明治時代のファッションセンス 3 Maccafushigi

明治時代、およそ20年経過後、欧化主義一辺倒政策に疑問を持ち始める感性豊かな日本文化とファッションの逆襲

< 明治20年迄に総ての天然素材 (天然繊維) が供給可能に >

 明治時代を向かえる以前に、絹、麻、木綿の天然素材は日本で生産されていました。
 毛 (ウール) 素材のみ、試みはしましたが、量産までには漕ぎ着きませんでした。
  しかし、この明治時代に入り、すべての天然素材の量産が可能になったのです。

  絹・・・・・1872年 (M 5) 官営富岡製糸場が開業     「絹 (シルク) と絹製品について」
  毛・・・・・1880年 (M13) (東京) 千住製絨 が開業「麻」 ファッション(fashion)T
  綿・・・・・1882年 (M15) 大阪紡績会社の設立「綿」 ファッション(fashion)T
  麻・・・・・1886年 (M19) 近江麻糸紡績会社の設立「毛」 ファッション(fashion)T

 以上の様に、4大天然素材の糸の量産工場はこの日本で確保された事になります。(毛 ・麻の質は別として)
 とは云え、現在の made in 中国 ・ベトナム・マレーシア・タイ・インドなどの廉価な糸・製品と違い、
 庶民の皆さんに行き渡る程の生産量、及び、生産原価でなかった事も事実です。
 更に、毛 ・麻に関しましては、クォリティーの良い原糸が高価な為、一般的な素材しか生産できず、
 高品質な素材は、輸入に頼らざるを得ませんでした。この事実は、現在においても全く同様です。
 唯一、絹のみハイクォリティーな繭、繊細な生産技術を以てして、海外輸出品の地位を保っていました。
 日本資本主義、資本蓄積の原初は、繊維産業 = 絹の素材 (生地)・絹製品の輸出が担いました。
 そして、それらの絹糸、絹生地、絹製品を作り出したのが、
 繊細で、たおやかなで、勤勉な、ゴットハンド (神の手) を持つ明治の女性達でした。
 この状況が、繊細性はイザ知らず、今現在の 「中国製」 「ベトナム製」 の繊維産業興隆とイコールです。
 ベネトン、ファーストリテーリングを始めとしたアパレル軍団の製品供給は、今や東南アジア諸国です。
 お陰様で日本全国至る所で、感性にさえ目をつぶれば、同じ様な製品?が廉価で着用可能になっています。
 (綿織物の国内生産額が輸入額を上まったのが1885年 (M18) で、本格的に輸出し始めるのは昭和初期。)

 * 尚、天然素材の詳しい事は、各々の右サイドリンクでご覧下さい。

 やがて、高分子化学の力をかりた化学繊維が登場する事になるのですが、もう少し後の時代になりますので、
 その点につきましては、又、後に展開します。
 何れにせよ、ファッションを引っ張る方々は、アバンギャルド・アドバンス感覚をお持ちになり、
 尚かつ、所得が備わっていませんと何ともなりませんので、
 次ぎにほんの一握りの洋服 (洋装) 化できた方々に関して見てみます。


