) で織られた平織りの絹織物。色合いにより、黒八丈、黄八丈と。
*憲房染色 憲房色 やや赤茶味の黒。京都の染匠、吉岡憲房が始めた橡(つるばみ)染め。剣術家でも。
*染め抜き小紋文様は、山東京伝が羽織っています。「山東京伝似顔」 京都大学付属図書館でご覧下さい。
*本多髷は本田髷とも、髪型(ヘアースタイル)は下図の粋でお洒落な通人とお主も悪?の商人でご覧下さい。

京伝のお洒落さは、虚の戯作本の嘘能書きでなく、実の生活を伴うものでした。
彼自身、身を以てオシャレを提言しています。
彼は、時の才色兼備な吉原女性のお仕事場 (遊郭) を本で紹介しています。
その一つが1791年お正月出版の 「青楼昼之世界錦之裏」 板元(版元)蔦谷重三郎です。(京大付属図書館)
この年の3月に、寛政の改革、風俗乱しの罪で、重三郎と共に御用 (お縄) になります。
京伝は手鎖50日の刑。多作だった彼は、この間お仕事ができません。やや憔悴。
刑が空けた後、咎められた洒落本 (吉原遊郭、遊里関連本) をきっぱり止め、読本、黄表紙のみに。
更に、この時の男性お洒落ファッション小物アイテムのナンバーワンだった、煙草入れ屋も始めます。
又、この前年、山東京伝は30歳 (数え) で結婚しています。
お相手は、何と、ここも実践、吉原、扇屋の女性、菊園 (お菊) さんです。
しかしながら、彼女らの幸せは3年間でした。お菊さんが病気でお亡くなりになったのです。
京伝はショックの余り1年間、筆を折ったそうです。
その後の彼は、更にビックリ、40歳の年に、吉原、玉屋の女性、玉の井 (百合) さんを身請けしています。
百合さんはこの時23歳。お二人は、素敵に、お洒落に、面白おかしく、京伝が亡くなる迄、暮らした感じ?。
仲が良過ぎたのか、彼女も2年後に他界する事に。

通人の本多髷 (本田髷)

粋でお洒落な通人
商人の本多髷 (本田髷)

お主も悪?の商人
<通人と商人の本多髷 (本田髷)>

ご両人とも本多髷 (本田髷)です。

通人・・・髷をまとめ後方折り返し無しの前方出し
商人・・・髷をまとめ後方三分、前方七分出し

通人は、勢いよく。 商人は、穏和にかしらん?

<粋でお洒落な通人とお主も悪?の商人>

商人さんも素晴らしい着物をお召しになっています。
如何にも、人の良さそうな優しいお人の感じ。
真っ白い足袋もキリリとして、
何処かこざっぱりしているのですが・・・・・。

それに引き替え、隣のお兄さん。
山東京伝のお薦めスタイルを地でいってます。
アウターは、黒のロング羽織と藍の小袖
インナーは、茶色、藍絞り、偽紅絞り
頭巾は、襟元、ストールに。
髷は、先細、本田髷。
足袋は履かず、素足 (生足)
このスタイル(靴に素足)昨今何処かで見た感じ?

女性の皆さん、さあ、どちら?
オシャレと、お金に 思案橋?
両方 GET で 万々歳。
そこが、女性の素敵な所以 (ゆえん)。
おとこどもは、日々、励まないと・・・・・・・。

*草双紙 (くさぞうし) は、江戸中期以降からの挿し絵中心の仮名書きの本の総称

赤本表紙が赤1678〜1750年頃子供向け本、桃太郎などのおとぎ話等々
 黒本表紙が黒1744〜1775年頃歌舞伎 ・浄瑠璃などが題材本
 青本表紙が浅葱色1744〜1775年頃歌舞伎 ・浄瑠璃などが題材本
 黄表紙表紙が黄1772〜1810年頃大人向け本 山東京伝の「江戸生艶気樺焼」など
 合巻 1804年頃から黄表紙の文字部分が増加し長編物に

*読本は、1748年頃大阪 ・京都で 読み物中心 1804頃江戸も大流行 滝沢馬琴の 「南総里見八犬伝」 など
*浮世草子は、1682〜1789年頃迄、大阪 ・京都で 遊里 ・芝居を中心に町人世界を描く 井原西鶴から
*狂歌絵本は、1781〜1789年頃、狂歌が大ブーム、狂歌に挿し絵を入れた本 四方赤良(大田南畝 ・蜀山人)
*滑稽本は、1804〜1830年に大人気 町人日常世界を描く 十返舎一九の 「東海道中膝栗毛」 など
*漫画本は、1814年、 「北斎漫画」 から 葛飾北斎が、足の向くまま、気の赴くまま漫然と描いた画
*人情本は、1818年頃より、洒落本から転じ、読本の砕けた感じで、江戸市民のラブストーリ 為永春水より