< 明治時代の差異表示 華族 士族 平民 >

 1872年から作製された「壬申戸籍 (じんしんこせき)」 により、細かい事は別として、(皇族除く)
 日本にお住まいの皆さんは、出身別に華族、士族、平民と云う三つの呼称で称されるようになりました。
 華族は、旧公家 142家と旧各藩藩主(大名) 285家。
 士族は、旧旗本(江戸幕府官僚) と旧各藩藩士など。
 平民は、それ以外の方々。(厳密には、僧、尼、神官の方は戸籍には職業記載。)
 壬申戸籍では、良し悪しは置いといて、「家制度」 ですので、「個人」 単位でなく 「家」 単位でした。
 当然、所得は華族の方々が多い訳ですから、ファッションに関しても彼ら・彼女らが最初に洋服 (洋装) を
 取り入れたと思いきや、佐にあらず、それらの方々のファッションセンスはコンサバティブですので
 そうは行きませんでした。
 「明治時代の衣装と感性 其の壱」 で紹介しました、「1871〜73年 岩倉遣米使節団」 の画像の5人中で、
 唯一、和装 (着物) は、岩倉具視だけです。他の方は皆さん洋服 (洋装) の出で立ちです。
 洋服 (洋装) の方々は、旧藩士 = 士族で、江戸幕藩体制を崩壊させた御仁 (ごじん) です。
 欧米列強諸国の植民地化政策に対するアンチと云う名目があったとは云え、
 江戸時代での 「下克上」 に他ありません。
 豊臣秀吉は、下克上の成功の暁に、「豪華絢爛 金銀世界」 でご自分を表現しましたが、
 どっこい、彼らは 「欧米ファッション世界」 で成り上がりを表現しました。
 この表現は、決して彼らを否定していません。概して 「革命 (革新) は辺境の地」 からですから。
 中央宮廷革命、中央幕府革命では、これ程スピーディーに物事が進行しなかったやも知れません。
 更に、薩長土肥の藩士の方々のみが明治時代を牽引したかと云いますとそうとも言い難いです。
 確かに、お役人 (明治政府高級官僚) のトップリーダーは彼らが占めました。
 しかしながら、新規日本国家建設の実務者達の半分以上は、旧江戸幕府官僚の方々でした。
 更に、やや時間は要しましたが、後に権威保持をされた方々は、旧徳川 ・松平家の方々。
 例えば、最後の最後まで 「賊臣」 と称された状況でも果敢に闘いを挑んだ会津藩主
 松平容保 (かたもり) (1835〜1893) の末裔の方々らのご活躍です。

 月日の流れは、怖ろしいくらい過去を忘却させてくれます。 一番短いのが 「75日」。(人の噂)
 しかし、事象はすぐ忘れ果てても、脈々と連なる日本人の感性部分は 「心」 が何とはなしに覚えています。
 その様な素敵な感性部分を華族令をモチーフとして ちょいと覗いてみます。


< 華族令 >

 華族令は、1884年 (M17) 7月に公布されました。
 大東亜戦争以前 (1945年) 迄、日本の世にれっきと存在した立派な?権威 差異表示道具でした。
 通称、「公、候、伯、子、男」 と云われる5階層のものです。

 今は昔より今の今でもランキングが大好きなわたくしども人間。
 生活の一部と化したネット・ウェブ世界では、今現在 「Googleランキング」 が 「神」 の存在です。
 「アルゴリズム (algorithm)」 と云う 「人間が介在しない」 と云う乗りの 「順位付け」 とされています。
 一方、言わずと知れた「人間世界」 (動物世界も同じ)
 二人以上の存在で、必ずや 「優劣」 が生じます。(勝るも劣るも 「基準」 次第)
 そのナンバーワン基準は、品格を無視し、的確に表現すると 「力持ち=お金持ち」 になります。
 そして、我が国、日本では権威順位を 「保証」 する存在が 「天皇」 でした。(今現在も)
 故に、「権力」 を保持しない 「天皇」 が 「権力を持ちたい方」 により
 無くてはならない 「存在理由」 でした。
 世界で人一倍、相手の方々をおもんばかれる感性を持ち合わせていた日本人。
 そんな究極の感性が 「天皇」 を崇め敬い続けた日本の歴史になっています。
 従いまして、他の国々の権力奪取の方法と異なり、
 未だかって 「天皇」 の存在 (天皇地位争いではなく) を抹殺した方が出現していません。
 天皇の存在なしには 「権威を与えて貰えない」 否、「権威自体」 が存在しなくなってしまうからです。

 明治維新と命名されている、徳川幕府 (政権) 抹殺軍団、薩長の下級武士による権力奪取事件。
 彼らにしても、「明治天皇」 の存在無くしては、大願成就する事は不可能でした。
 そして、それまでの既存の権力 (大名諸侯) と権威 (公卿) 保持者に対する懐柔策が
 「華族令」 による 「権威順列付け」 と云う方策でした。
 ここに於いても、心優しい日本人の血脈は、決して前権力者を完膚無きまで抹殺をいたしません。
 前置きはこの位で、
 飛鳥時代より律令体制ができた奈良時代を経て、平安時代から現代まで
 脈々と続いている官位 ・位階制度 (今ですと、大勲位 = 大勲位菊花大綬章などなど)
 江戸時代での
 公卿 ・公家らの朝廷権威保持継承者
 実質権力保持者の徳川幕府、及び各藩のリーダー (諸侯) の方々らの
 皆さんは、伊藤博文を代表とする 「明治新権力者」 により下記の様に処遇されました。


 「公、候、伯、子、男」

  公爵・・・摂関家 徳川宗家 維新への貢献者
  侯爵・・・清華家 徳川御三家 1864〜68年平均年収税額15万石以上の藩 琉球藩王 維新への貢献者
  伯爵・・・大納言 徳川御三卿 1864〜68年平均年収税額5万石以上の藩 維新への貢献者
  子爵・・・堂上家 1864〜68年平均年収税額5万石未満の藩 維新後諸侯 維新への貢献者
  男爵・・・維新後の華族 維新への貢献者

  と至ってシンプルな5階層にランク分けされました。
  イギリス風なら
  公爵 ⇒ Duke  侯爵 ⇒ Marquess  伯爵 ⇒ Earl  子爵 ⇒ Viscountess  男爵 ⇒ Baron
  この下にビートルズ、エルトンジョンが頂いたナイト (Knight) があります。

  先ずは、「公卿、公家」 から


  ★ 摂関家 5家 ★

  500年近く続いた平安時代。その時代一番の 「幸せ」 者であったと思われる藤原道長さんの末裔達

  近衛家 →  藤原忠通 (1097〜1164) の長男、近衛基実 (1143〜1166) がご先祖。
  鷹司家 →  近衛家実 (1179〜1243) の四男、鷹司兼平 (1228〜1294) がご先祖。
  九条家 →  藤原忠通 (1097〜1164) の三男、九条兼実 (1149〜1207) がご先祖。
  二条家 →  九条道家 (1193〜1252) の次男、二条良実 (1216〜1270) がご先祖。
  一条家 →  九条道家 (1193〜1252) の四男、一条実経 (1223〜1284) がご先祖。

  平安末期に近衛、松殿 (消滅?)、九条に分かれ、鎌倉時代初期、枝分かれし五摂家と称される、
  この五家の皆さんはメジャーですので皆さんご存じと思います。1 の公爵位は格的に当然かも。

  平安時代後期の白河上皇の 「院政」 時代より、権力構造が変化しそれ以前の摂関家の趣きが無く、
  鎌倉初期に始まる五摂家時代では他の 「官職」 を含め 「官司請負制」 の装いに。


  官職の序列は

  太政大臣 左大臣 右大臣 (内大臣) 大納言 (中納言 ・近衛大将) 各省の卿  左右大弁 左右中弁
〔大僧正〕 太宰府師(皇太子傳)(中宮大夫)
参議(近衛中将)太宰大弐
正・従一位正二位 従二位正三位     従三位      正四位   従四位   正五位
(因みに、少納言は従五位になります。)

  *官位相当表は 「日本史大事典」 角川書店 を参考にしています。

  ★ 清華家 7家 (旧家)+2家 (新家) ★

  久我 (こが) 家 → 藤原道長のお嬢さんのお婿さん=源師房がご先祖。村上源氏。
鎌倉時代初期の源通親がメジャー。天皇家の危機の際には必ず登場し、打開します。
源通親に関しましては、右のサイドバーでご確認下さい。

  転法輪三条家 → 藤原道長の叔父さん系列 (閑院流)。三条実行 (1079〜1162) がご先祖。
天皇家に嫁ぐ摂関家のお嬢さん達に男子が生まれず、院政時代この家系が間隙を。
実行の妹が藤原璋子 (待賢門院)三条実美 (1837〜1891) はこの家系。
清華家は 「侯爵」 位ですが、三条実美は明治維新に多大に貢献しましたので
一階級特進の 「公爵」 を頂いています。

  西園寺家 → 上の三条実行の弟、西園寺通季 (1090〜1128) がご先祖。
彼は短命でしたが、後の西園寺公経 (1171〜1244) が源頼朝と遠戚となり鎌倉幕府の
覚え愛でたく、更に彼の孫娘さんが後嵯峨天皇 (1220〜1272) のお后になり、
彼女は運良く、後深草天皇 (1243〜1304) を授かり西園寺公経はこの世の春に。
彼の息子、西園寺実氏からの西園寺家は幕府と朝廷の斡旋、架け橋である
「関東申次」 を世襲、鎌倉時代に飛翔する事に。
北山別荘(後の金閣寺)は西園寺家の所有地でした。
江戸幕府末から明治大正昭和に活躍した西園寺公望 (1849〜1940)
(徳大寺家からの養子) はメジャーな存在。又、彼は公卿で最初に洋服で参内した方。