<歌舞伎界の助六ファッション>

市川団十郎のお家芸で、1713年、江戸山村座に於いて、二世団十郎が 「花館愛護桜」 で助六を演じたのが
最初と云われている 「助六由(所)縁江戸桜」。その登場人物 「助六」 と 「意休」 の出で立ち色。

意休・・・金糸 ・銀糸刺繍で多色使いキンピカファッション。
助六・・・浅葱色 (ブルー系) の裏地付き黒地の小袖に紅のインナーウェアーと紫色の鉢巻き。

とかく、派手な意休は、成金趣味でダサくて下品な衣装サンプルにされています。
しかしながら、よーく考えると、シャープな切れ味がある助六ファッションは意休のお陰です。
意休あっての助六です。助六だけですと全く栄えません。
キンピカファッションは、世の中の通過儀礼になるのではないでしょうか?
趣味が悪いと嘆いても致し方なく、早い通過を恋い願う ZIPANGU です。
当然、その期間をけっ飛ばすのが、お洒落で、素敵で、美しい、のは云うまでも有りません。
歌舞伎芝居を楽しんだ江戸の方々は、どの様にお考えだったのか興味が有る処です。

<江戸時代男性と現代男性のファッションセンスの違い>

江戸男性と現代男性は、同じく日本人の筈です。否、間違いなく日本人です。

お洒落な江戸男性が生まれた訳は

小袖 (着物) だったからです。(流行としてのお袖丈の長短などはその時々で変化していたと考えられます。)
表地を固定したとして、裏地の色、襟や裾回しの色、を江戸男性はご自分で選べたのです。
羽織のパーツの紐にしても、丸紐、平紐、素材、フリンジ、レリアン紐?まで、何でも選択可能。
即ち、何万通りの組合せが有り、ご自分の力強い好き嫌い意志で、
この世に二つと無い、貴男だけのファッションを創造できたのです。

しからば、現代男性のファッションは

洋服ですので、「伝統の有る海外ブランドにお任せ」 で大丈夫です。
例えば、メンズジャケット 1945年から61年間
シルエット(肩幅、ウエストがストレート或いはカーブ、お袖幅、身幅、丈等)には変遷が有りますが、
一番大きな違いは、インナーの覗ける分量の変化だけです。
分かり易くは、ボタンが2ヶから3ヶになっただけです。
変えたのは、ビートルズの4人でした。日本国内では彼らの提案からかなり遅い導入でしたが。
釦が3ヶになった分、胸 V ゾーン 面積が縮小してシャツとネクタイの色見せの重要性が増しました。
「オシャレさ」 は、ブランド頼りで、歩く広告塔に我慢で、既に十二分です。 とても楽チンちんです。

そんなのが嫌な貴男へ

いとも簡単です。素敵な彼女の為に、億劫がらなければ、貴男ブランドの服が出来上がります。
素敵なジャケットには、
夏物でさえ背裏と云う裏地が付いています。釦も前に3ヶ、お袖には、6〜8ヶ。
ポケットも左胸に1カ所、ウエストに2カ所。ベント(後ろセンター明き)をなくす事も。
与えられた条件は江戸男性の方々と遜色がないとお思いになりませんか?
メンドイ (面倒くさい) は、超ーステキな女性には決して振り向いては貰えません。 かしらん?
裏地、釦、は豊富です。これで貴男のジャケットはオリジナル
もし、その伝手 (つて) が無い貴男は、私ども ZIPANGU がお手伝いいたしします。
日本の服の歴史のフロントページに 「メール」 ボックスが有りますのでそちらから一報下さい。
(人気男性からここ迄の間、「江戸の恋 田中優子著」 を参考にしています。)


続きは、又、後日にいたします。 乞うご期待。
 

★   リ ン ク 先   ★
平安朝 十二単等 絵 ZIPANGU  春夏秋冬の十二単の彩色画をご覧頂けます。
奈良朝 吉祥天女 絵 ZIPANGU  吉祥天女像に彩色し、蘇らせました絵をご覧頂けます。
舞絽倶 日本文化と服 ・小物 「舞倶」日本文化と服について語る ZIPANGU のブログです。

     


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