  徳大寺家 → 上の西園寺通季の弟、徳大寺実能 (1096〜1157) がご先祖。
徳大寺、別邸跡地が後の枯山水、「龍安寺」 になりました。

   *三条実行、西園寺通季、徳大寺実能の三兄弟の父は、藤原公実 (1053〜1107)
     母は、藤原光子さん。堀河天皇と鳥羽天皇の乳母 (めのと) としてキャリアを張った女性です。
     彼女のお陰でこの三兄弟は清華家として後々まで栄花を極める事になります。

  花山院家 → 藤原道長 ⇒ 頼通 ⇒ 師実と下り、師実の長子は師通、
そして、師通の弟、藤原家忠 (1062〜1136) がご先祖。
家忠の孫、藤原忠雅 (1129〜1193) の機転で平清盛に取り入り太政大臣に。

  大炊御門家 → 上の藤原家忠の弟、藤原経実 (1068〜1131) がご先祖。
  (おおいのみかど) 藤原経実の息子、藤原経宗 (1119〜1189) が平治の乱で平清盛側に寝返り貢献。

  菊亭家 → 西園寺実兼 (1249〜1322) の四男、今出川兼季 (1285〜1339) がご先祖。
  (今出川家)安土桃山時代の菊亭晴季 (1539〜1617) が豊臣秀吉を 「関白」 に斡旋する。

  広幡家 → 正親町天皇 (1517〜1593) ⇒ 誠仁親王 (1552〜1586) ⇒ 智仁親王 (1579〜1629)
の三男、広幡忠幸 (1624〜1669) がご先祖。

  醍醐家 → 後陽成天皇 (1571〜1617) ⇒ 一条昭良 (1605〜1672) の次男、
醍醐冬基 (1648〜1697) がご先祖。
一条昭良は後陽成帝の九男で摂関、一条家の養子に。

  以上が清華家で、三条家を除き、皆さん決め事通り 「侯爵」 を頂きました。

  ★ 大臣家 (平堂上家) 3家 ★

  正親町三条家 → 転法輪三条家の分家です。三条実房 (1147〜1225) の三男、
正親町三条公氏 (1172〜1237) がご先祖。
明治時代に 「嵯峨」 と改名、嵯峨浩 (愛親覚羅溥傑の奥様になられた方) は超有名。

  三条西家 → 正親町三条家の分家です。正親町三条実継 (1314〜1338) の次男、
三条西公時 (1339〜1383) がご先祖。
何と云っても三条西実隆 (1455〜1537) が超メジャー。
詳しくは 「室町時代中後期の文化人 三条西実隆」 でご覧下さい。

  中院家 → 源通親 (1149〜1202) の五男、源通方 (土御門通方) (1189〜1238) がご先祖。
鎌倉時代初期の有識故実(服飾関係)について通方記載の 「餝抄 (かざりしょう)」 が
京大電子図書館の 「中院文庫」 に所蔵されています。
がしかし、残念な事に今現在は閲覧不可能です。悪しからず。

  以上の家の当主が 「上達部 (かんだちめ)」 「公卿」 と称された方々です。

  摂関家 久我 (こが) 家 ⇒ 平安時代〜
  花山院家 大炊御門家 転法輪三条家 西園寺家 徳大寺家 ⇒ 平安後期、院政時代〜
  正親町三条家 中院家 ⇒ 平安末期、鎌倉時代初期〜
  菊亭家 三条西家 ⇒ 鎌倉末期、南北朝、室町時代初期〜
  広幡家 醍醐家 ⇒ 江戸時代初期〜

  それぞれ各々の時代背景で台頭しています。

  上記、大臣家の3家は、華族令で平堂上家 (禁裏建物空間に出入りが許された家) の階層にされた為
  惜しくも 「伯爵」 を賜る事になります。
  以上の錚々たるメンバーシップスの風貌は 「国立国会図書館」 近代日本人の肖像 でご覧下さい。

  ★ 但し、規則・約束事には 「例外」 が付きもの

  明治維新前なら大臣家よりも階層が下と認識されていた平堂上家の方に、
  何と1の 「公爵」 2の 「侯爵」 位をゲットされた方々が存在します。

  そのお方は、岩倉家の岩倉具定 (ともさだ) (岩倉具視の息子) (1852〜1910) ⇒ 1 公爵
中山家の中山忠能 (ただやす) (1809〜1888) ⇒ 2 侯爵

  その理由は規則に存在する 「明治維新への貢献者」 という事になります。
  この貢献者は、その時点での為政者にとって都合が良く、「お仕事」 を履行して下さった方になります。
  この時の日本のトップリーダーは
  華族令発布の翌年 (1885年) に初代内閣総理大臣になる伊藤博文伯爵 (1841〜1909)。
  徳川幕府から政権を奪取した薩摩 ・長州藩連合軍の内の長州出身者、伊藤博文。
  尚、今現在 2007年6月時点ですが、首相の席に座るのは長州出身 (山口県) 安倍晋三。
  戦後、山口県(長州)出身で首相になった岸信介、佐藤栄作は安倍晋三の母方のおじさんです。
  このコーナーは既に明治時代に突入していますが、一瞬 (ひととき) 江戸時代末期に遡ります。
  (とは云うものの、歴史の結果を知っている私達は末期と記しますが、
   当に 「その時」 に生を受けている方々は全くの当事者。明日どうなるかは誰にも・・・。)

  ◆ 幕末の朝廷、公家模様

  1853年、黒船日本登場は幕府のみならず、京都朝廷にとっても 「天変地異」 の出来事。
  「元寇」 以来、570年間、何人たりともわが日本を侵す事がなかった平和な島国日本。
  それを覆した蒸気エンジン積載の軍艦、船長はアメリカ政府の意向を受けたペリー提督。
  このブラフ (脅し) により、結果的には 「明治維新」 を向かえる羽目になりました。
  その間、1853年〜1868年の京都朝廷の動きを概略してみます。

  その時の天皇は孝明天皇 (1831〜1866/12/25) (在位 1846〜1866)。数え36歳の短命。
  幕府も外交案件につき、京都朝廷にお伺いを立てる状況に陥ります。を守る要の関白は
  1846年、朝廷は幕府に「攘夷 (オランダ人以外の外国・人排斥政策)」 を伝えていた以後、
  朝廷と幕府は外交問題につき打ち合わせを執り行う様になっていました。
  あくまでも神国日本を守る攘夷思想に対して、事前申告相談なしに、幕府は下田条約
  (日米通商条約) をアメリカと締結します。

  その勅許を得る為に堀田正睦(まさよし) (1810〜1864) は上洛します。(1858年1月)
  その際の天皇を守る筆頭補佐は関白、九条尚忠(ひさただ) (1798〜1871)。
  彼のお嬢さんの夙子(あきこ)さん (1834〜1897 公式1833〜1897) は、
  孝明天皇の奥様になっておられます。(後に英照皇太后となられたお方です。)
  九条尚忠はどちらかと云うと幕府協調路線寄りで、条約勅許に対して O.K. 立場でした。
  しかしながら、朝廷総意は孝明天皇の意と思われる攘夷派で条約勅許に反対のスタンス。

  条約勅許に反対側のリーダーは、昔の500円札のモデル、
  岩倉具視 (1825〜1883)、88人の朝廷官僚を募り条約勅許に反対の署名をする始末。
  圧倒的な下級役人達の連署が効き、朝廷からは「条約不許可」の勅令が。
  傷心で江戸に帰る堀田正睦 (3月)。 幕府のリーダーは大老、井伊直弼(1815〜1860)に。(4月)
  岩倉具視の父は堀河康親 (1797〜1859) で次男、岩倉家の養子となり岩倉家を継いでいました。
  又、堀河康親のお嬢さん、紀子さん (1837〜1910) は孝明天皇の奥様のお一人です。
  井伊直弼は大老に就任後、強引にも外交では日米修好条約に調印、
  更に、徳川世継ぎ問題では、紀伊の徳川慶福 (1846〜1866) を将軍継嗣にする振る舞い (6月)
  直弼は返す刀で尊皇攘夷派に対する口封じ作戦 (安政の大獄) 公卿・諸大名・志士の弾圧へ。
  やがて、その反動を食らい、1860年3月3日、雪の舞い散る早朝、桜田門外で斬られあの世へ。
  この間に、岩倉具視は尊王攘夷派から公武合体 (朝廷・幕府一致して国難回避) 派にシフト。
  そのシンボルとしての徳川14代将軍家茂(慶福)と孝明天皇の妹、和宮との婚儀へ。(1862年2月)
  この象徴的出来事に汗をかいたのが岩倉具視。しかし、同僚からは佐幕派と考えられ、
  この時点の関白、近衛忠煕 (1808〜1898) により蟄居 ・洛中追放処分となり以後洛北岩倉で暗躍。
  岩倉家は清華家、久我晴通 (1519〜1575) の4男、久我具堯の息子、岩倉具起 (1601〜1660) が祖。
  堀河家は高倉永家 (1496〜1578) の4男、水無瀬親具の息子、堀河康胤 (1592〜1673) が祖。

  同じく、条約勅許に反対を唱える攘夷派の
  中山忠能 (1809〜1888) も当然、勅許反対に名を連ねます。
  中山家は上で紹介しました花山院家の分家で、中山忠親 (1131?〜1195) がご先祖。
  藤原 (花山院) 忠雅 の同母弟になります。
  江戸時代の後期に中山忠能、及び、彼の息子とお嬢さんが大活躍します。
  先ずはお嬢さんの中山慶子 (よしこ) (1836〜1907) さん。
  彼女は 「明治天皇」 (在位 1867〜1912) (1852〜1912) の母となられたお方。
  彼女の母は、「甲子夜話」 を書いた肥前国平戸藩主、松浦清(静山) (1760〜1841) の愛子お嬢さん。
  慶子さんの事は又後で、そして、彼女の弟、
  中山忠光 (1845〜1864) 僅か20年の生涯。公家きっての若手ラジカル戦士 (過激派尊皇志士)。
  彼の母も、松浦清(静山) (1760〜1841) のお嬢さん、愛子さん。
  そして、彼は当然、明治天皇の叔父さんに当たります。
  お姉さんの慶子さんが禁裏でお仕事をしている際、孝明天皇との間に愛が芽生え懐妊します。
  慶子さんは自宅で無事男の子を出産 (中山家) 以後5年間、明治天皇 (当時は祐宮) は
  中山忠能邸で育ちます。祐宮より8歳年上の忠光は明治天皇の幼いときからの顔見知り仲間の存在。
  祐宮が宮中に帰る際、忠光は一緒に禁裏に上がり彼のお世話係のお仕事 (侍従) をする立場になります。
  この時点で孝明天皇には彼 (祐宮) 以外、男のお子さんがおりませんでしたので祐宮は次代の天皇候補。
  忠光は禁裏を守る藩屏として、尊皇攘夷派の若き先兵になるのは自然成り行き?
  血気盛ん、次代の匂いを感じる空間に居る忠光は、尊皇攘夷の思想を持つ方々により武闘軍団組織
  「天誅組」 の表看板にされます。1863年8月17日大和国で決起するも、翌日に
  「八月十八日の政変」 と云われる公武合体派による尊皇攘夷派への弾圧事件が勃発し壊滅する事に。

  公武合体派閥
   中川宮(久邇宮)朝彦親王 (1824〜1891)近衛忠煕 (1808〜1898)
   松平容保 (かたもり) (1835〜1893) を擁する会津藩  島津久光 (1817〜1887) を擁する薩摩藩
   徳川 (一橋 )慶喜 (1824〜1891)  越前福井前藩主、 松平慶永 (春嶽) (1817〜1887)

   ☆ 中川宮(久邇宮)朝彦親王・・・伏見宮邦家親王(1802〜1872)伏見宮20代の4男

  尊皇攘夷派閥
   毛利敬親 (たかちか) (1819〜1871) を擁する長州藩
   三条西季知 (すねとも) (1811〜1880)四条隆謌 (1828〜1898)三条実美 (1837〜1891)
   東久世通禧 (みちとみ) (1833〜1912)壬生基修 (1835〜1906)澤宣嘉 (のぶよし) (1835〜1873)
   錦小路頼徳 (1835〜1864) 以上の尊皇攘夷派公卿達は長州藩に逃れました。 「七卿落ち」

   ☆ 四条家

・・・

藤原良房 (804〜872) の子、魚名系。藤原隆季 (1127〜1185) が祖。
   ☆ 東久世家・・・久我 (こが) 家の庶流、江戸時代初期に成立。
   ☆ 壬生家・・・藤原頼宗 (993〜1065) の庶流、壬生俊平 (1694〜1729) が祖。
   ☆ 澤家・・・清原氏の庶流、沢忠量 (1637〜1754) が祖。
   ☆ 錦小路家・・・錦小路頼庸 (1667〜1735) が祖。

  尊皇派、錦小路は翌年体を患い他界しますが、残る6名の方々は王政復古により復帰する事に。
  摂関家の皆さんは既得権益側の公武合体派に属していますたので
  明治政府の要職に祭り上げられませんでしたが、次位の清華家、
  三条実美は太政大臣にまで上り詰めていますし、東久世通禧は侍従長、壬生基修は東京府知事、
  澤宣嘉は外務卿、四条隆謌は陸軍中将、三条西季知は参与などに就任しています。

  一方、中山忠光は梯子 (はしご) を外され逆賊の汚名まで受ける身になり長州藩に逃亡。
  窮地に陥った長州藩は翌年、1864年7月19日、京に兵を入れ禁裏を守る会津 ・薩摩藩に戦いを
  挑みますが、あえなく敗退。蛤御門の変 (禁門の変) 尊皇攘夷の長州藩は朝敵になってしまいます。
  更に、長州藩はイギリス・フランス・アメリカ・オランダの国々の艦船から下関に砲弾を撃ち込まれる始末。
  感極まる長州藩は幕府軍の攻撃 (第一次招集征伐) を逃れる為と云われている中山忠光の暗殺を企図。
  長府藩 (長州藩の支藩=長門府中藩) の刺客により若干20歳の忠光はあの世に旅立つのです。
  がどっっこい、彼には身の回りの世話をしていた「トミ」さんとにお嬢さんができていたのです。
  明治に入りそのお嬢さん (仲子) は嵯峨 (正親町三条) 公勝に嫁ぎ、彼女らのお孫さんが浩さん。

  ◆ 江戸幕府の崩壊 藩主達の明治

  公武合体派の様相を呈していた薩摩藩、長州藩とは犬猿の仲であったその薩摩藩が一転、
  土佐の坂本龍馬などの暗躍により、勤王倒幕派に。(1866年1月 薩長同盟)
  そして、彼らの思惑が叶い、「明治の世」 を向かえる事になり、華族令へ

 公爵
  徳川家達(1863〜1940)・・・徳川宗家毛利元徳(1839〜1896)・・・長州藩主
  島津忠義(1840〜1897)・・・薩摩藩主島津久光(1817〜1887)・・・忠義の父

 侯爵
  徳川義礼(1863〜1908)・・・尾張徳川家徳川茂承(1844〜1906)・・・紀伊徳川家
  徳川篤敬(1855〜1898)・・・水戸徳川家(御三家は侯爵に)
  前田利嗣(1858〜1900)・・・加賀金沢藩細川護久(1839〜1893)・・・肥後熊本藩
  浅野長勲(1842〜1937)・・・安芸広島藩黒田長成(1867〜1939)・・・筑前福岡藩
  鍋島直大(1846〜1921)・・・肥前佐賀藩蜂須賀茂韶(1846〜1918)・・・阿波徳島藩
  山内豊範(1846〜1886)・・・土佐高知藩池田輝知(1852〜1890)・・・因幡鳥取藩
  池田章政(1836〜1903)・・・備前岡山藩佐竹義尭(1825〜1884)・・・出羽秋田藩
  尚泰王(1843〜1901)・・・琉球王

 伯爵
  徳川達孝(1865〜1941)・・・田安家8代当主徳川達道(?〜?) ・・・一橋家11代当主
  徳川篤守(1856〜1924)・・・清水家7代当主(御三卿は伯爵に)

  これらの方以外に、27家の藩当主の方々が伯爵に叙されています。

  ◆ 政権奪取した勝ち組、薩摩・長州藩の下級士族達

 公爵
  さすがに1の爵位は該当者無し。と云うよりも爵位給付側ですので・・・・・。
 侯爵
  大久保利和 (薩摩)(1859〜1945)・・・大久保利通 (1830〜1878 )の子息。紀尾井坂の変で他界。
  木戸正二郎 (長州)(?〜?)・・・木戸孝允 (桂小五郎) (1833〜1877 )の養子。
 伯爵
  伊藤博文(長州)(1841〜1909)・・・初代総理大臣西郷従道(薩摩)(1843〜1902)・・・西郷隆盛は兄
  井上馨(長州)(1835〜1915)・・・外務卿黒田清隆(薩摩)(1840〜1900)・・・北海道開拓使
  山縣有朋(長州)(1838〜1922)・・・陸軍卿松方正義(薩摩)(1835〜1924)・・・大蔵卿
  山田顕義(長州)(1844〜1892)・・・司法卿川村純義(薩摩)(1836〜1904)・・・海軍卿
  広沢金次郎(長州)(?〜?)・・・真臣の息子大山巌(薩摩)(1842〜1916)・・・陸軍元帥
 吉井友実(薩摩)(1828〜1891)・・・宮内大輔
 伊地知正治(薩摩)(1828〜1886)・・・宮内省御用掛
 寺島宗則(薩摩)(1832〜1893)・・・宮内省御用掛
  副島種臣(肥前)(1828〜1905)・・・宮内省御用掛佐佐木高行(土佐)(1830〜1910)・・・工部卿
  大木喬任(肥前)(1832〜1899)・・・文部卿 

  以上の方々以外に 「子爵」 「男爵」 位はその他大勢が頂いています。
  尚、爵位につきましては、「華族誕生」 浅見雅男著 を参考にしました。


< 「爵位」 と 「品位」・「品格」・「品性」 >

 昨年の某テレビドラマで 「派遣の品格」 が話題になりました。
 今年はその恩恵で女性官僚をリタイヤーされた坂東眞理子さんがお書きになった
 「女性の品格」 と云う本がめっちゃ売れているとの情報です。
 最近の品格は、藤原正彦著の 「国家の品格」 が走り。
 品格の広辞苑での説明では
 1 物のよしあしの程度。しながら
 2 品位。気品。「―のある女性」 となっています。
 1 はもの、2 は人。 両者に使われる 「詞」 になっています。
 ものに対する品位は、それぞれ皆様方の趣味趣向の範疇になりますのでここでは語りません。
 ここでは専ら、「人の品位 ・品格」 について考えてみます。
 品位 ・品格が備わる条件は
 1 経済的背景 2 時間の余裕 3 お相手を思いやれる心音 (根) に凝縮され
 品位 ・品格はこれらから醸し出される 「優雅な振る舞い」 になると考えています。
 順位付けを敢えてすれば、ベースにお相手を思いやれる心音 (根) があり、
 二番目に、「のほほん」 とできる時間的な余裕、
 最後に奥深く質の高い消費が可能な経済的背景になります。
 公卿であった末裔の方々の 「奥床しい所作」「耳障りが良い響きがある話し言葉」 等の立ち居振る舞い。
 歩く品位 ・品格 ・品性の持ち主です。
 天皇を例にする事は、甚だ礼に欠けますが、
 彼の一挙止一投足、お言葉に品位 ・品格 ・品性の優雅さをお感じになりませんか?
 長ーい悠久の歴史 (時間) の経過を以てして獲得でき得た品位 ・品格 ・品性。
 付焼刃的成金の悪趣味?とは訳が違い過ぎます。
 江戸時代初期、二代将軍、徳川秀忠のお嬢さん、和子 (カズコ) さんは後水尾天皇に嫁ぎ、
 禁裏空間で生活をした際、彼女は、和子 (まさこ) さまと呼ばていたそうです。
 耳障りの良くない濁音は宮中では使用されていなかったとの事。
 わたくしども、アパレル業界でも一時、横文字ブランド採用の際、極力濁音ブランド名を避けました。
 上記の公卿の方々は、江戸時代を通して、経済的背景はトップの方でも下級旗本位の収入でしたし、
 天皇でさえ一万石、綱吉の次代に三万石の収入しかありませんでした。
 一石は一○斗 = 一○○升 = 一○○○合、約180リットル、約150s。
 江戸時代の成人の方が一年間に食する 「お米」 の分量だったと云われています。
 現代は米主食文化だけではありませんので、一概に換算できませんが、
 ほんのちょっと前までなら、日本人にとって 「ご飯」 を食べんが為の追いつけアメリカ文化吸収時代。
 この時代までは美味しいご飯を食べていた方々の約一年分の量になると思います。
 江戸幕府の租税収入は五公五民でマックス180万石。1或いは3 対 180の収入格差。
 こんなに格差が生じていても、悠久の時間の違いで品位 ・品格 ・品性格差は雲泥の差・・・・・。

 所違えど、ヨーロッパの王、王妃 ・貴族の生活振りに模倣近づこうとした行為が洋服ファッションの始まり。
 ちょうどその時期に、日本は明治時代を迎えていました。
 次回からは洋服のグローバル時代に突入した日本の状況を覗いて見ます。
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